悔恨の飛行兵
白い月明かりが、飛行場に降り注いでいる。夜も深まってきたが、兵舎の食堂では未だに酒盛りを続けていた。
男たちの笑声。食器が触れ合う音。楽器の音色とそれに合わせた手拍子と歌声。宴会の喧騒が、屋外の静寂な月夜の空気に漏れ出ていた。
そんな賑やかな空間から遠ざかる者がいる。今日付けでこの基地に配属された、新人パイロットの一人。飛行帽とゴーグルは身に着けておらず、飛行服のツナギは袖に腕を通さず腰で縛っていて、下の白い長袖の肌着があらわになっている。
ビール瓶を片手に兵舎を抜け出し、滑走路わきの草むらに踏み入っていく。さほど酔っていないようで足取りは確かだ。
丈の短い草むらの中で何か光る。それは打ち捨てられた戦闘機の残骸だった。少し離れた所で足を止め、じっくりと眺めて顔をしかめる。焼け焦げた機首。取り外されたプロペラ。折れた主脚。歪んだ翼。痛々しい新鋭機の亡骸が月光に照らされている。
彼は、恐る恐る歩を進める。辛うじて原型をとどめている左翼の主脚で、突っ張るように擱座した機体は座り悪く傾き、右翼が地面に接していた。
地面に接している方の主翼に近づき、労わるように軽く手を添えた。つい今朝まで新品だった外板は著しく歪んでいる。
「こんな姿にしてしまって、ごめんな……」
軽く頭を垂れると持ってきたビールをゆっくりと歪んだ主翼に撒かす。それから瓶を逆さにして、残りを口の中に流し込んだ。
背後に誰かが近づく気配を感じたが、振り向かなかった。彼は、今は愛機と二人きりでいたかったし、誰かと話をする気にはなれなかったのだ。
そんな心情もお構いなく草をかき分ける足音は近づき、最後には背中に声が投げられた。
「やはり、ここにいたか」
声の主は小隊長だ。特別に操縦技術が優れている人ではないが、経験と知識でそれを補い、今ではこの基地で五本の指に入るベテランだ。部下の面倒見がいいことで知られ、同僚のパイロットからも慕われている。
「申し訳ありませんでした」
「ん?」
「一機ダメしてしまって……」
小隊長は鼻を鳴らし、そのへんに転がる残骸を蹴飛ばした。
「一機なんて物の数に入らん。在っていも無くても、作戦任務は滞りなく遂行できるだろうよ。戦闘機も所詮は消耗品さ」
傾いた戦闘機を前にして、白けたように言う。しかし、視線が新人パイロット移ると、目には対照的に暖かみを帯びていた。
「司令官殿になんと言われたか知らんがね。墜落しかけた戦闘機から脱出する身体さばき、俺はそっちを評価する。咄嗟の判断力は、実戦でも簡単に身につくものではない」
小隊長は胸ポケットから煙草とライターを取り出し、徐に火をつけた。口から吹き出された紫色の煙が、透き通った夜の空気に溶ける。煙草の箱をパイロットに差し出したが、彼は黙って首を横に振った。どこか戦闘機乗りらしくない、生真面目に過ぎる彼の性格を小隊長は嫌いではない。
「才能だと思うんだ、そう言うのって。要するに向いてるんだよ」
「……それでも、しばらくは空に上がれないと思います。司令官が『予備にまともな戦闘機はない』、と」
「確かに、この基地に余分な『まともな戦闘機』は無い」
煙草をかじった口が引きつり、にやりと笑う。イタズラ好きの子供が浮かべるそれに、よく似ていた。
「あれ、何してると思う?」
滑走路の脇に配置されている格納庫の窓から灯りが漏れている。その中で整備兵が働いている気配を、遠くからでも感じとることが出来た。
パイロットは、あることに気が付いた。今も兵舎で喧しく続けられている酒盛りに、整備兵が一人も参加していないことに。
「機体の整備ですか?」
「まあそんなとこだ。この『残骸』のエンジンが奇跡的に生きてた。格納庫にはエンジンが故障して取り外された戦闘機の機体だけがあった、一つ前の型だがね」
煙草の火をブーツの裏でもみ消し、足を格納庫に向ける。追うようにパイロットが続いた。
「ちょっと荒療治ではあるが、上手く完成すればお前はそれに乗ることになる。司令官には俺から伝えてある」
その顔には期待の色が濃く、勢い良く走り出したがすぐに立ち止まる。思いとどまるように『残骸』に振り向いた。
夜空を滑る厚い雲が、月光を遮る。今まで照らされていた『残骸』が、ゆっくりと暗転して夜の暗闇と融け合い、やがて見えなくなった。