絡新婦の憂い
始まり
ふと、寒さで目が覚めた。
いや、夢から覚めたといった方がいいのだろうか。
一之瀬雪香は、肩を震わせながらもそもそと布団から顔を出す。足元から数十センチほど離れた障子に、僅かに隙間が生じていたのである。ほんの数センチほどではあったが、そこから入り込む真冬の風は、身を切るような冷たさだ。
しょぼつく目を擦りながら障子を閉じようとして、不意にその手を止めた。彼女の耳に、遠くから轟々と呻るような滝の音が届いた。
あの滝には、絡新婦が住むと言われている。男を惑わし水中に引き込んでしまうという、怖ろしい逸話をもつ妖怪が――。
想像に耽る思考を追い払おうと、雪香は緩く首を振った。そして、呻りを上げ続ける滝と自身との間に隔たりをつくるように、目の前の障子をぴしゃりと閉じる。小さく鼻をすすって、再び温もりの残る布団の中にもぐり込んだ。
まどろみかける意識の中で、雪香は声を聞いた。それは、轟き止まないあの絡新婦の住む滝壺から、低く這ってくるかのような女の声だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
捜査一 関係者らの証言
「それは、現の滝、又別名では人喰い滝とも。さらには、一部では絡新婦の住む滝とも呼ばれているそうです」
「絡新婦?」
眉根を寄せた後部座席の吾妻鑑に、助手席から淡々とした女性の声が補足に入る。
「もともとは、現を抜かした人々を現実に引き戻すかのような激しい音を立てる滝ということで、現の滝と命名されたそうです。しかし、この滝壺では毎年のように自殺者が後を絶たず、いつしか本来の名称よりも人々は“人喰いの滝”という別称を用いるようになったと言われています。また、この地には絡新婦という妖怪の伝説が残っているらしく、それに因んで一部の地元民からは“絡新婦の住む滝”と恐れられてもいるということです」
「絡新婦というと、男を惑わして死へと誘う女の妖怪か。確かに、絡新婦の住む滝壺に男が身投げしたという伝説が残る地もある」
吾妻の妖怪薀蓄に、いつもの如く運転手を努めるK県警の小暮警部が「さすがは先生。私なんぞ絡新婦と言われても何のことやらさっぱりでしたよ」と頭を掻いた。この赤信号を抜けてしばらく山道を進めば、いずれ目的地へと到着する。正味三十分といったところだろう。
今しがた話題に上った、なにやら呼び名の多いこの滝。言うまでもない、今回の事件現場となっている場所である。正確には、この滝の川上の崖下、そしてそこからほど近い民宿で、それぞれ男の遺体が発見されたのだ。
助手席に座る鈴坂万喜子刑事によれば、その概要は以下のようだという。
年が明けた一月の二週目。三連休の真ん中、日曜日の朝であった。推理作家吾妻の活動拠点であるK県の県庁所在地から車で二時間と少し離れた山間。山道を上へ上へと登れば民家もほとんど見当たらない淋しい地に、そこでは有名な滝があった。それが、件の「現の滝」である。由来は、先ほどの鈴坂刑事の説明の通り。辺鄙な地であるにも関わらず、「日本の滝百選」にも選出されているのだという。知る人ぞ知る、というやつなのかもしれない。
その辺鄙な地に、酔狂な集団が訪れた。K県私立法同大学の「滝めぐりサークル」に籍を置く五人の大学生である。全国各地の滝を巡り歩いては、その記録を残し日本の滝の良さを全国に発信しよう、などというのがその方針であるらしい。このサークルの詳細はここでは割愛することにする。
一泊二日、日曜日の夕方には滝の散策を終え帰路に着くはずだったのだという。日曜日の朝、時刻は七時八分。警察に、「滝の近くの崖から、人が落ちたようだ」という通報が入った。遺体の第一発見者である、一之瀬雪香という女子学生からのものだった。
そして、県警の捜査員らが現場に駆けつけたのはそれから二時間と三十分が経った頃。現場に辿り着いた一同は困惑したという。
通報の際に受けたのは、一人の男性が崖から転落したらしいというものだった。にも関わらず、現場の崖下の岩場からは、言うまでもなく男性の遺体が、そして通報元と思われる古びた民宿の中からも、一人の男性の遺体が発見されたのである。
「崖下の岩場に倒れていたのが、馬場匡明。滝めぐりサークルのリーダー。そして、民宿から絞殺体で発見されたのが、佐山健。同じく滝めぐりサークルのメンバーということですね」
「ええ。残ったメンバーの一之瀬雪香、布施蓉子、そして渡辺紘人によりますと、佐山の遺体の発見が遅れたのは、遺体が物置に隠されていたからということでして。発見した瞬間はまだ息があるのではないかということで外に引っ張り出したらしいのですが、とうに事切れた状態だったようです」
山道に入ってきた。随分と急な坂道である。小暮警部はぐんとアクセルを踏み込んだ。赤ランプをつけた公用車が、気合を入れんとばかりに低い呻りを上げる。
「遺体の状態及び状況から、死亡推定時刻は両者とも、明け方の四時から六時の間と推定されるそうです。昨夜の十一時から三時頃にかけては降雪が認められており、現場には複数の足跡が残っていることから、いずれも降雪後の犯行と考えられます」
「同時間帯に死亡したということは、同一犯による可能性があるということか」
吾妻の疑問に「そのことに関してなんですが」と、手帳を素早く捲る音がする。
「佐山健の遺体は、倉庫の柱にホースで首をくくられた状態で発見されたそうです。そのホースは、発見者らが一度遺体を外に出したため既に解かれていますが、状況から見て当初は首吊り自殺との可能性が考えられました」
「考えられた、ということは、今は別の可能性が浮上しているということか」
「はい。首に巻かれたホースから、馬場匡明の指紋が検出されたんです」
