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愛すべき不思議な家族&その後の愛すべき不思議な家族  作者: 桐条京介
その後の愛すべき不思議な家族
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35

 ――解雇。相手の発言による衝撃の大きさで、高木和葉の思考回路は一瞬停止した。

 和葉を気に入らない人物たちに罠をかけられた。降格されるのは間違いないと判断していたが、よもや解雇とは考えてなかった。

 高木家の家計は和葉が支えてるようなものであり、会社を辞めさせられるのは、生活手段を奪われるも同然だった。

 突然の通告に頭は混乱し、何を言えばいいかもわからない。そんな和葉に店長は「話は以上です」と、無上に会話を打ち切る。

「ま、待ってください。いくらなんでも、納得できません」

「でも、理解はできているでしょう。何せ、貴女はとても優秀な方でしたから」

 でしたから――。わざわざ過去形の言葉を使ってまで、和葉の追い出し工作を完結へ向かわせる。

 相手の態度にらわたが煮えくり返りそうだったが、再考するつもりも検討の余地もないと店長の目が告げていた。

 知らない間に罠を仕掛けられ、着実に遂行された。もはや和葉の敗北は、決定事項になっていた。

「きちんと解雇手当は出すのです。何も問題はないでしょう」

 早く話を終わらせたがっている店長へ、和葉は「大いにありますっ」と声を張り上げた。

「私はきちんと会社へ連絡をした上で、欠勤をしました。決して、無断ではありません」

「そうですか。では、欠勤の旨を告げた人間を教えてください。ここへお呼びして、事実関係を判明させましょう」

 店長の口角が意味ありげに吊りあがる。当初から呼ぶのを想定していたかのようで、すでに対策済みというのが言葉の端々に見え隠れする。

 普段はどこか抜けた仕事をするくせに、悪巧みの際の対処だけは完璧にできるのか。怒りを通り越して、和葉は半ば呆れていた。

 けれど、このまま退職を受け入れられなかった。自らが同居生活を打ち出しておきながら、今さら高木春道へ頼るのは虫が良すぎる。

 食費や生活費、それに愛娘の学費と、これからも多額の金銭を必要とする。

 お金は決してすべてでないものの、収入がなければ生きてはいかれない。その上でも、仕事は人生における重要なファクターとなる。

「どうしました。貴女は、誰に欠勤をすると言ったのですか」

 真顔を作ってはいるが、その裏に潜む邪悪な笑みが愉快そうに少しだけ顔を出してくる。

 苛々の塵が積もり、怒りの炎が引火して、心の中が真っ赤に染め上がる。

 それでも和葉は、言葉を詰まらせた。欠勤を伝えた人物に証言を頼んだところで、偽装されるのは明らかだった。

 無能な上司ほど、有能な部下を煙たがる。誰が言ったかは忘れたが、そんな言葉が和葉の脳裏に浮かんでくる。

「いえ……結構です……」

 搾り出すように、証人の召喚を断念する。勝ち誇った笑みを浮かべる相手の顔を、おもいきり平手打ちしてやりたかった。

 けれど和葉は自身の葛藤や嘆きをグッと飲み込み、意を決して口を開いた。

