2 中学校に入学するなり、女担任に変なあだ名をつけようとしてはいけません
「小学校と比べて、倍以上に距離があるんじゃねえか?」
春也は真新しい学生服のポケットに手を突っ込みつつ、ひとりごちた。
晴れて小学校を卒業して1ヵ月もしないうちに、今度は中学校に所属することになる。市立なので試験がなかったのはありがたいが、どうしても多少の面倒臭さを覚えてしまう。
「まったくだな。そんな貴様に解決策を教えてやろう」
「南高校なら、中学校よりも遠いからな」
「甘いな、貴様は。そこに姉さんがいるのであれば、どれほど離れていようともすぐ近くになるのだ!」
いつも通りに姉の素晴らしさを叫ぶ友人を横目に、春也はもう1人の友人である晋悟に声をかける。
「中学校からは自転車通学ができるんだよな。早く許可してもらいたいぜ」
「穂月お姉さんたちは話す時間が欲しいからって、徒歩で通学してたみたいだけどね」
「そこが理解できないよな。自転車でさっさと学校に行って、教室で話すりゃいいのに」
「通学路でするお喋りと、教室でするお喋りは違うみたいだよ。それに自転車だと希お姉さんが大変なことになりそうだし」
その場面を想像したのか、表情を曇らせる晋悟。
さもありなんと春也は頷きつつ、
「2人乗りは怒られるんだったか」
前に姉から聞いた話を思い出す。晋悟も知っていたようで、半ば噴き出すように苦笑した。
「休みの日に巡回中のパトカーに見つかって、車内から警察の人が人差し指を立てて止めるようにジェスチャーしたら、穂月お姉さんと希お姉さんが同時にサムズアップして怒られたんだよね」
「姉ちゃんが言うには、君たちは1番だと褒められてると勘違いしたんだと。だからお礼を返したら、急にパトカーが止まって説教されたらしい」
「沙耶お姉さんの家に行く途中でなければ、避けられたかもしれないのにね」
姉たちのグループにおける唯一の良心というか、常識を備えているのがその沙耶だった。
「後でその話を聞いて、顔を蒼褪めさせながらうちのママにも謝ったらしい。さーねえちゃんには何の責任もないって逆に慰められたって」
「それからというもの、沙耶お姉さんは自分の家が待ち合わせ場所でも、穂月お姉さんたちを迎えに来るようになったんだよね」
「常に監視してないと危険だと思ったんだろ。
……智希のようにな」
「え?」
「こっそりタクシー止めて、のぞねえちゃんとこに行こうとしてるぞ」
「見てないで止めてくれないかな!?
わああ! 待ってください! 乗らないです! ごめんなさい!」
大慌てで晋悟は停車したタクシーへ叫びながら、邪魔されたと舌打ちしそうな智希を必死に羽交い絞めにした。
*
「はじめまして。私が皆さんの担任となる春日井芽衣です。小学校とは違う部分もあって戸惑いも多いでしょうが、仲良く一緒に生活していきましょう」
穏やかな微笑みと、柔らかな態度。それでいて大人のお姉さんらしさがふんだんに発揮されており、新入生が男女問わずに安堵の表情を浮かべる。きっと優しそうな先生で良かったとでも思っているのだろう。
しかし目出度く――かどうかはわからないが、同じクラスになった春也たち3人は彼女を知っていた。昨年まで3年間、姉たちを担任していた教師だからだ。
「号泣先生だ」
「ひうっ!?」
春也のたったひと言の指摘で、女教師がビクンと肩を跳ね上げた。眼鏡の位置がズレ、鮮やかなまでに顔が真っ赤になっている。
「え、ええと、それはどういうことかな、高木君……って、そっか、君が穂月ちゃんの弟さんね」
事前に知っていたのか、納得するようにうんうんと頷く女教師。強引に話題を変え、従来のにこやかさを取り戻したが、
「号泣先生って何?」
女子の1人が首を傾げたことで、教室がにわかに騒がしさを増す。
「ああ、それは去年の卒業式で――」
「――はい、皆さん! 入学式が始まるので、廊下に並んでくださいね! あと高木君と小山田君と柳井君は少し残ってください!」
追い出すように他の生徒を廊下に並ばせるなり、芽衣が春也の肩を掴んだ。力が入りまくりの指先は、制服の上から肉を掴み取らんばかりだ。
「さすがに痛いって、先生!」
「あのことを暴露されたら、先生の心の方が痛くなるのよ! お願いだから秘密にしてて! それと号泣先生は止めて! あだ名なら他のにして!」
あまりに必死過ぎたので、反射的に春也は了承するも、
「でもあれだけ盛大にやらかしてたら、今の2年や3年も話を知ってるだろうし、1年の間で広まるのも時間の問題だと思うぞ」
「うう……どうしてこんなことに……」
「別に構わんだろ」
意外なことに、女教師のフォローに回ったのは智希だった。
「別れを惜しんで涙するなど当然のことだ。むしろ泣かなかった者どもこそが人道に反しているのだ」