「馬場の遺体発見状況は、事故の可能性を物語っています。佐山の遺体が見つかった倉庫から滝の見える崖まで、馬場の靴跡が残されているのも発見されました。第一発見者らの話によりますと、昨夜は全員酒を飲んでいたそうなんです」
鈴坂刑事と小暮警部の一連の説明を受けながら、吾妻は段々と山中に入る淋しい窓外の景色を眺めていた。窓から臨む山の頂は雪化粧を施し、一層冬らしい光景が外を流れていく。
「酒の席の後、佐山健と馬場匡明は倉庫付近にいた。理由はわからないが、佐山と馬場の間に何らかのトラブルがあったと考えられる。酒の勢いも相まって、馬場はたまたま手近にあったホースを手に取り、佐山を殺害。ふと我に返り、動揺した馬場は、佐山の遺体を自殺に見せかけるための偽装工作を行なった。そして、冷静になるため一人崖付近まで足を運んだが、酒に酔っていたせいもあって誤って足を滑らせ転落。事故死するに至った」
「今のところ、その線が強いというのが現場の見方ですね」
「まるで、自分の考えは少し違うとでも言いたげですね」
にやりとする吾妻をバックミラー越しにちらりと一瞥した小暮警部は「いやはや」と首を振った。
「先生にはすっかりお見通しのようですな。ええ。私は、馬場匡明の死に関しても他殺の線を疑っているのですよ」
「その、根拠は?」
「いくつかありますがね。まず、いくら動揺していたからとはいえ、佐山を殺したあとわざわざ崖の傍まで行くものでしょうか。この季節ですし、ここいらの山中ならば明け方の気温はかなり低いと考えられます。頭を冷すにしても、宿の中でも充分だとは思いませんか」
「疑問視する余地はありますが、根拠とするにはいささか弱いですね」
「根拠というならば他にもですね――」
そんな会話を続けているうちに、鈴坂刑事の「吾妻さん。そろそろ現場です」という声の通り、車はやがて一軒のいかにも古めかしい宿に到着した。民宿とはおそらく名ばかりなのだろう。藁葺き屋根が寒々しく、屋根に積もった雪は今にも屋根ごと崩れ落ちてきそうだ。柱の材木もお世辞にも真新しいとは言えず、寂寥感の漂う外観に吾妻は思わず「随分と味のある宿だな」とぼやいたのだった。
吾妻ら一行は、先に馬場匡明の遺体発見現場を訪れることにした。
滝めぐりサークルの集団が宿泊していた宿から、四つの足跡が仲良く雑木林へと伸びている。
【現場図】
「我々側の手前にあるのが、一之瀬雪香という第一発見者のものです。奥側にあるのが、もう一人の第一発見者、布施蓉子のものですね。いずれの跡も、お二方の靴跡と完全に一致しているので間違いないでしょう」
警部の説明が入った。近づいて見てみると、双方とも行きの規則的な歩幅と比べ、帰りは明らかに乱れた跡になっている。動揺していたのだろう。特に違和感を感じるものではない。その周辺には、捜査員らのものと思われる無数の足跡がてんでバラバラに残されていた。
四つの足跡を辿っていくと、雑木林を数メートル進みすぐに開けた空間に出た。並んだ足跡は、崖の縁より三十センチほど手前で途切れている。遥か眼下の岩場に、人を象ったロープが小さく見えた。高所恐怖症の者なら、間違いなく足が竦むであろうほどの高さだ。ここから転落したのなら、事故にしろ他殺にしろほぼ即死と見ていいだろう。
「先生のおっしゃる通り、馬場は即死だったようです。頭蓋骨骨折、及び内臓破裂。年明けから、全く不幸という他ありません」
だが、それがもし、第三者によった意図的なものだとするならば、被害者の死を単に不幸の一言で片付ける訳にもいかなくなってくる。
視線を移し、第一発見者の二人の足跡から右手に数メートル離れたところに、吾妻ほどの大きさの足跡が残されていた。跡を目で辿ると、寂れた宿よりもさらに奥へと続いている。宿への復路の跡はなく、倉庫からこの崖へと続く一組のみである。
「あれが、馬場のものと思われる足跡です。遺体が履いていた靴と、あの靴跡は一致しました。それと、参考になるかはわかりませんが、現場に倒れていた馬場の上着に、馬場の着用している衣服とは異なる布か何かの繊維が微量ながら見つかったそうです。具体的に何の繊維なのかは、詳しく調べてみないことにははっきりしませんね」
少し川下へと下れば滝があるためか、小暮警部の声は先ほどよりも聞き取りづらくなっている。
「この現場については、このくらいですかね。では、民宿の方でサークルの方々にお話を伺うことにしましょう。何とか蜘蛛の住む滝をご覧になりたいときは、後ほどお連れいたします」
警部の提案を、吾妻は二つ返事で受けた。崖から遠ざかる三人の背後から、轟々と呻くような滝の音が長い尾を引いてついてきた。
「目が覚めたのは、多分六時半を過ぎたあたりだったと思います。時計を見たわけではないので、正確な時刻はわかりません」
青白い顔でそう話すのは、馬場匡明の遺体の第一発見者である一之瀬雪香。艶のある黒髪を肩ギリギリの長さでボブカットにした、いかにも清楚然とした女性である。日本人形を思わせる、白い肌とすっきりとした顔立ちの持ち主だった。
「部屋の障子が少しだけ開いていて。最初はどうして寝る前に気がつかなかったんだろうって思ったのですが、あまり深くは考えませんでした。障子を閉めようとしたら、ふとあの滝の音を耳にして」
「現の滝のことですね」
小暮警部の言葉に、雪香はこくりと頷く。
「今朝は天気も良くて、昨晩積もった雪もとても綺麗だったから。こんなサークルに入っているので、早朝の滝もいいなと思って。それで、同室で眠っていた布施さんを起こして一緒に外へどうかと誘ったんです」
ちらりと隣を見やった雪香に頷いたのは、ロングヘアに白いカーディガンを羽織った女性だった。彼女が、布施蓉子ということだろう。大学生の割には随分と大人びた雰囲気を醸し出していた。切れ長の目をしたきつめの顔立ち所以かもしれない。
