26 好美の告白
金色に色付く町を背に、買い物帰りの好美はとある人物に気付いてはたと足を止めた。
「こんにちは。葉月ちゃんのパパもお買い物ですか?」
声をかけたのは大切な親友の父親――高木春道だった。
「買い物というより散歩かな。この歳になると、怠けるとすぐ余分な脂肪がついちゃってね」
朗らかに笑う春道の短めの前髪が揺れる。
本人はあんなことを言っていたが、体型は細めの部類に入る。むしろ中年になって肉がついて、よりスタイルが良くなったと感じるほどだ。
「葉月ちゃんママに何か言われたんですか?」
少しだけ意地悪をしたくなった好美は、ついついそんな質問をしてしまう。
「痩せろとは言われないな。健康のために身体を動かしてくれって感じかな」
「お互いに想いあってて羨ましいです」
昔から父親があっちにふらふら、こっちにふらふらしている好美にとっては、春道と和葉こそが理想の夫婦像だった。
義務などではなく愛情を抱きながら、お互いの役割を正しく認識している。困った時には全力で助けになり、決して見捨てない。考えれば考えるほどにため息が出そうな関係だ。
「ありがとう」
さらりとお礼を言ってのけるあたりも、春道の魅力の一つだろう。普通の男性なら、ここで謙遜している可能性が高い。
「もう一つ、お礼を言わないといけないことがあったな」
そう切り出した春道の前で、好美は首を傾げる。すぐには思いつけなかったからだ。
「葉月のことだよ」
「あ、お店ですね。気にしないでください」
好美は自然に吊り上がった口元の前で、小さく手を振った。
「むしろ葉月ちゃんが買ってくれて感謝してるんです。隣に住むのは変わりないので、店をしているのが知り合いかどうかでは大違いですから」
「それでも好美ちゃんがいなければ、葉月はこの時点で店を持つ決断ができなかっただろうからね」
「和葉さんも母に同じことを言ってました。よく娘さんを見てるんですね」
「親なら誰だってそうさ。好美ちゃんのご両親もね」
無意識の苦笑が好美の顔に張りつく。
「どうでしょうか。特に父親は昔からいい加減でしたし」
「それでも子供は可愛いもんだよ。最終的に戻ってくるのがいい証拠だよ。最近では観念したって話も聞こえてくるけど?」
「近所でも有名ですからね、うちの両親は」
つかず離れずというか、くっついて離れてを繰り返しながらも、離婚はせずにここまで続いている。ある意味では、これも良好な夫婦関係といえるのかもしれない。
「うちのことはともかく、葉月ちゃんは家では大丈夫ですか?」
話題を戻して好美が問う。
「不安はあるみたいだけど、張り切ってるよ。知り合いから店を譲ってもらったのと、あとは好美ちゃんが手伝ってくれるのが支えになってるっぽいな」
説明してから、春道は表情を曇らせる。
「葉月の親としてはありがたい限りなんだが、好美ちゃんはよかったのか?」
仕事を辞めることだと察した好美は、すぐに首肯した。
「最近は母も体調を崩したりしてましたから、近いうちに戻ろうとは思ってたんです。父もそれがあってずっと家にいるようになりましたし……」
「そんな事情があったのか。無神経なことを聞いてしまったかな」
「いいえ。父が戻ったおかげなのか、母も元気になってますし。もしくは正社員で働くと決めて、肩の荷が下りたんでしょうか。お店も形態は変われど、葉月ちゃんが引き継いでくれますからね」
「それならよかった。健康は何よりも大事だからね」
春道は本当に嬉しそうだった。
誰に対しても分け隔てなく接し、大きな優しさを見せる。彼が父親だからこそ、葉月ものびのび育ったのだろうと思う。
「何より、私自身が葉月ちゃんと一緒に働きたかったんです」
「そうか。改めてありがとう。好美ちゃんが一緒なら葉月も心強い」
ごく自然な笑顔に、好美の全身が心地良い温かさに包まれる。
昔から安堵できた雰囲気の中で、二人きりでいたせいだろうか。
閑静な住宅街だったとはいえ、好美は無意識に驚きの行動に出ていた。
「あの……」
「ん? どうかしたかな?」