「その代わり、解雇だけは撤回していただけないでしょうか」

 家族のためにも、ここで自分が職を失うわけにはいかない。その一心だけが、和葉を突き動かしていた。

 下げたくもない相手に頭を垂れ、敗北者よりも惨めな立場になろうとも、現在の立場へ留まる可能性へ賭けた。

 号泣したいぐらい情けなく、悲しかったが、未来のためなら一時の感情など、どこかへ放り投げられた。

 深々と頭を下げて頼み込む和葉を楽しげに眺めたあと、店長は演技がかった口調で「どうしようかな」と呟いた。

 遊ばれている。精神的にもてあそばれてる屈辱に耐えるため、右手を強く握り締める。

「最初から、そうして下手に出ていれば、少しは可愛げがあったんだけどね」

「……申し訳ありませんでした」

 家族より大事なプライドなんてない。こんな恥辱で、私は負けたりしない。心の中で何度も強く念じ、和葉は己を奮い立たせた。

 何度も繰り返し謝罪させられ、やがて店長が「もういいよ」と口にした。


「残念だけど、すで決まったことだから、何をされても覆らないんだよ。後任も決定しているしね」

 相手男性の発言に、和葉は耳を疑った。

 一体何のために、屈辱へまみれてまで懇願したのか。あまりの悔しさで視界が一瞬、暗闇の世界へ囚われた。

 くだらない嫉妬と価値観に支配された男性は、こともあろうに己の歪んだ欲望を満足させるためだけに和葉の心を甚振ったのだ。

 汚辱感に涙が溢れそうになるも、こんな下衆の前で泣いてなるものかと必死で我慢する。

「ついでだから、君の後任も紹介しておこうか」

 勝手に話を進めた店長が内線電話で呼び出し、部屋へ招き入れたのは、先ほど事務所で見かけた男性のうちのひとりだった。

 以前から和葉に勤務態度や実績などを叱責され、事あるごとに不平不満を周囲へぶちまけていた社員だ。

 女であることを利用して、本社の人事部に色目を使っている。だから、出世できた。根も葉もない噂を広めてくれた張本人でもある。

 自身の力量すら正確に把握できず、他者――特に女性である和葉が社会的に認められると激しく嫉妬する。

 そうした面では、この男性社員と店長はよく似ていた。だからこそ利害が一致し、今回の計画を立案及び実行したのだろう。和葉の頭に浮かぶのは「愚か」のひと言だった。

「一部上場企業の総務の課長が、無断欠勤なんかしたら駄目でしょう。自分の立場というものが、よくわかってないご様子で。まあ、女性だから仕方ないかもしれませんが」

「……古臭い女性蔑視ですね。ここまでしないと、私の上には立てませんか?」

「おっと、挑発には乗りませんよ。私は明日より、総務の課長となる身ですからね。安心して後をお任せください。それとも、私の部下にでもなりますか? 頭を下げて」

 これほどまでに、イメージしやすい悪役を地でいく人間がいるものだろうか。苦々しさがこみあげてくる。

「まあ、望むのであれば、私がとりなしてあげてもいいですよ。何なら、私にも女の武器を使ってみますか?」

 誰に確認するまでもなく、完全なセクハラだった。人の上に立つ役職へ就く人間がこのような発言をしてるにもかかわらず、この店の最高責任者となる男性は笑ってるだけである。