「寒いのは苦手でしたけど、私もちょうど目が覚めかけていた頃だったので。二度寝をするにも寒さが邪魔をして、結局そのうち目が冴えてきたんです」
そして、二人して早朝の雪景色の中を歩いていったわけだ。
「そのときに、倉庫の方から崖の縁まで続いていた馬場さんの足跡は目にしませんでしたか」
「崖辺りまで来て、ふと岩場を見下ろしたときにそこで倒れている馬場さんを見つけて。足跡を見つけたのは、そのときでした。まさか倉庫からあそこまで足跡があるなんて、思いもしませんでしたから」
眉根を寄せて証言した。顔立ち以上に、言葉尻もどこか冷淡に聞こえる。と、その証言を静かに聞いていた雪香の手が、不意に蓉子の長い髪に伸びた。
「蓉子、髪に何かついてる」
「え、何?」
咄嗟に髪を手で梳いた蓉子。雪香は蓉子の髪に触れた自身の指先をじっと見つめている。
「これ。蜘蛛の糸、かしら」
「ええ、何よ。気持ち悪いわね」
「さっき佐山を探してたときにどっかで付いたんじゃねえの。昨日掃除したとはいえ、まだあちこちに巣張ってんのかもしれないし」
砕けた口調が、雪香や蓉子からやや離れた位置から届いた。ざっくりとした網目のセーターを着込んだ細身の男が、つまらなそうに立てた肩膝に頬杖をついている。男の指摘に、蓉子は「嫌ねえ」と整えられた眉をきゅっと寄せた。
「随分と年季の入った建物みたいですしね。それで、話の続きなのですが」
やんわりとした口調で話の矛先を戻す警部に、雪香は「すみません、話の腰を折ってしまって」と丁寧に頭を下げる。
「それで――ええと、その後は、二人で慌てて宿まで戻って、渡辺くんたちを起こしにいったんですが」
遠慮がちに言って、雪香は先ほどのセーターの男に視線をやった。目線で名指しを受けた渡辺紘人は、吾妻や警部らの視線に決まり悪そうに居住まいを正した。
「俺は、布施さんの呼び声で目を覚ましました。最初に部屋を見渡して、馬場先輩も佐山もいないから、あれ? とは思ったんですけど。布施さんから馬場先輩のことを聞いて驚きました。同時に、もしかしたら佐山にも何かあったんじゃないかとも」
「馬場先輩、というと、あなた方の中では馬場匡明さんが一番年上だったということですか」
不意に挟まれた吾妻の問いに、渡辺紘人は目をぱちくりさせながらゆっくりと答えた。
「ええ。俺と、布施さんと一之瀬さんは二年生で、馬場先輩はひとつ上の三年生です。佐山も本当は三年なんですけど、留年しているので学年は俺らと同じ二年ということになっているんです」
それが何か、と言いたげな視線の渡辺に、吾妻はいつもの低音ボイスで「いや、どうも」と返すだけである。
「佐山健さんを探した経緯について、お話を伺えますか」
質問者のバトンは小暮警部から鈴坂刑事へと渡る。
「警察に連絡をしたのは、確か一之瀬さんだったよな――その後、俺がもう一度部屋の中を見て、やっぱり佐山もいないって思ったので二人に“佐山もいないんだけど、知らないか”って訊きました。二人とも知らないって言うし、それじゃ佐山を探そうってことになって。
民宿の中を散々探しましたけど、ご覧の通り、民宿なんて名ばかりの小さな建物です。ものの十分や二十分で宿の中は一通り探し終えてしまいました。それからは宿の周囲を探し始めて。実は、あの物置を見つけたのはそのときが初めてだったんです」
佐山健の遺体が押し込まれていた物置のことだ。吾妻らも事情聴取の直前に見たのだったが、これがなかなか分かりづらい場所にあったもので(具体的には、民宿の裏手、しかも雑木林に紛れ込みひっそりと佇んでいたのである)、確かに佐山健の発見が遅れたことに納得するには充分な証言であった。
「最初は、てっきり簡易トイレか何かだと思ったんですけど。一応気にはなったので開けて中を見てみたら」
そこで言葉を切って、渡辺はふるふると首を左右に揺らした。思い出したくもない、という意思表示だろうか。鈴坂刑事は「そうですか」とだけ呟くと、書き込みをしていた手帳を閉じた。乾いたその音は、冬の隙間風の入り込む侘しい宿に思いのほか大きくこだました。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
捜査二 捜査上の考察
「いずれの被害者に関しても、死亡推定時刻の時間帯には容疑者と思われる三人は就寝中ということですので、アリバイはないものとみていいと思います。しかし、いかんせん時間が時間ですからね。アリバイがないのが当たり前と言えば当たり前なのですが」
宿を出て、吾妻ら三人は件の現の滝を眼前にしていた。ほとんど垂直に近い角度で切り立った断崖から落ちる落差の激しい滝は、まさに豪瀑というに相応しい。目測でもざっと五十メートル近くはあるだろうか。轟々という滝の流れ落ちる音に、小暮警部の声はほとんどかき消されてしまっていた。
「彼ら三人に、被害者二人を殺害する動機はあるのですか」
声を張り上げる吾妻に、警部も負けじと怒号のような声で返した。
「それが、これがまたわかりやすいものでしてね。馬場と佐山はいわゆる札付きのワルで、理由をつけては周囲の生徒から金銭を巻き上げるわ、手当たり次第に女性に手を出すわで周囲はほとほと迷惑していたということなんです。しかも、それこそ悪知恵が働くとはこのことですかね、上手い具合に悪さの証拠隠滅を図っていたらしく、被害者も訴えるに訴えられないということだったようです」
「今、法同大学で若宮が聞き込みを行なっています。程なく彼からの報告も上がってくるかと」