「……迷惑だとは思うんですけど、聞いてほしいんです」
心臓が張り裂けそうだった。
自分が何をしようとしているか気づき、気が狂いそうにもなった。
それでも好美は止まらずに動く口を――長年にわたって積み重ねてきた想いを制御できなかった。
「私には昔から憧れてる男性がいました」
「…………」
「その人は……大好きな友人の父親でした」
春道は何も言わない。けれどそこに立っているのはわかる。
まともに相手の顔を見られなくなった好美は、視線を自分の足へと落としながら言葉を紡ぐ。
「子供の頃に虐められてるクラスメートがいました。いつもかわいそうだと思いながらも、勇気のない私は何もできませんでした。そんな自分が大嫌いでした。誰か助けてあげてほしい。自分では何もしないくせに、そんなことばかり思ってたから」
「……好美ちゃん」
「そんな時です。颯爽と現れた男性が、そのいじめ問題をさらりと解決したんです。私は素直に憧れました。あんな風になりたいと思いました。だから当時、仲良くしていた友人に相談しました」
好美の話を聞いた実希子は任せとけと胸を叩いた。
そして葉月が自分からいじめに抗おうという姿勢を見せたことで、完全に彼女の味方になった。
「その後に仲良くなったのは、虐められてたその子を直接的には助けられなかった罪悪感だったのかもしれません」
「そんなことはない。その少女のおかげで葉月は救われたからね。むしろ俺の方が昔は――いや、やめておこう」
悲しそうに口を閉じた春道を、好美はおもいきって見上げる。
「何かあっても過去には戻れない。だけど人は未来には行ける。繰り返される現実の中で行動を起こせば、理想とする未来に近づける。私はその子――葉月ちゃんとの件を通してそれを学びました」
葉月との出会いは、神様に感謝したい重要な出来事の一つだ。
たまに戸惑ったり、突拍子もない料理技術に頭を抱えたりもしたが、どれもこれもが愛すべき思い出だった。
「それはきっと実希子ちゃんも、柚ちゃんも、尚ちゃんもだと思います。虐め、虐められ、怒り、怒られ、それでも最後には一緒に笑って、泣いて……」
思い返すだけで涙が溢れそうになる。
過去を幸せなアルバムにしてくれたのは、間違いなくきっかけをくれた男性のおかげだった。
「そのうちに私は気付きました。自分が誰を目で追っているかを。恋人ができた友人の隣で、未来を想像する時、必ず登場する人物がいることを」
はっきりと自覚したのはいつだっただろう。
もう思い出せないくらい昔で、以来、好美はずっとその想いを胸に秘めてきた。
迷惑なのはわかっているから。
苦しませてしまうのもわかっているから。
親友がその人を大好きなことをわかっているから。
でも。
それでも。
好美はもう自分の感情に嘘をつけなかった。
無言で、けれど目を逸らさずにいてくれる男性に好美は告げる。
「高木……春道さん……」
ありったけの想いと。
「あなたが好きです」
ありったけの感謝を込めて。
「大好きです」
そして、相手の回答も最初からわかっていた。
「……すみません。俺には愛する人がいます。ですから、好美さんの想いには答えられません」
「はい。知ってます」
涙は出てこなかった。
代わりに好美の心は驚くほど軽くなっていた。
自然と笑顔になれたのはきっと、ちゃんではさん付けをして好美を娘の友人ではなく、一人の女性として扱ってくれたから。
今この時だけは彼の視線を独占できたから。
「初恋は実らない。昔から言われてた通りですね」
「好美ちゃん……」
「そんな顔をしないでください。困らせたくなかったから、ずっと黙っておこうと思ったんですけど、葉月ちゃんも自分の店を持つことだし、私も新しい一歩を踏み出したくて」
「……きっと、素敵な人生になるよ。振った男の言う台詞じゃないだろうけど」
「本当です。葉月ちゃんのパパは、ママ以外にはデリカシーがないんですから」
「よく言われるよ」
数秒間の無言を経て、好美は大きく頭を下げた。
「ありがとうございました」
「……ああ」
