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「本当にいらないのか」

 和葉と葉月が自宅へ帰る日の朝になっても、兄の泰宏はまだそんな台詞を言っていた。幾度も重ねてきた討論。それは父親が残した和葉名義の預金通帳をどうするかである。

 兄の泰宏は持っていくように言ってくれたが、和葉に受け取るつもりはなかった。長年のわだかまりが単純に消化できるはずもなく、頭では理解していても、心にはまだもやもやしたものが残っている。

 それに父親が和葉をずっと娘だと思っていてくれたのなら、何ひとつ親孝行できないままに旅立たれてしまったことになる。ならばせめて、最後くらいはという思いもあった。

 だからこそ、和葉は泰宏に残されたお金をお葬式代などに使ってほしいと告げた。しかし、人がよいせいか単純には頷いてくれない。これは親父が娘のためのに残したものなんだからの一点張りである。

 何度も何度も口論になったが、和葉の決意の固さを認識した泰宏がようやく昨夜になって諦めた……はずだった。

「結論は昨日でたはずよ」

 和葉に残されたお金であるならば、和葉の好きなように使いたい。その言葉が泰宏を頷かせる決定打となった。それでも残りはお前のものだと譲らなかったが、和葉に受け取るつもりはない。

 今後、必要になった時のために預かっておいてほしい。そう言って兄を納得させたものの、受け取りにくることはないだろう。最後まで父親に頼らず、残りの人生をまっとうに送ることが一番の恩返しになるのではないか。そんなふうに考えていた。

「わかった。このことにかんしてはもう何も言わないよ。けど、春道君のことは……」

「それも大丈夫よ。急ぎの仕事が入ったから先に家へ戻ったと、私の携帯電話へ連絡があったわ」

「そうか。それならいいんだ」

 泰宏が心からホッとしたような様子を見せた。同時に、手を繋いでいる娘も顔を輝かせている。葉月もまた、ずっと高木春道がどうしてるのか気にかけていた。

 そんな二人の表情を見て、和葉は心が痛んだ。電話があったというのは嘘だった。実際にはいくら連絡をとろうとしても、高木春道の携帯電話に繋がることはなかった。

 だがそれを今この場で言ったところで、心配性な兄を余計に心配させてしまうだけだ。そうすればあれこれと、また世話を焼きたがるだろう。自分の問題であまり迷惑をかけたくなかったのである。

「じゃあ……行くわ」

「ああ……ちょくちょく遊びに来い。ここはお前の実家なんだからな」

 小さくながらも、和葉はコクンと頷いた。頻繁に戻ってきたりはしないだろうが、これまでみたいに何年も音沙汰なしということにはならないはずだ。

「バイバイ、伯父さん。またねー」

 和葉と繋いでるのとは別の手を、泰宏に向かって葉月は大きく左右に振った。和葉の父――お祖父さんに嫌われてたわけではないとわかって、過去の冷たい仕打ちについても全然気にしないようになっていた。