鈴坂刑事も珍しく、腹の底からというばかりの声を出した。ちなみに、若宮というのは県警に所属する若宮暢典刑事のことである。おぼっちゃまな見た目の新米刑事だが、正義に燃えるその志は人一倍らしく、何かと署内でも可愛がられているのだそうだ。
「二人を恨む人間は多くいた、ということですね」
警部は額に細かな皺を刻み唸る。
「まあ、その分、容疑者をあの三人に絞り込むのはいささか早計なのでしょうがね」
もし、馬場の死が何者かによって偽装されたものだとしたら。馬場によって偽装されたと見られる佐山の死もまた、その何者かによって作為されたものという可能性がある。佐山殺害にしても馬場殺害にしても、サークルメンバー以外の第三者が夜中にこっそりと民宿を訪れて二人を殺害するということも、理論上は可能である。往復と殺害に要する時間を考慮に入れても、吾妻の住むS市からでもぎりぎり犯行は可能なことになってくる。しかし、そのような非効率な方法を犯人が取るとは考えにくい。第一、佐山の遺体は物置に隠しされており――しかもあのような一見してわかり辛いところだ――馬場の事件が仮に他殺だとするならば、あの靴跡は犯人が細工したということになる。つまり、雪の積もったあの道に、被害者である馬場の行きの足跡のみが残されていたというのは不自然なのだ。外部から犯行に訪れた犯人は、いかようにして自身の足跡を消し去ったというのだろう。そこまで綿密な殺害計画を企てた犯人が、時間をかけて現場を往復するということは、少なくとも吾妻には考え難かった。
「ところで、佐山殺害に使用された凶器のことですが」
「え、ああ。そうですね。これですよ」
警部の懐から取り出した一枚の写真が、吾妻に差し出される。
「どこにでもあるような、ごくごく一般的なものですね」
吾妻の言う通り、それはどこにでもありふれた、あの緑色のホースであった。その性質上、あまり絞殺には適さない凶器のようにも思える。しかし、殺してしまえばそのようなことは犯人にとってはさした問題ではないのだろう。
「もし、彼ら三人の中に犯人がいるとすればですよ。犯人が予め――少なくとも佐山殺しに関しては、計画していたものとは考えにくくなってきます」
「と、いいますと」
「先ほどのお三方に伺ったところ、彼らはこのホースを持参した記憶はないということです。もし犯人が、佐山と何らかのトラブルを起こし突発的に殺人に至ったのだとしたら。車中での先生の推測通り、手近にあったこのホースを凶器として選ぶのは自然なことかと思われます」
「そもそも警部。このホースはどこにあったものなんですか」
吾妻の疑問に答えたのは鈴坂刑事だった。
「このホース自体は、もともとは外の水道のところに放置されていたそうです。蛇口に設置されていたわけではなく、そばにぐるぐる巻きにされた状態だったようです。ちなみに、このホースには馬場匡明のみの指紋がしっかりと残されていました」
「馬場の指紋のみ、か」
「はい。先ほどの渡辺紘人の証言にもあったと思いますが、昨日はサークルのメンバー全員で宿内の掃除をしたそうです。その際、馬場は手洗い場を掃除したそうなのですが、そのときにホースを使って水を流したのだと、後に渡辺からの補足がありました」
「仮に、佐山と馬場両者殺害に真犯人がいるとしたら、被害者の死の偽装過程はかなり入念なものだな。佐山殺害にホースを用いたのは、そのホースに馬場の指紋が残されていたことを記憶していたからか」
吾妻は、凶器のホースが写った写真を穴が開かんばかりに睨みつける。人を喰うという滝の轟音は、目まぐるしく回る彼の思考を喰わんとしているようだ。
ふと、、小暮警部がカーキ色のコートからスマートフォンを取り出した。「失礼。若宮です」とだけ告げると、吾妻と鈴坂刑事に背を向ける。
ものの二、三分も経たぬうち、警部は若宮刑事との通話を終えると二人に向き直った。その表情はどこか苦々しく、吾妻が「これは何かあったな」と直感するのは実に容易であった。警部は告げた。
「どうやら、あの滝めぐりサークルのメンバー、もう少し調べる必要があるみたいです」
「若宮の調べによりますと、以前、滝めぐりサークルには七人ほどのメンバーがいたそうです。現メンバーだったリーダーの馬場、佐山、渡辺、一之瀬、布施。そして彼らの他にも、倉田志穂、小野美雪という二人の女子学生が加わり、総勢七名ですね」
「それは、いつの時点のことですか」
「現在二年生である渡辺や一之瀬らが一年生のときですね。この頃から、馬場や佐山の悪事は有名だったらしく、元メンバーであった倉田志穂は、馬場や佐山の被害に遭ってサークルを退会していたことがわかりました」
「その被害内容というのは」
吾妻の問いに、小暮警部は不快そうに顔を顰める。
「酒の席での暴力沙汰だったそうです。そのときは他のサークルと合同で飲み会をしていたようで、すぐに複数の者が止めに入ったことで何とか事なきを得たみたいです。事なきとはいっても、被害者の精神的ダメージは相当なものだったのでしょう。それから一週間も経たぬうちに、倉田志穂は滝めぐりサークルを去ったそうです」
「小野美雪に関しては?」
「それがですね」
警部は戸惑いの表情を浮かべ、頬を掻いた。
「彼女に関しては、退会の事情はわからないとのことでして」
「わからない?」
「どういうことです、警部」
吾妻と鈴坂刑事が同時に声を上げた。
「何でも、小野美雪は倉田志穂が退会したおよそ三ヵ月後に、突然誰に告げることもなくサークルを辞めたということなんです。もともと、小野美雪はあまり交友関係も広くはなかったのか、若宮もなかなか聞き取りに苦戦しているようでしてね。今、小野美雪のご両親を訪ねているところなのですが、このご両親というのが、どうやらA県に住まいがあるようでして」
A県は、K県からは随分と離れている。聞くところによると、小野美雪は法同大学を中退していたらしい。中退と同時に実家へ帰省した可能性も考えられた。
