女子の闘争
諸君、今回は男女の闘争の違いについて話をしよう。君たちならば男女の違いなどいくらでも挙げられるだろう。しかして共通点については?
「質問があります、herr Oberst。違いを話すときになぜ共通点を聞くのでしょうか。」
何かね君は。まさか共通点から発する違いというものを知らないのかね。さて、そこの真意は後でじきにわかる。さて、共通点とは何かね?
そうだ。生物だ。これが重要なのだ。すべての生物には共通した本能がある。生存・繁殖だ。そしてこの本能に裏打ちされた闘争だよ。そう、闘争なのだ。
生きとし生けるものは闘争せねば生きては行けぬ。食餌を得るために、より良い寝床を得るために、より良い条件で繁殖するために。そこに性別の差はないのだ。たとえ雄でも雌でもだ。ライオンというものを知っているかね。流石に皆知っているだろう。あれはたてがみがあるのが雌であって、堂々と狩りをしていることは有名な話だ。そうだ。雌であるから、母性があるからより平和的だという事は全く持って間違いだ。人間においてもそうだ。悲しいかな、そうなのだ。女子も男子も闘争を行う生き物だ。その戦い方が違うだけで。
私は少なくとも肉体的には完全なる男だ。そうだ。少なくとも。そしてこの闘争の仕方の差に打ちすえられて自分が何者か見失った者だ。性別?そのようなものが一体この私にどれだけのものだ?煩わしいだけだ。だが、その闘争の時までは確実に私は精神まで男であった。だから問題はないだろう。
さて、諸君。我々男子の脳みそは女子に比べて闘争という面に関しては非常に単純だ。全体の容量の差はどこに消えたのか。多分理論の追求だとか何とかに消えてしまったに違いない。そういやFtMだったか、この脳にも非常に興味深い話があるのだが、それはここで述べる必要はあるまい。だが、闘争に関しては我が子を守るという意味において恐ろしく昔から鍛え上げられてきた女の脳には、そうでなかった男性的脳では勝ち目がないのだ。だから我々男子は直截的行動によって、すなわち優位に立ちうる肉体的闘争を行うのである。しかして、闘争において我々男性に対して進んだ水準、『文化的』水準にあるそれはそのような直截的なものを必要としない。いや、するのかもしれないが、男子にはそれがわからないほど巧妙に隠されている。
原始的な闘争は『文化的』な闘争に対して一定の抵抗が可能である。封じられるまでは。そうだ。私の闘争手段は封じられたのだ、当時。『文化的』闘争とは何か?それは心理戦である。あの女子の噂、それが武器なのだ。それによって敵を精神的に追い詰めてゆくのである。追い詰められたものは悲惨だ。肉体的闘争を封じられ、その『文化的』闘争を行うという考えも術も持たぬ者にとっては、死の方が楽であるとすら確信した。そのようなときに肉体は最早己をこの地上に縛る枷だと錯覚する。体表面から数ミリ、末期においては数センチが、もはや自分であるとすら思えなくなる。そのように感じるのだ。そして追い詰められた精神は自己同一性すらも見失う。しかして女子はこういったうわさの応酬合戦をしていたりする。恐ろしい限りだ。一体どんな精神をしているのか、ご教示願いたいくらいだ。
諸君。男子でも女子でもその本質は闘争である。その仕方が異なるだけだ。諸君、女性の治める世界の方が平和であるという考えは間違っている。結局人間が生物である以上、どうやっても闘争は行われ続ける。例え、諸君が、私が、本当はガラス瓶に浮かぶ哀れな脳みそだけであろうと、電算機の計算回路がその全てであろうと、人間である限り闘争を続けるだろう。
異論はあるかね?この私に異論をぶつけるのもまた闘争だ。さあ、闘争をしようではないか。それが生物たる我々の本質なのだから。
何度でも感想に書き込んで構わない。私と闘争したいのだろう?
お互いに決着がつくまで闘争を続けよう。