「そ、そこまでとは思わないけど、でもありがとう、小山田君」
慰められたと判断して笑顔になった女教師だが、実態は違う。それを知っている春也と晋悟の前で、姉狂いの友人が拳を突き上げる。
「俺だって姉さんと離れるのは泣きたいほど辛いのだ。先生の気持ちはよくわかる。それにあのような号泣をされると、余計に姉さんの素晴らしさが引き立つと言うものだ。何度見返しても、あの抱擁シーンには感動を抑えきれないほどだ!」
「あ、あはは……何と言えば――って、ちょっと待って」
大事なことに気付いたと、剣呑な目つきになった女教師が今度は智希の肩を掴んだ。
「何度見返してもってどういうこと!?」
「もしかして、うちのじいちゃんが録画したのをダビングしてもらったのか?」
すぐに春也が理由を察して問いかけると、何故か智希がドヤ顔になった。
「DVDに焼いてもらったので家宝にしてある。今も1日に5回は見ているほどでな。そうだ、今度教室で上映会を――」
「――お願いだから許してえええ!」
新入生の腰に縋り付いての新たな号泣事件が発生し、望んだわけでもないのに春也たちは入学式当日から問題児として認識されるはめになった。
*
「聞いたぞ、お前ら。いきなりやらかしたんだってな」
入学式が終わって帰ろうと廊下に出るなり、見知った顔に呼び止められた。
「熊先輩っ!」
「おう、久しぶりだな!」
ちわっすと軽く頭を下げた春也に、あだ名通りの巨体を揺らして熊先輩が笑う。
「熊先輩って……」
「気にすんな、晋悟。どうせ春也のことだから、本名なんて覚えてないだろうしな」
「さすが熊先輩、わかってるっスよね!」
「いや、後輩としてそれはさすがにどうかと思うよ!?」
悪びれない春也に、すかさず晋悟がツッコミを入れる。それをひとしきり楽しんだあと、熊先輩はひょいと太い腕を伸ばした。
「智希もせっかく会ったんだから、ゆっくりしてけ」
「くっ、離せ! 熊ごときに姉さんとの逢瀬を邪魔されてなるものか!」
「こいつは相変わらずか。入学したばかりで、すでに女子がチラ見しまくってるっていうのにな」
懐かしそうにしながらも、どこか羨ましそうに熊先輩がため息をつく。
「その反応って、まさか熊先輩も好きな女子が智希に惚れてるパターンか?」
「それはないな」
「そこまで断言できるってのも凄えな。大抵の女は見た目だけの智希に毒されるってのに」
「クハハ、智希にだけは辛辣なのも変わらないな。ま、俺の好きな人はどうでもいいだろ」
「そうだけど、気にはなるよな。智希に興味を示さないで、熊先輩が気に入りそうな女……もしかしてうちの姉ちゃんだったりしてな!」
そんなわけないだろ、なんて言われながら軽く小突かれるのを想定していた春也だったが、
「な、な、何で、じゃなくて、何を、うお、うおお」
「……おい、熊が悶えだしたぞ」
「ああ、不気味だな」
「2人とも相当酷いね!? こういう時はそっとしておいてあげるべきじゃないかな!?」
*
中学校でも熊先輩は野球部の主将に任命されていた。そして1年の教室が並ぶ2階の廊下にいたのは、有望な新入部員をスカウトするためだった。その中には当然、春也たちも入っており――。
「中学野球は、小学生の時と違って甘くないぞ!」
主将直々に、春也たち3人に次々とノックが施されていた。本来は捕手の智希も守備力向上のために遊撃についており、晋悟は1人で中堅にいる。
「貴様が公衆の面前で想い人の存在を暴露するから、熊が張り切ってしまっているではないか」
「俺だって正解を引くなんて思わなかったよ、冗談のつもりだったし。それに名前までは言ってないんだから大丈夫だろ」
部室にあった誰のかもわからない練習用ユニフォームはすでに土まみれだ。他の上級生もどうしたことかと目を丸くしている。そのうちの1人が事情を聞くためか、熊先輩に話しかけたのだが、
「こいつらが前に話してた即戦力の新人だ。全国ベスト4のエースと正捕手、それに中堅のレギュラーだからな!」
と説明したことで、入学式当日から一緒に練習するのが当然という流れになってしまった。春也からすれば体を動かせるのは大歓迎なので、始めこそ戸惑ったものの今は普通に受け入れているが。
「でもレギュラーだった部員なら、他にもこの学校に来てるっスよ?」
「もちろん後で勧誘に行くさ。だがお前らは主力中の主力だからな。間違っても逃がさないように、最悪の場合は拉致る覚悟でな」
「大げさだな、熊先輩。うちの姉ちゃんじゃあるまいし、演劇部とかに興味を示したりしないっスよ」
「……春也、ノック10本追加」
「何で!? ま、いいや。バッチコーイ!」
借物のグラブを伸ばし、笑顔で打球に飛びつく。僅かに口に入り込む砂の味は妙に懐かしく、春也はこの時になってようやく中学生活が始まったんだなと実感できた。