「どうやら、残ったメンバーにもう少し話を訊く必要がありそうですね」
吾妻の言葉を受け、一行は再び古民家のような宿の中へと舞い戻った。昔ながらの囲炉裏を中央に構えた和室に、滝めぐりサークルの三人がそれぞれ部屋の隅で小さくなっていた。電気ストーブの臙脂の光が、薄暗い部屋を仄かに照らしている。
「みなさんに、少々お尋ねしたことがあるのですが」
改まった警部の声に、体育座りの姿勢で丸くなっていた渡辺が顔を上げた。
「何ですか。俺たちもう、一通り事件のときの様子は話したつもりですけど」
「今伺いたいのは、あなたがたの属する滝めぐりサークルのことです」
鈴坂刑事の平坦な声に、一之瀬雪香が怪訝な表情を浮かべる。
「私たちの、サークルのこと?」
「はい。具体的には、昨年までサークルに所属していた倉田志穂さん、そして小野美雪さんのことで」
「――あの二人が、どうかしたんですか」
口調こそ丁寧なものの、渡辺の顔にはにわかに神経質な色が浮かんだ。
「法同大学での聞き込みの結果、倉田志穂さんがサークルを退会したのは、お酒の席での暴力沙汰があったからだという話が上がってきました。そのことについて、少しお聞かせ願えないでしょうか」
壁際に座る一之瀬雪香と布施蓉子を一瞥した渡辺は、ひとつため息をつくとぽつぽつと話を始めた。
「話っていっても、大した話はできないですけど――ただ、馬場先輩が酒に酔って、その勢いで倉田さんに絡み始めて。倉田さんが嫌がっていると馬場先輩が不機嫌になって。そのうち、佐山が二人をはやし立てたのに倉田さんが怒って。怒った倉田さんに、馬場先輩も怒って、それで一騒ぎになったって感じですかね」
「あれは明らかに馬場さんが悪いのよ。佐山さんだって、あんなに騒ぎ立てるから」
布施蓉子が苛立たしげな声を上げる。
「お二人の暴力沙汰は、校内でも有名だったらしいですね」
「そうですね。いろんなやつが、迷惑していたでしょうし」
渡辺のその物言いは、どこか意味ありげだ。自分たち以外にも馬場や佐山殺しの容疑者はいるんだと、言外に含ませんばかりだった。
「小野美雪さんがサークルを退会されたのも、彼らの迷惑行為に辟易してのことだったのでしょうか」
さらりと小野美雪の話を滑り込ませた鈴坂刑事。だがその瞬間、吾妻は場の空気があまりにもわかりやすいほど一変したのを肌で感じた。息苦しいほどの重い沈黙が、一同を包み込む。まるで、小野美雪という名が忌詞であったかのように。
「そうなんじゃないですか。俺はよく知りませんけど」
「私たちも。あの子、辞める理由を何も言わないままだったし」
蓉子と雪香は互いに顔を見合わせ、渡辺は温度のない声で返す。
触れてはいけない何かに触れた――口を閉ざした三人を、吾妻はそんな疑念の籠もった眼差しで見つめていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
捜査三 新たな事実と吾妻の考察
「現場だけを見れば、少なくとも馬場殺しに関しては、犯人は一之瀬雪香と考えることもできます」
未だ白い絨毯を敷き詰めたような地面に新たな足跡をつけながら、鈴坂刑事は呟く。
「第一発見者が犯人、ってか。定石だな」
ふん、と鼻をならす吾妻に「ですが」と鋭い声が返ってきた。
「各者の証言や現場に残された証拠から、馬場は少なくとも吾妻さんに近い身長で、なおかつ体格もよかったことが想定されます。一般的な女性の中でも特に小柄な一之瀬雪香が、馬場のような大柄な男を突き落とすのは、よほど馬場の意識を他に逸らしておくか、あるいは馬場が抵抗不可能な状態にあらかじめしておくか。酒を飲んでいたとすると、よほど泥酔するまで飲まされたということにはなりますが」
「それに、佐山殺しに関してはあの三人の誰でも犯行が可能だっただろうな。話によると、佐山は馬場とは反対に男にしては小柄だったそうし」
「しかし、いくら小柄とは言え、女性と男性ならばやはり力の差があるのでは。それに、佐山の遺体からは目立った抵抗の跡は見られなかったということです」
三者の推測が交互に飛び交う中、一行は問題となっている雑木林の中にひっそりと佇む倉庫の前にやって来た。サークルメンバーの泊まる民宿以上に古びた見た目のそれには、もう幾年、人が近づいてすらいないような暗鬱とした空気がまとわりついていた。
「あの中の柱に、ホースが括り付けられ、その先に佐山の遺体があったということです。ホースが結ばれていた箇所は大した高さではなく、例えば小柄な一之瀬さんでも充分に偽装は可能であったと考えられます。ただ、ご覧の通りもう長らく人の手の加わっていないところでしたから、蜘蛛の巣はあるわ鼠は出るわで、よくもまあ、あの倉庫を隠し場所に選んだものだと思いましたよ」
そんな場所にたとい数時間でも閉じ込められていたとは、佐山もろくな最期ではなかったことだろう。
「しかし、小野美雪の名前を出したときのあの反応はなんなんでしょうね。まるで、小野美雪という名が禁句であったかのようでした」
木枯らしに肩を窄め、黒いロングコートの襟を立てる。手入れも粗末な吾妻の黒髪を、冷えた風がさわりと撫でた。
「それに関しては、若宮が引き続き調べを進めています。何にせよ、あのメンバーには一癖ありそうな予感がしますよ」
苦虫を噛み潰したような顔で、小暮警部は丁寧に撫で付けられたオールバックの白髪頭に手をやった。人気のない雑木林を見つめながら、鈴坂刑事はぽつりと呟く。
「小野美雪の退会と、殺された馬場や佐山の間に何かあったのでしょうか」
「それが今からわかってくることだろうよ。少なくとも、彼らに後ろめたいことが一切ないとは俺は思わ――」