 それでも時折寂しそうにしてたのは、やはり生前に仲良く祖父とおしゃべりをしたりしたかったからに違いない。今となっては不可能だが、できれば望みを叶えてあげたかった。

 和葉がそう思えるようになったのも、父親が残してくれた遺言書や通帳のおかげで、わずかながらも本心を理解できた気がしたからである。

 別れの挨拶を済ませ、少し歩いたあとで和葉は幼少時代を過ごした戸高家を振り返った。

「――え?」

「ママ、どうしたのー」

「……いいえ。何でもないわ」

「あ。伯父さん、まだ手を振ってくれてるね。バイバーイ! またねー!」

 玄関の前に立ってこちらを見てるのは、紛れもなく実兄の泰宏だった。葉月の呼びかけに応えて、何事か大きな声で叫んでいる。

 ……やっぱり気のせいよね。泰宏へ最後にもう一度頭を下げて挨拶してから、和葉は前を向く。

 ――また来いよ。

 聞きなれた声が、どこからともなく和葉の耳へ届いてきた。それは兄のものでなければ、他の親戚たちの誰でもない。やはり先ほどのは気のせいじゃなかったのだ。

「……またね」

 ほんの一瞬だけ、玄関前で小さく手を上げていた男性の姿を思い浮かべながら、和葉は小さな声で別れの挨拶を口にした。

「お父さん……」


 長い時間電車に揺られ、ようやく戻ってきた自宅。家の中にあった光景は、和葉が予測したとおりの状態になっていた。

 帰ってくるなり、高木春道へ会いに行こうとした愛娘を、あえて和葉は止めなかった。どうせ、いずれはバレる。それがいつになっても同じだと判断したのだ。

 ひとつ小さなため息をついたあとで、和葉もまた葉月同様に階段を上る。部屋の前で呆然としてる娘を見つけるのは、その直後のことだった。

「……ママ……パパは……」

 大きく開け放たれたドアの横で、室内を見て葉月が呆然としている。覗かなくても結果はわかっていたが、それでも一応部屋の様子を確認する。

 高木春道の私室として貸していた部屋は、見事なまでにもぬけの殻となっていた。持ち込まれた道具類はすべて運び出されており、葉月と二人だけで生活していた頃の光景に戻っている。

 連絡がつかなくなった時点で、ある程度予測はついていた。しかし、あの状況で抜け出すわけにはいかなかった。葉月には恨まれるだろうが、仕方なかったのである。

「……どうして……」

 いつも元気一杯な葉月も、これにはかすれた声をなんとかしぼりだすのがやっとだった。和葉が側に来たのを知ると、顔を向けて「どうして!」と大きな声を発した。

「だって、ママ……パパが連絡あったって……だから、葉月……なんで……」

 混乱しきっている葉月は、動揺しまくりの台詞を投げかけてくる。すぐには何も答えられず、しゃがみこんで相手に目線を合わせた和葉は、大事な愛娘を両手で抱きしめた。

「ママ……?」

「……ごめんなさい」

「……どうして? どうして謝るの!?」

 あまりにまっすぐな視線をまともに見つめ返せず、和葉はたまらず目を逸らしてしまう。高木春道が出て行った理由も、ある程度の予測がついていた。

 元々この結婚は、父親を欲しがった葉月のために和葉が提案したものだった。せめて娘が成人するまでは、本当の父親のふりをしてほしい。そう高木春道に頼み込んだ。その代償として、衣食住を提供すると約束したのである。

 お互いにメリットがあったからこそ、これまで共に生活をしてこれた。だが戸髙家での出来事で、その状況は一変する。当の葉月自身が、和葉の本物の娘でない事実を知っていたのだ。それは高木春道に関しても当てはまる。隠すべき真実はなくなった。

 それに加えて、葉月が父親をしつこいくらいに求めた理由も明らかにされた。母親である和葉が寂しそうだったから。それゆえに父親の存在を求めたのである。

 二つの事実を知った高木春道は、母娘が互いの存在をもっとも大事にしてると理解した。そして自分がこの家にこれ以上滞在する理由はないと判断したのだろう。仮に和葉が相手の立場だったとしてもそう考えていたに違いない。

 もう一度、高木春道が私室として利用していた部屋を見渡してみる。すると床に一枚の紙切れが落ちているのを見つけた。葉月から両手を離し、立ち上がった和葉はゆっくりと近づいていく。

 拾い上げた紙には、離婚届と書かれていた。高木春道の名前が記入され、印鑑もしっかりと押されている。あとは和葉が必要な欄を埋め、役所に提出すればすべてが終わる。

「ママ……ねえ、ママ……?」

 部屋の真ん中で立ち尽くしている和葉へ、とことこと葉月が近寄ってきた。目には涙を浮かべ、今にも号泣しそうな勢いだ。娘は悲しむだろう。それでも真実を告げないわけにはいかない。

「聞いて……葉月」

 今一度、目線を相手に合わせてから、和葉は落ち着いた声で娘へ話しかける。

「高木春道さんは、葉月と血が繋がってないわ。それはわかってるのよね」

 他ならぬ葉月自身が、戸髙家においてその事実を認めている。今さら「違う」なんて答えが返ってくるはずもなかった。小さく頷いた娘へ、さらに和葉は言葉を続ける。

「あの人がパパになってくれたのは、ママが頼んだからなの。実際には知り合いでも何でもなく、ただ偶然あの場で出会っただけの人だったのよ。だから――」

「――違うもんっ!」

 突如として葉月が大きな声を発した。首を勢いよく左右に振り、和葉の説明を拒絶する。あれだけ慕うようになっていたのだから、こうした結果になるのもある程度予測がついていた。けれど、もう我侭は通用しない。

