名前はなんと言ったかな
欠伸が出るほど午後の授業はなんとも眠い。高校生活も早いもので、気がつけば二年生。これと言って親しい友人がいるわけでもないが、だからと言って誰とも話さないわけではない。一年の頃からクラス替えも無く、クラスメイトも比較的優しい人が多い。
ああ、なんて平和なのだろうか。
グラウンドがよく見える窓際の席。五月の暖かい風が眠気を誘う。大きな欠伸が出そうになるのを噛み殺せば、涙で視界が歪んで見えた。
春の山が薫る、そんな意味をつけられた、私、春山薫は何となく生きて、何となく毎日学校に来てそれなりに楽しんでいる。平々凡々。人はよく言う、普通だ地味だと。
そう言われる事になんら腹を立てることも無いし、寧ろそれでいいと思っている。派手よりも地味に生きたい。目立つよりも陰に隠れたい。そこら辺のモブキャラと化してしまえたほうが楽なんだと思う。
ぼんやりとそんな事を考えながら、もう一度欠伸を噛み殺し、授業早く終わらないかな。と先生の子守唄を聞きながら時間が経つのを静かに待っていた。
「ちょっと、誰か掃除当番代わってよ~」
「何言ってんだよ、今日安堂が当番だろ」
「用事があるのよ!」
午後の授業が終わり、さあ帰ろう。というときに聞こえてきた声。クラスメイトの安堂さんがなにやら掃除当番を代わってくれないかとお願いをしているらしいが、言われた男子生徒は眉を吊り上げ拒否をしている。
では他に誰か代わってくれる人はいないだろうか。そう考えているのか安堂さんが周りを見渡せば、残っていたクラスメイト達は次々に顔を逸らして、話しかけないでくれオーラを出していた。
「ほんとに、時間無いのに……」
安堂さんの少し茶色に染めたふわふわの髪の毛が風で揺れている。そそくさと帰るクラスメイト達が教室の扉を開ければ「わ!」と少し大きな声を出して驚いていた。
「なんだよ、んなビビんなくてもいいじゃん」
「お、おお……わりぃ智也が来てると思わなくてさ」
「はぁ?」
教室入り口で話している男子生徒はなにやら少々脅えながら相手と話している。教室に残っていたクラスメイト達の視線が入り口へに向かうのを確認し、私は静かに動いた。
「……安堂さん」
「え」
入り口で騒いでいる男子生徒の声に掻き消されそうなぐらい小さかったかもしれない自分の声の大きさを苦々しく思いながら、困り顔の安堂さんに手を伸ばしす。
「代わりますよ、用事あるんですよね」
「え、いいの……?」
ぱっと花が咲くように笑う安堂さんに、可愛い人だな。と心の中で思いながらもコクリと頷いて、箒を受け取った。
「ごめんね、ありがとう!」
「どういたしまして。後ろの入り口から出るといいと思いますよ」
前の入り口はいまだに何か騒いでるし。そう言えば、うん! と頷き安堂さんは鞄を持って慌てて出て行った。その背中を見送り、箒の柄を握りちりとりを手に持った。
(早く終わらせて帰ろう)
騒いでいるのを煩いなーと頭の片隅で思いながら、いそいそと箒で掃いていく。箒が床と擦れてザッと音を立てている。箒で掃けば埃が踊る。四方に散らばる埃を一箇所にまとめ、ちりとりで掬い取ろうとした時に背後気配があるのに気がつき振り返った。
「なあ、おま……」
「ぎゃああ! ビックリしたー」
目の前の人物の言葉を遮り思わず叫び声をあげる。本当にビックリして心臓がバクバク鳴っている。
「そんなに驚く?」
目の前の人物は、顔に似合わず眉を下げて柔らかく笑う。
一体どうしたというのだ。てか、目の前の人物はクラスメイト。薄っすら青く染めた髪の毛、無駄に制服を肌蹴させジャラジャラとシルバーのアクセサリーを腕につけている。見た目からもうありありと分かる"不良"に分類される彼。
(……いかん。名前が思い出せぬ……)
ぎゅっと眉間に皺を寄せる私に、目の前の彼は箒とちりとりを見ながら口を開いた。
「今日、春山サンが掃除当番じゃないでしょ? なんで掃除してんの?」
「なんでって……代わったから」