吾妻の言葉の終わらぬうち、小暮警部は素早い反応を見せた。見るも鮮やかにコートのポケットからスマートフォンを抜き取ると、「はい、小暮」と明瞭な発音で電話口に出る。
一方、警部が話し込んでいる間、吾妻は雑木林の倉庫と民宿とを行き来する足跡を辿っていた。靴跡の向きからして、馬場匡明と佐山健は、民宿の端に位置する手洗い場の傍から出て行き、倉庫の近くまで足を運んだ。足跡が途切れた辺りには、馬場と佐山のものと思われる靴跡が半径二、三メートルほどの範囲の中で幾重にも乱れて残されていた。口論の末、もみ合いになった際に残されたものだろう。そして、馬場は凶器となったホースを手に取り――
「ん?」
喉の奥から搾り出すような奇妙な声を上げた吾妻に、鈴坂刑事が「どうかしましたか」と怪訝な顔を向ける。同時に、通話を終えた小暮警部が「吾妻先生」と二人の元に駆け寄った。
「若宮から、小野美雪について驚くべき証言が手に入ったとの報告がありました。それと、問題の小野美雪の写真が若宮から送られてきたのですが」
捲し立てるような物言いとともに、警部はスマートフォンを吾妻に手渡した。隣から覗き込んだ鈴坂刑事が、猫目を見開き小さく息を呑む。続けて警部の口から発せられた言葉に、吾妻は薄い唇の端を微かに吊り上げた。
蜘蛛の糸のように絡まっていた吾妻の思考が、一本の真実を紡ぎ出そうとしていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
真相 絡新婦の憂い
「この滝には、絡新婦という妖怪の伝説が残されているそうですね」
冷たい飛沫にロングコートを濡らしながら、吾妻は冬空の下にある滝を見上げていた。独り言のようなその口調に、だがか細い女の声が返ってくる。
「そうなんですか? すみません、私そういう話には疎くて」
滝壺から吹く水気を含んだ風に、一之瀬雪香のボブカットが揺れる。灰色のコートから伸びる細い手が、乱れる髪を押さえていた。
「絡新婦という妖怪は、滝にやって来る男を惑わし、滝壺の底へと引きずり込むそうです。殊に妖怪というのは化けることに長けたものでしてね、特に女に化けるものには美女が多いのだとか。絡新婦も、勿論その例外ではありません」
「あなたは、妖怪談義を聞かせるために、わざわざ私をここへと連れてきたのですか」
黒真珠のような瞳が、自分よりもずっと長身の男を睨めつける。だが、当の本人はおどけたように肩をひょいと上げた。
「いえ。これはあくまでも、話の前置きといいますか」
「本題に入ってください。あなたは確か“事件の真相が閃いたので、是非話を聞いてほしい”とおっしゃったように記憶しているのですが」
控えめな物言いながらも、声には刺々しさが目立つ。吾妻はぼさぼさの頭を掻くと、いつものぞんざいな口調に戻った。
「そうかい。それじゃ、単刀直入に言おうか――馬場匡明、佐山健。一連の連続殺人の犯人は、お前さんじゃないのか、一之瀬雪香。いや、正確には、お前と、布施蓉子。お二方の共犯による犯行だ」
男を見上げたまま、雪香は何も言わなかった。構わずといった様子で、吾妻は淡々と話を始める。
「結論から順に説明していこう。最初に、前提として犯人は一連の謎の中心となる靴跡の偽装をする時点で、既に佐山及び馬場の両者を殺害している。理由は簡単だ。犯人は二人の死をあくまでも“馬場が佐山を殺害し、そして馬場自身は事故死してしまった”というシナリオに仕立て上げたかった。そのシナリオを作るには、最もわかりやすい靴跡を残すことが一番だと考えた。だから、降雪最中の午前三時までに両者を殺害し、降雪後の四時以降に偽装工作を施した、ってことだ。
そして、この犯行は単独では限りなく不可能だというのが、俺の推測だ。その最もたる理由は、倉庫を行き来する馬場と佐山の靴跡だな。
現場に残されていたのは、宿の手洗い場付近から倉庫の手前へと向かう、馬場と佐山の靴跡。そして、倉庫から崖の縁へと向かう馬場の靴跡。この三つだけだった。前者はわかるな、馬場と佐山が夜中にでも宿を抜け出して倉庫付近へと行ったってことだ。詳しいことはわからんが、おそらくそこで、二人の間に何らかのトラブルが生じた。普段からすぐに暴力行為に走る馬場のことだ、佐山と口論になりかっとなったんだろう。そこで、近くにあったホースを咄嗟に手に取り、佐山の首を絞め殺害した。
だが、そこでふと我に返った馬場は混乱した。いくら馬場でも、殺人とはさすがに取り返しのつかないことをしたと蒼白しただろうな。悪知恵の働く馬場は、考えに考えた結果、佐山を自殺に見せかけることにした。近くにあった倉庫の中に佐山の遺体を運び、柱にホースを括り付け、佐山の首にも同様にホースを巻きつけておく――見た目だけ偽装するのは簡単だろうよ。だが、それを見破れないほど日本の警察は馬鹿じゃない。ちょいと難しい話になるが、自殺と他殺の場合とじゃ、同じ首吊りにしようとも遺体には全く違った反応が出るものなんだ。素人目にじゃわからないだろうがな。佐山の遺体が、自殺に見せかけた他殺体なのはわかりきっていたってことだ。
そして、偽装を終えた馬場は、冷静になるべく外をふらついているうちに、あの崖の縁へと辿り着いた。そもそも、あんたたちは一日目の晩に晩酌をしていたらしいな。刑事さんたちが渡辺紘人に話を訊いたところじゃ、男組みは相当酔っ払っていたらしいな。特に、酒好きの馬場は一時は泥酔状態だったとか。酒のせいで平衡感覚を失い、崖から転落して不運の事故死。字面だけをなぞれば、さした疑念も浮かばないだろさ」
「男性の刑事さんからも、同じようなお話を伺いました。それで、事件は解決したことにならないんですか」
雪香の言葉に、「それが、ならねえんだよな」と吾妻は続ける。