 和葉はできるかぎり丁寧に、結婚前に喫茶店で高木春道と交わした約束事についても教える。普通はこのぐらいの年齢の子に話すべきではないのかもしれないが、葉月は思っていたよりもずっと大人だった。下手に誤魔化す必要はないと判断したのだ。

「高木さんが提案に賛同してくださったのは、待遇だけじゃないと思うの。こちらの境遇にもある程度同情したからこそ、あんな変な結婚にも応じてくれたのよ」

 結婚するというのは簡単なことじゃない。和葉だって、娘のためとはいえかなりの決意が必要だった。相手は得ばかりだから、特に反対はしないだろう。当時はそんなふうに軽く考えていた。

 けれど今になって初めてわかる。和葉みたいに何の支えもなく、知り合ったばかりの異性と簡単に結婚なんて決断できない。立場が逆だったら、はたして自分は応じていただろうか。答えはでない。それぐらい難しいのだ。

 既婚者となれば、必然的に足枷をつけられるようなケースもでてくる。何も得ばかりではないのだ。もしかしたら、和葉や葉月が知らないところで、高木春道はずっと苦労していたかもしれない。

 それは本人でなければわからないが、もしそうだとしたらそろそろ足枷を外してあげるべきなのではないだろうか。和葉はそう考えていた。

 望む望まないにかかわらず、高木春道のおかげで解決した問題もある。葉月や父親との関係にしてもそうだ。これが和葉ひとりだったら、ここまでうまく事は運んでいなかったに違いない。

 もしかしたら、途中で万が一の事態になっていた可能性も否定できない。お節介ぶりにいらいらしたこともあったが、高木春道が家に来た効果は想定していたよりもずっと大きかった。

「高木さんには、高木さんなりの人生がある。葉月だって同じでしょう? それを私たちの都合で好き勝手に左右させてはいけないの。わかるわよね」

「わかんないっ!」

「……葉月」

 しゃくりあげながら叫ぶ娘の姿に、心が強烈に締めつけられる。

「パパは……葉月のパパなんだもんっ! 偽者とか本物とかないもんっ!」

「……でもね。高木さんは家を出て行った。これは紛れもない事実なの。私たちと暮らしたいと思っていたら、こんな真似はしなかったと思うわ。だから……仕方ないの」

「そんなの……でも……やっぱり葉月、パパと一緒がいい。せっかく仲良くなれたと思ったのに……こんなのいやだよぉ」

 悲しみに号泣する娘を前にして、和葉は母親としてただ抱きしめてあげることしかできなかった。少しでも心の傷が癒されるように、両腕にギュッと力を入れる。その腕を葉月がそっと掴んできた。

「ママは……?」

「……え?」

「ママは……パパがいなくていいの? 寂しくないの? 悲しくないの? 辛くないの? 葉月みたいに泣きたくならないの?」

「それは……」

 なんとも言えなかった。正直に白状すれば、考えたことがなかった。――いや、もしかしたら考えないように意識してたのかもしれない。口ごもったままの和葉に、葉月はなおも強い口調でたたみかけてくる。

「葉月、ママもパパも大好きなんだもんっ! 二人とも大切な家族なんだもんっ!」

 ズキンと胸が痛んだ。まさか葉月から、そんな台詞を聞かされるとは思ってもいなかった。一緒に過ごした時間は少なくても、娘の中ではかけがえのない人生の一ページになっていたのだ。

 長い時間をかけて信頼関係を構築してきたのに、高木春道は一年もかけずに愛娘からそれを得てしまった。嫉妬しないと言えば嘘になる。しかし、それよりも――。

「……そんなに……パパと一緒がいいの?」

「三人がいいの。それにママのお兄さんとかがいて、皆で楽しく遊ぶの。にこにこ笑顔で一緒にいるの」

 顔どころか洋服まで涙を濡らし、必死で訴えかけてくる葉月に、和葉はこれ以上我慢するように告げたりできなかった。

「――わかったわ。それなら、ママと一緒にパパを迎えに行きましょう」

「うんっ!」

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