吐き出した想いは風に乗って空へ旅立ち、微かな胸の痛みと充足を残していった。
閉店してがらんどうになった元美容院に、数々の調理器具が運び込まれる。
店の奥を調理場にして、手前が販売スペースになる。一生懸命に指示を出す葉月を、好美も全力で手伝っていた。
「おい、葉月。この荷物はどっちだ」
「あっちー」
あいよと返事をした実希子が重そうな機械を和也と一緒に運んでいく。
普段は引っ越し業者のバイトをしている彼女は、タンクトップに作業シャツ、頭にタオルを巻いて軍手をするという格好が誰より似合っていた。
明日の用意もあるはずなのに、葉月が開店の準備をすると聞いて、学校での仕事を終えた柚も手伝いに来ていた。
好美と一緒にテーブルの位置を調整したり、あれこれと店内のレイアウトを葉月と考えたりする。
元々、美的センスに優れた彼女だけに、葉月もかなり頼りにしていた。
「店内は普通に白がいいよね」
「うん。ただ、全面が白だと眩しいから、ある程度はポスターや壁紙で調整した方がいいかも」
日が経つに連れて、新しく生まれ変わる元美容院を好美は眺める。
惜別の想いはすでにない。店が変わっても、思い出まで変わるわけじゃない。
それに今度は友人たちとの新しい思い出が出来る。経理として費用を計算しながら、好美はそんなこと思った。
「ねえ、好美ちゃん」
いつの間にか近くに2人だけになったタイミングで、葉月が話しかけてきた。
「何か問題でもあった?」
「そうじゃなくて……」
少しだけ言葉を選ぶように悩んでから、葉月は優しい表情で言った。
「パパにきちんと告白できた?」
「――っ!? ごほっ、ごほっ!」
「だ、大丈夫?」
驚きすぎて噎せた好美の背中を、葉月が撫でてくれる。
「ど、どうして? え? な、何?」
「夕方に実希子ちゃんが、パパと真剣に話してる好美ちゃんを見たって言ってたから」
「そ、それで、どうしたら告白とかいう話になるの?」
「だって好美ちゃん、ずっと前からパパのことが好きだったでしょ?」
ポカンとするように、好美はしばらく何も言えなかった。
「……気付いて、たのね……」
やっとのことでそれだけ絞り出すと、葉月は笑顔で頷いた。
「いつか想いを告げてほしいなとは思ってた。あのままだと宙ぶらりんって感じがしてたし」
「怒って……ないの?」
「全然。むしろ同志だよ。だってパパ、ママ以外の女性は眼中にないでしょ?」
むーんと拗ねたように言う葉月に、好美の頬が少しだけ綻ぶ。
「そうね。私も瞬殺だったわ」
肩を竦めてみせると、親友はそっと抱き締めてくれた。
「好美ちゃん、頑張ったね」
「……ありがとう、葉月ちゃん」
伝わってくる温もりが、僅かに残っていた悲しみを根こそぎ溶かしてくれる。
「そうと決まれば残念会だな!」
「実希子ちゃん!? いつからそこにいたの!?」
声を裏返らせた好美の視界には実希子だけでなく、先ほどまで誰もいなかったスペースに泣き顔の柚や、どことなく気まずそうな和也もいた。
「ちょっと前くらいからかな。いやー、聞く気はなかったんだけどさ。広いように見えて、意外と狭いんだな、店って」
「はあ……悪びれないところがとっても実希子ちゃんだわ」
「あはは。でも残念会っていうより、励ます会なら賛成かな。皆でご飯も食べたいし」
葉月の提案に好美はすぐ同意する。
「外も暗いし、丁度いいわね。いつもの居酒屋にする?」
「せっかくだから何か買って来て、お店で食べようよ。ブルーシートをしけば、なんだか遠足してるみたいだし」
「葉月はお子ちゃまだな」
「実希子ちゃんに言われたくないよーだ」
夜道に光と笑い声を溢れさせる店内で、半ばヤケクソ気味に好美は仲間たちと乾杯して回る。
失恋しても悲しみではなく、心地良い思い出になりかけていた。
いつも傍にいてくれる友人たちの顔を見回し、好美は心の底から笑い続ける。
地元に帰って来て、また皆と一緒にいられて良かった。
恥ずかしくてなかなか言葉にはできないけど、誰もが同じ気持ちを抱いているのはすぐにわかった。