「さっきもいっただろうが、佐山殺害に関しては①宿の手洗い場付近から倉庫の手前へと向かう馬場と佐山の靴跡、②倉庫から崖の縁へと向かう馬場の靴跡。これらが残されていた」
「先ほどの説明を聞く限り、特に矛盾点はないように思えますが」
「それが、大いに矛盾するんだな。いいかい。そもそも馬場が佐山殺害に使用したホースは、宿の裏手の水道のところに放置された状態だった。渡辺の証言によると、馬場は一日目に手洗い場の掃除を終えた後、使ったホースは元の場所、つまり水道のところに戻したそうなんだ。もし、倉庫の手前で口論になった末に、馬場が衝動的に佐山を殺害したのだとしたら? わかるだろう。倉庫から水道のところに置かれたホースを取りに往復する馬場の靴跡がなきゃその説明がつかないんだ」
淀みない吾妻の説明に、雪香は口を挟もうとはしない。
「だが、俺に言わせるとこの矛盾は大した問題じゃない。というより、この矛盾があろうがなかろうが、倉庫付近の馬場と佐山の靴跡を見る限り、この二人の殺害には一連性があり、しかもそれが単独犯によるものではないことが推測されるんだ。
仮に、この事件が単独犯だった場合の犯人をAとしよう。①及び②の靴跡を見る限り、跡の始まりはどう見ても民宿ということになる。①の跡はわかりやすい。Aは、馬場の靴を自身で履き、宿から倉庫へと向かって歩いていく。その際、自身の――すなわち、馬場の靴を履いた自身のだ――靴跡の隣に、予め用意しておいた佐山の靴跡をA自身でつけるんだ。まあ、若干腰の痛む無様な格好にはなるが、老いぼれた老人でもない限り決して難しいことじゃない。
問題は②の靴跡だ。倉庫までの二人の靴跡をつけた犯人Aは、その後佐山の靴を持ったまま――この時点で佐山は殺されているわけだから、彼の靴を奪うことは造作もない――崖へと歩いていく。勿論、馬場の靴を履いた状態で、だ。だがそこでAは、はたと立ち止まる。何故か? 簡単だな。犯人は、既にこの靴跡の偽装工作を行なっている時点で佐山及び馬場の両者を殺害している。犯人のシナリオでは、馬場はこの崖から誤って転落したということになっている。となると、だ。馬場の足跡はここで完全に途切れていないといけないわけで、他の何者の靴跡も残すわけにはいかないんだ。
この段階で、単独犯であるA一人では、犯行は不可能という可能性が高くなってくる。まあ、崖を伝って岩場へと降りて、そこから何らかの方法で現場を脱出したという奇天烈な方法もなくはないんだろうが、ここはとりあえず現実的に話を進めていくこととしよう。
それならば、どうすれば佐山及び馬場の殺害における偽装は可能なのか? 単独犯が難しいならば、必然的に複数での犯行ということが考えられる。では果たして、その複数とは一体誰なのか。ここで注目すべきなのが、犯行動機ということになるわけだが」
ここで吾妻は、隣で俯いたまま微動だにしない雪香をちらりと見やる。彼女からの反応はない。
「が、ここからは、できればあんたの口から直接話してもらいたいんだがな。あんたと、昨年この世を去った、小野美雪とのことを」
「――どうすれば、美雪は帰ってくるんだろうって、来る日も来る日も考えていました」
滝の轟音に混じり、雪香の声が辛うじて吾妻の耳に届いた。
「でも、いつも堂々巡りで。答えなんて、どんなに考えても見つからなくて。ならば、せめてこの悲しみが、憎しみが。どうすれば少しでも減っていくんだろうって。今度はそればかりを考えるようになりました。そして、やっぱり、憎しみの根源を絶つしかないんじゃないかって、そう思ったんです。
あなたはああ言ったけれど、最初は私一人で二人の殺害を実行しようと考えていたんですよ。どうやって偽装しようとしたのかって? ふふ、秘密です――でも、私が犯行計画を練るために作っていたノートを、ふとした瞬間に蓉子に見られちゃって。恥ずかしさとか焦りよりもむしろ、誰かに知ってほしかったんです。私はこれだけ、美雪を死に追いやったあいつらを憎んでいるんだって」
雪香の独白は、単調なまま続いていく。
「蓉子が協力を申し出てくれたときは、さすがに驚きました。嫌われることを恐れていたわけではなかったけど、やっぱり、変な奴って思われるんじゃないかってくらいは予想していましたから。
あなたの言った通り、あの靴跡は蓉子と二人で偽装しました。宿から倉庫に向かっての、佐山と馬場の靴跡。そして、倉庫から崖へ向かっての馬場の靴跡。これは、蓉子が偽装したものです。崖まで辿り着いたら、そのまま蓉子は自分の靴に履き替えて、宿まで一直線に戻りました。佐山と馬場の靴は、予め同じものを買っておいたんです。
朝になって、私が宿を出て、崖まで歩いていきました。蓉子の行きの靴跡は、そのとき私がつけたものです。そして、馬場の遺体を見つけて帰って来たと見せかける自分の靴跡を残しました。これで、“私と蓉子が、朝崖まで散歩に出て、馬場の遺体を見つけて慌てて戻ってきた”と現場を偽造することにしたんです。本来の犯行時間についても、あなたの言った通りで間違いありません」
「佐山に関しては、遺体を倉庫に隠したメリットの一つに、外に遺体を放置しないことで雪が積もらず、降雪後の犯行と見なしやすくなると睨んだところだろうな。同じく、馬場の遺体に関しても、降雪後の不運な事故と見なされる必要があった。馬場の衣服に付着していた微量の繊維は、馬場の遺体を上から覆っていた布か何かのものだろう」
「そうです。薄い毛布をロープにつないで、崖の上から馬場の遺体に被せておいたんです。朝再び崖に行ったときに、毛布は回収しました。ああ、佐山と馬場の靴や毛布は、崖から川に捨てておきました。重たいものでもないし、無事川に落ちてくれれば、あとは滝が飲み込んでくれますから。手っ取り早い証拠隠滅、ってやつですね」