 腐ってる。それ以外の感想は不要で、和葉は店長室のデスクの上にあった湯のみを掴み、素早く自分の後任となる男性社員の顔面へ浴びせてやった。

 ある程度冷めていたため、男性社員が火傷を負ったりすることはなかった。わかっていたからこそ、和葉も先ほどのような行動をとったのである。

 顔面をびしょ濡れにした男性社員は、なおも恰好をつけようとしているが、もはや相手に対する興味は微塵も残っていなかった。

「もう結構です。お話はわかりました。では、失礼します」

 相手への謝罪もせず、若干驚きぎみの店長を横目で睨みつけながら、和葉は立ち上がる。

 ツカツカと靴音を響かせ、急ぎ足で店長室から退出する。

 やってしまったと多少の後悔を覚えつつも、後任になる予定の社員の提案を呑むのだけは、どうしてもできそうになかった。

 これでよかったのだと自分を納得させようとする和葉の耳に、室内から男性ふたりの会話がドア越しに聞こえてくる。

 ――上手くいきましたね。顔がお茶まみれの社員と思われる男性が、楽しげに囁いている。

 ――まったくだ。君にも見せてやりたかったよ。あの偉ぶった女が、涙ながらにクビにしないでくれと言ったんだからね。今度は店長が応じる。

「……下衆」

 誰にともなく呟いた和葉は、自分の席に座ると、淡々と引き継ぎのための資料をまとめ始めるのだった。


 和葉の退職には異論が噴出したものの、幹部とも呼べる店の男性社員連中は揃って意見を却下した。

 パートやアルバイトへいくら慕われていても、どうにもならない。改めて痛感させられる事態になった。

 和葉の立場に同情してくれても、自分も一緒に辞めると言ってくれる人間は皆無だった。

 とはいえパートやアルバイトの方々を責めたりはできない。それぞれがそれぞれの生活を抱えており、迂闊な判断などできるはずもなかった。

 ならばパートやアルバイトを蔑ろにして、常に上司のご機嫌伺いをしていればよかったのだろうか。そうすれば、和葉の会社での地位は安泰だったのか。考えても答えは出ない。

 お世話になりましたのひと言で退職の挨拶を済ませ、和葉はひとり通い慣れた店を後にする。

 もちろん送別会なんてものはない。支給された解雇手当を受け取り、とぼとぼと家路に就く。高木春道や葉月へ、どのように説明すればいいのだろうか。道中、そんなことばかりを考えていた。

 自宅の前へ到達しても、インターホンを押そうとしては指を引っ込める。挙動不審極まりない行動を、何度となく繰り返す。気づけば結構な時間が経過していた。

 いつまでも外でうじうじしてても仕方ない。意を決して和葉はインターホンを押したが、家の中からの反応はなかった。

 そういえば今朝の時点で、夫と娘に晩御飯を外で食べてくるように頼んでいた。仕事が溜まってると思い、残業の可能性が高いと判断していたのだ。

 予想に反して定時での帰宅になったが、これはこれでよかった。とてもじゃないが、夕食を作る気分にはなれそうもない。

 鍵を使ってドアを開けた和葉は、電気もつけずに真っ暗闇のままの廊下を歩く。リビングへ入ると同時に、ソファへバッグを放り投げた。

 そのあとで食卓へ座り、テーブルの上へ肘をついて顔を俯かせる。

 自分が家族優先の生活を送っていたから、こんな目にあってしまったのか。だとしたら、理不尽すぎる。

 尽きない嘆きが和葉をさらに落ち込ませ、ネガティブな思考しか生まれなくなる。

 頭の中で様々な考えがグルグルと駆け回り、整理するのも容易ではない。和葉が悩み続けているうちに、いつの間にか夫と娘が帰宅していた。

「ママー?」

 リビングのドアが開けられると同時に、聞きなれた声が和葉を呼んだ。不安を悟られまいとするが、どうしても普段どおりに振舞えない。

「え……? あ、ああ……お帰りなさい」

 ぎこちない挨拶のあとで、ぎこちない会話が展開する。

 高木春道も葉月も、当然のごとく和葉の異変に気づいていた。

「どうか……したのか?」

 何でもないから、気にしないでください――。

 春道と出会った当初の和葉であれば、間違いなくそう答えていた。

 けれど今の和葉はすっかり春道へ心を許しており、嘘を突き通すのは不可能そうだった。

 まだ幼くとも、葉月はしっかりしている。そのこともあって、和葉は正直に現在の自分の状況を告白しようと決めた。

「実は……会社を解雇されてしまいました」

 高木春道は何も言わない。もしかしたら、呆れられてるのかもしれない。本気で愛するようになった男性に愛想を尽かされるのが、和葉にとって一番恐ろしかった。

 だからこそ平気なふりをして笑みを浮かべ「大丈夫です」なんて言葉を発する。

「解雇手当は頂きましたし、失業手当も受け取れるはずです。なので、春道さんは何も心配しないでください。これまでどおり、私が生活の面倒をみますし、御小遣いも差し上げます」

 発した言葉に嘘偽りはなく、和葉はどのようなことがあっても、それだけは絶対に持続しようと決めた。

 これなら夫も安心してくれるだろう。けれど和葉の考えとは裏腹に、高木春道は酷く悲しそうな顔をしていた。

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