艦隊出撃
メビリンから転載
大艦隊の先端に位置するこの駆逐艦は艦隊速度に合わせ、ゆっくりと前進している。
水雷戦隊だけでの行動では、それほど神経質にならなくてもよいのだが、今は状況が違う。背後には、戦艦、巡洋艦などが連なり、猛々しく行進しているのだ。主力艦隊の先鋒を任させることは水雷戦隊の彼らにとって光栄であり、また精神的な重圧でもあった。
「発行信号です! 艦隊転舵!」
見張りの若い水兵の上ずった声が司令室に響いた。艦長は鼻の下の髭を弄りながら、前方のうねる海面を見据えた。
「よろしい」
と、うなずいて丸眼鏡をかけた軍人をちらと見る。航海長という肩書きであるその男は、直ぐに号令を飛ばし、艦は緩慢に舳先を巡らした。
海は時化ていた。艦は波の谷に没したかと思えば、今度は山をよじ登るようにして乗り越える。天候予報艦の報告によると、これ以上の天候の悪化はないらしい。だが、この激しい起伏は、しばらく繰り返させるかと思われた。
舳先に波が叩きつけられ、海水の飛沫をあげている。艦長は砕ける波を、司令室の窓から見下ろした。
そのとき、ふと妻の声が頭の中でよみがえった。
「海は荒れ模様ですね。お気をつけて……」
艦長が海に出る前に、妻のいる病室を訪れたときの事だ。末っ子を妊娠して、床に横たわる妻に、出産に立ち会えないことを詫びた。
彼が病室を後にしようとしたときである。妻は窓の外の遠く、灰色の海を見て言ったのだった。
現在、出産予定日は既に過ぎ去っていた。しかし、艦長は内心で自分が海の上にいることに安堵していた。艦長は知っている。母が子を産むとき、父がどれだけ無力であるかを。そんなとき、仕事で忙しいことは都合のよい事のように思えた。
もう、わが子を自分の手で抱いている頃だろうか。
艦長には妻が幸せそうに子を抱いている姿を容易に想像できた。床の上で純白の衣をまとい、半身を起こして赤ん坊をあやしている姿が。そして、このお勤めが終わり、妻のもとに駆けつけたとき、つつましい笑顔で夫を迎えるのだ。
そこで、艦長の白昼夢はやぶられる。
突然、今までに無いくらいに床が深く沈み込み、水兵たちがうろたえるような声を漏らした。艦の直前に立ち塞がった波濤が舳先に激突する。地震のように艦を揺さぶり、艦首を飲み込むように海水が甲板を洗い、さらに第一砲塔の前に据え置かれた波除に激突した。舞い上がった海水の飛沫が司令室の窓に打ち付けられる。
「敵さんの顔を拝む前に、時化でやられては話にならん」
呟いた艦長の横で航海長が蒼い顔をしてうなずいた。
――生き残らなくては。時化にも、敵にも打ち勝ち、家族の元に帰ろう。
艦長の髭に隠れた口が静かに笑った。