力ない彼女の微笑みは、あまりにも痛々しい。吾妻は顔を逸らし、相変わらず勢いの止まない滝の流れをじっと見ていた。
「ひとつ伺っても?」と、彼女は問うた。無言のままの吾妻に、構わず問いを重ねる。
「いつから、私たちが怪しいと感づいたんですか。まさか、あの靴跡だけで?」
「靴跡からわかるのは、この事件が複数犯によって行なわれたということだけだ。きっかけは、あんたと布施蓉子の会話だな」
「私たちの、会話?」
「はじめの頃の話だよ。布施蓉子の髪についていた蜘蛛の糸を、あんたが取ってやったときだ」
「蜘蛛の、糸――」
「後から宿の中を徹底的に調べたよ、主に刑事さんたちがね。それと、渡辺少年の証言も役に立った。あの宿で蜘蛛の巣が張っていたのは、手洗い場と、佐山の遺体が隠されていたあの倉庫だけだった。そして、手洗い場の蜘蛛の巣は、宿に到着した最初の日、馬場が掃除をして除去されていたはずだ。布施蓉子の髪に蜘蛛の巣がつくのは、倉庫に行かない限りあり得なかったってことさ。そして、渡辺に訊いたところ、布施は“あんな気持ち悪いところ、誰も好んで行くもんか”という趣旨の証言をしていたということがわかった」
皆まで言わず、吾妻はそこで言葉を切った。吐息交じりの小さなため息は、滝の音に紛れて消えた。
「そんなところで、まさか怪しまれるなんて」
「だが、どれも確信ではなかった。確信に近づいたのは、この写真とある話を、警部からもらったときだったよ」
コートのポケットから出したスマートフォンの画面を、少女に差し出す。雪のような白い手が、吾妻のそれを受け取った。
「思えば、彼女の名前を聞いた瞬間、もしやと、思うべきだったのかもしれない――どことなくだが、似た面影があるんだな、お前たち」
そこに映っていたのは、異なる学校の制服を着て、穏やかな笑みを浮かべる二人の少女だった。どちらの少女も、日本人形を思わせるすっきりとした顔立ちに、雪のような白い肌の持ち主である。春らしい麗らかな陽が二人を優しく包み込み、淡い桜の花びらが散っていた。
「――私にとっては、本当の妹だったんです。たとえ、血の繋がっていない姉妹であったとしても、あの子は」
そこまで言って、一之瀬雪香は崩れ落ちた。スマートフォンの画面に、雫がぽつり、ぽつりと滲む。彼女の堰を切ったような泣き声は、人を喰うと言われて久しい滝壺の深淵に飲み込まれていった。
「小野美雪と一之瀬雪香は、母親の違う腹違いの姉妹でした。幼少期に別々の家へと引き取られたのですが、高校生のときにたまたま部活で他校との合同練習があった際、二人は再会。互いの親には内緒で、時折こっそりと会っていたようです」
一之瀬雪香の去った場所に立ち、鈴坂刑事はそう切り出した。
「しかし、二人がそれぞれ大学生になったとき、たまたま同じ法同大学に進学していたことを知ります。互いに喜びを噛みしめながらも、表面上はあくまで他人として接する日々が続いたそうです。そんなあるとき、小野美雪と一之瀬雪香の姉妹は、馬場匡明という悪魔に遭遇してしまった」
唇を噛みしめて話す鈴坂刑事の声は、一之瀬雪香以上に静かな怒りを湛えていた。
「一目見て、小野美雪を気に入った。馬場が以前、そう漏らしていたと、渡辺が証言してくれました。倉田志穂だけじゃない。小野美雪もまた、馬場や佐山の暴力に苦しみ続けた被害者の一人だったんです。しかも、彼らが小野美雪にしたことは、暴力だけに留まりませんでした」
次第に声が震え始めた鈴坂刑事に、吾妻は「もういい」とつっぱねるように言い放った。唇を真一文字に結び、拳を真っ白になるほど握り締めて黙り込んだ彼女に代わって、小暮警部が後を続ける。
「自殺、だったそうです。大学を中退して、まもなくのことだったと。美雪さんのご両親は、彼女が腹違いの姉である雪香さんと密会していることを知っていたようでした。彼女の死を雪香さんに教えたのは、美雪さんのご両親だったそうです」
二度と会えないと思っていた家族に、再び会うことができた――例え、それが血縁関係のない家族だったとしても、まして姉妹となれば、その喜びはどんなにか大きかったことだろう。馬場匡明という存在さえ現れなければ。
とめどなく溢れ続ける滝の流れを目で追ううちに、吾妻は一之瀬雪香が最後に残した言葉をふと思い出した。
「そういえば、崖に呼び出した馬場さんを後ろから突き落とすとき、私、わざと対面の崖を指さして“あそこに、誰かいる”って言ったんです。そしたら、私の指さしたのと同じ方を向いた彼が、言葉を詰まらせながら呟いていたんです。
“どうして、どうしてあいつが、こんなところに”って。馬場さんがあまりにも対面の崖ばかりを見つめていたから、彼の背中を押すことは容易でした。
私、未だにあの言葉だけが謎なんです。もしよろしかったら、あなたが解いていただけませんか。彼が最期に見た“あいつ”が、一体誰だったのかという謎を」
愛する者との永遠の別れを余儀なくされた少女の魂は、やがて闇に呑みこまれ、そして自身を死へと追いやった男への復讐に燃える妖と化してしまったのだろうか。
ロングコートの裾を翻し、吾妻は咆哮を上げ続ける滝を背にその場を去った。事件を真相へと導く糸口を与えてくれたのは、奇しくも仄暗い滝壺の水底へと人を誘う、絡新婦の糸だったのかもしれない。
初めて、小説の中に図を挿入してみました。
図を載せたにしろ何だかわかり辛いトリック(のつもり)になってしまいましたが…(汗)
なお、舞台及び登場人物は全てフィクションであり、勿論「現の滝」などという滝も現存しませんし、「日本の滝百選うんぬん」という話もあくまで物語上の設定に過ぎないということを、予めご了承くださいませ。