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いつの間にやら鈴木真の送り迎えは、菜月の日課になりつつあった。初日みたいに犯罪者を連行する警察官よろしく、逃がさないようにするため手を繋いだりはしなくなったが、それでも毎朝一緒に男女が登校するというのは、奇妙な噂を招くらしい。
小説からの情報やら、姉とその彼氏を見ていたおかげやらで、男女の仲というものを多少なりとも知ってはいるが、生憎と菜月にそうした感情はない。色恋沙汰が最近の小学生のトレンドなのか、やたらと関係を問われる質問に今日もうんざりしながら答えるはめになった。
「あ、あの、高木さん……その、迷惑だったら、僕一人で……」
各授業に続き、班事に定められた区域の掃除も終えてあとは帰るだけとなったタイミングで、いつものおどおどぶり全開の真がそんなことを言ってきた。気を遣っているのかもしれないが、菜月からすればただのありがた迷惑である。
「お断りね。貴方の部屋の本をまだ読み終えていないもの。邪魔なら遠慮するけれど?」
「そ、そんなことないよっ」
顔面を蒼白にした真が両手を前に出して、慌てて首を左右に振る。あまりの全力投入ぶりに、そんな機敏な動きもできたのかと、奇妙な感心を抱いてしまう。
「ぼ、僕はその……う、う……嬉しい、けど……あの、ええと……」
「クラスのくだらない噂なら気にする必要はないわ。今は面白がってるけれど、どうせすぐに飽きるもの。ほら、帰るわよ」
小さく頷く真。菜月が迎えに行くようになってから休まずに登校し、担任からは喜ばれているが、クラスに馴染んだとはまだまだ言い難かった。休み時間でも自分の席で俯いてばかりなのもあり、学級委員長の立場上孤立させないように気を遣わなければならない。もっとも真の部屋にある小説が楽しみなのは、偽らざる本音なのだが。
「また夫婦で帰るのか?」
クラスでも騒がしいタイプの男児が、ここぞとばかりにからかってくる。申し訳なさそうに下を向く真の隣で、菜月は足を止める。
「夫婦ってどういう意味?」
「いつも一緒にいるだろ」
「いつも一緒にいると夫婦なの? どうして? 私は彼と婚姻届けは出していないわよ? それに年齢から婚姻関係を結ぶことはできないわ。なのに貴方は夫婦という。私の知らないうちに日本の法律が変わったのかしら? そうだというのであれば是非、無知な人間にご教授願いたいわね」
「え? え? な、何言ってるか、わかんねえよ!」
顔中から汗を滴らせ、周囲からの視線に耐えられなくなった半ズボン姿の男児が教室から走り去る。
「ふう。今年で九歳になろうというのに、論破された返しがアカンベーとは他人事ながら将来が心配になるわ」
「……菜月ちゃんがすごいんだよう」
どこからか飛んできた指摘に菜月は「そうかしら?」と首を傾げる。他者から見れば比類なき文学児童っぷりでも、当人は普通の女児と変わらないつもりなのである。
「とりあえず帰るわよ。あの手の輩はどこにでもいるんだから、いちいち気にしていたらきりがないしね」
「う、うん……」
スタスタと歩く菜月のすぐ後ろを真がついてくる。校舎内では緊張の面持ちだが、中庭へ出ると安堵したように大きく息を吐いた。
「まだ不安なの?」
菜月が尋ねると、例のごとく申し訳なさそうに真は小声で「うん……」と返してきた。
気にしないのが一番だとは何度も言っているのだが、すぐに考え方を変えられるタイプであれば、そもそも登校拒否にまで陥ったりはしない。元々が臆病というか平和的な性格の持ち主なので、慣れるまで時間が必要なのだろう。
乗りかかった船というのもあり、出来うる限りは力になるつもりだった、四六時中べったりというわけにもいかない。どうすればいいのかは悩みの種で、今夜も父親の春道に相談するべきか。歩きながら悩みだした菜月だったが、丁度校門のあたりで急に何者かが立ち塞がった。
先ほどの男児が意趣返しにでも来たのかと思って顔を上げると、そこにいたのは従兄の戸高宏和だった。野球部に入学してボウズ頭になった少年は、げじげじの眉毛をいきなり吊り上げる。
「お前か。最近俺の菜月に手を出してるって言うのは!」
「え? え? ええっ?」
初対面の――それも一学年上の名札を胸につけている男子に指を差された真は、恐怖と困惑を織り交ぜた表情を隠そうともせず、忙しなく顔を宏和と菜月の間で動かす。
「何か空耳が聞こえたみたいね。立ち止まっていると呪われるかもしれないから、早く帰るわよ」
「え? で、でも……」
「鈴木君、よく聞きなさい。この世にはね、関わっていい人間とだめな人間がいるの。貴方の目に誰が映っているのかは知らないけれど、それは間違いなく接触してはいけないタイプの人間よ。だからすぐに帰りましょう」
説得の言葉を尽くし、真のランドセルを背後から押して校門を出ようとする菜月に、往生際の悪い男児が待ってよと泣きそうな顔でしがみつこうとする。
「ああ、もう何よ。用事でもあるの?」
鬱陶しさから仕方なしに尋ねたが、すぐにやめておけばよかったと後悔する。構ってもらえた瞬間にドヤ顔を晒した宏和が、トチ狂ったような上から目線で再び真に人差し指を突きつける。
「誰に断って、俺の菜月と登下校してるんだ!」