それ以外に何があるよ。そんな気持ちを込めながら眉を潜めて背の高い目の前の名前を思い出せない彼を見れば「ふーん」と声を漏らす。
そんな彼は教室の一番後ろ、誰か分からない席の椅子を引き腰を下ろし背凭れに肘を付き、頬杖をした。
「お人よしなんだねぇ」
目元を細めて笑う目の前の彼が何故私に話しかけてくるかなんて知らないし、理解できない。同じクラスメイトでも毛ほども接点が無いのだ。
「はぁ、そうですか」
なんと答えていいかもよく分からず気の抜けた返事を返すが、それが別に気に障った様子もなく、ずっと微笑んでいるから正直怖い。なぜ、彼は帰らないのだろうか、早く帰ればいいのに。そんな事を考えながら視線を逸らし箒を動かして床を掃く。
「春山サンさー」
「……なんでしょうか」
ちりとりで埃を取り、ゴミ箱に捨てる。そんな動作を何回か繰り返していたところで、いまだ名前が思い出せない彼が再度声をかけてきた。
「俺のこと嫌いでしょ?」
唐突に投げられた言葉に振り返り、彼の顔を見れば口角を上げて笑っている。何がそんなに楽しいのか。ちりとりと箒を用具ロッカーに片付け手を叩く。
「嫌いも何も、考えた事無いですね」
そう、目の前の彼のことを嫌いだ。苦手だ。なんて考えたことは微塵も無い。その証拠に、ここまで会話をしていて名前が思い出せないのがいい証拠だ。
「マジか」
「ええ」
それが何か問題でも? と視線で訴えると彼は少し困った表情で笑い、頬を掻きながら呟くように問いかけてきた。
「そうかー、そうなのか……なぁ、俺って怖い?」
「は?」
言っている意図が分からない。首を傾げれば彼は、ぽつりぽつりと呟いた。
「いやー、俺って見た目こんなんじゃん? だからさ、怖がる奴も多ければ、喧嘩しかけてくる奴も多いわけよ。その上学校もサボってるし、来ても溜まり場にいるわけでさ。社会的にはみ出した俺等ってどういう風に写ってんだろうなーってちょっと気になっただけなんだけどさ」
なるほど。そう納得はしたけど、怖いか怖くないかそんな事を聞かれても正直困る。だって、私は今の今まで何も考えた事がなかったから。
「怖い、怖くないの感覚は人それぞれだし、学校サボったり授業でなかったりは本人が選んだ選択肢だからなんとも言えないけど、人から何か言われて嫌だなとか思えば、やめればいいんだし、やめたくなければそのままでいいんじゃないかなと思うので、正直分かりません」
彼がほしかった答えになっているかは不明だが、私は正直に返答した。分からない、と。
「そっかー……」
そうだね。そうだよねー。と繰り返し呟いていたが、一体なにに納得したのか。うんうん、と頷く彼を一瞥して机の上に置いていた鞄を手に取る。
「それじゃあ、私帰るんで」
掃除をしている間、クラスメイトは帰るか部活に行ってしまい私たち以外誰も残っていなかった。
「春山サン」
鞄を手に取り、出入り口に向かえば、いまだ椅子にすわっ散る彼から声を掛けられ振り向いた。
「ありがと」
見た目から想像出来ないほど優しく笑うから少しだけ驚いたが、御礼は素直に受け取っておいて損はない。
「どう致しまして。それじゃあ、また明日」
そう言えば、なぜか少しだけ驚いた表情を見せたが、直ぐ目元を細めて彼は笑う。にこやかに笑う彼をそのまま置いて出入り口の扉を開ければ、目の前に現れた黒に若干驚いた。
「わっ、すみません」
「おっと、大丈夫か」
目の前の黒い物体から聞こえた声に視線を上げれば、毛先だけ赤く染めた男子生徒の姿。頭のてっぺんの黒から、毛先の赤のグラデーションが綺麗だと思えた。
一度軽く頭を下げて、男子生徒の横を通り過ぎれば、教室の中でなにやら話す声が聞こえる。そうか、彼の友人か。そう理解して廊下を歩く。
「あ、そういや結局名前なんていうんだったっけ……」
階段を降り、昇降口まで出てきても結局彼の名前を思い出せなかった。「まあ、いいか」と楽観的に考え歩みを進める。
教室の窓から、名前を知らない彼が見下ろしている事に気が付く事なんてなかった。
五月の柔らかな風につられて大きな欠伸をひとつ。眠気を誘う日差しが暖かい。