「はい、退場」
ドンと横から宏和を押し、校門を行き来する自由を得た菜月は呆然とする真に帰宅を促す。これ以上は文字通り無駄な時間になる気しかしないからだ。
しかし校門横でしばらく倒れてくれていればいいものを、父親譲りなのか心身共に妙に打たれ強い宏和はすぐに立ち上がる。
「何するんだよ! さてはこいつに何かされたんだろ! それで仕方なく遊んでるんだな!」
「……テレビドラマの見過ぎ的な想像をするのは、母親譲りかしらね。どっちにしてもそんな変な関係じゃないわよ。もちろん、宏和ともね」
ギロリと睨みつければ、瞬く間に先ほどまでの威勢の良さが宏和から消えていく。
「そ、そんな……小さい頃から、将来を約束した仲じゃないか」
「誤解を招くような発言は慎んでもらえるかしら。大体、何度も言ってるけど従兄妹同士なの」
「大丈夫だ! 気合で何とかなる!」
「……なるわけないでしょ。そんなことより部活はいいの?」
心配してもらったと勘違いしたのか、急に元気を取り戻す宏和。
「今日は休みだ」
「それなら寄り道せずに真っ直ぐ帰りなさい。はい、さようなら」
「おうっ! ……って、さすがに騙されないぞ!」
「……阿呆が一人前に知恵をつけ始めたわね」
うんざりしてますアピールを兼ねてため息をつくも、部活が休みの影響もあるのか今日に限って宏和はなかなか諦めようとしない。
「俺だって菜月と遊びたいんだ。遊んでくれよぉ」
「……素直になったのは評価できるけれど、とんでもなく恰好悪いわね。間違っても私の服に鼻水をつけたりしないでよ」
「じゃあ、遊んでくれ」
もはや駄々っ子である。先輩らしさが皆無の宏和をどうしようかと心の底から悩む。これ以上の問答が続けば、ただでさえおろおろしている真が余計な気を遣い出すのは明らかだ。仕方なしに一刀のもとに切り捨てるのを選択する。
「悪いけれど、今日は予定があるの。また次の機会にね」
「嫌だっ」
よもやの全力拒否である。頭を抱えたくなる菜月の前で、立ち上がった宏和はお前が諸悪の根源だとばかりに気弱な男児へ詰め寄る。
「こうなったら俺と野球で勝負しろ。俺がピッチャーでお前がバッター。三打席で一本でもヒットが打てればお前の勝ちだ。さあ、どうだ!」
「どうだじゃないでしょ」
菜月が振るった右手に合わせて小気味のいい音が、宏和の後頭部から生まれた。途端に従兄が涙目になる。
「何するんだよ」
「こっちの台詞。野球部員が運動の苦手な子に野球で勝って楽しいの? むしろ恰好悪くて一緒に遊びたくならないのだけど」
「そ、そんな……じゃあ、どうすれば……そうだ! お前の得意なので勝負してやる!」
「え? ええっ?」
どうすればいいのかわからず、困り果てた真が目で菜月に救いを求める。
「仕方ないから、少しだけ付き合ってあげてくれる?」
「で、でも、僕が得意なのって、絵くらいしかないんだけど……」
相手側からすれば明らかに不利な条件となるにもかかわらず、とにかく菜月にいいところを見せたいらしい宏和は一も二もなく勝負を引き受ける。
「じゃあ、近くの公園で勝負だ。俺の力を見せてやる!」
三人で公園に移動し、ベンチに座っての勝負が行われた。結果はもちろん真の圧勝だ。十五分と時間を決めてのデッサンだったのに、真の作品の完成度だけ群を抜いていた。同じ風景を描いていたはずなのに、どこか別世界をモデルにしたような絵なのである。
「スケッチブックを見せてもらって実力は大体わかっていたけど、やっぱり凄いわね」
自分の描いたのと何度も見比べてみるが、月とスッポンよりも美しさはかけ離れている。ましてや傍目にも菜月以下とわかる画力の宏和の作品とは、一緒に並べるのすら残酷なほど出来栄えが違っていた。
「……お前、プロの画家?」さすがの宏和も愕然とする。
「ち、違います……ぼ、僕は、その……普通で……」
「普通でこんな絵が描けるかよ。すげーな、お前」
心から宏和が感心しているのがわかる。悪戯癖と子供っぽさは困りものだが、衝動に素直というか裏表がないのは彼の長所でもある。
「で、でも……男の子なのに、絵ばかり描いてて……」
「はあ? 別にいいじゃねえか。好きなんだろ?」
問われた真はきょとんとしつつも、コクコクと顎を上下させた。
「俺だって野球が好きだから部活にまで入ったんだ。最初は菜月に構ってもらいたくて始めたんだけどな。やってみると意外に面白いんだよ。どうだ、お前もやってみるか?」
鈴木君がやるわけないでしょう。呆れ半分にそう言おうとした菜月の目の前で、当の真が躊躇いがちではあるものの、うんと言って立ち上がった。
「ちょ、ちょっと……本気? 無理に付き合う必要はないのよ?」
「うん。でも、僕の絵にも付き合ってくれたから。ちょっと……やってみようかな……」
「よおし、それでこそ俺のライバルだ!」
いつから何のライバルになったのかと指摘する暇もなく、宏和は丸めた教科書をバットに見立てて真に持たせた。そうして自分はノートの一ページを破いて丸め、ボール代わりにする。
風が吹くたびふわふわと舞うノートのボールを見ては魔球だと笑い、懸命に追いかける真がえいやと丸めた教科書を振る。ペチっと情けない音を立てるも、当たったじゃないかと宏和に言われていつになく嬉しそうに頬を緩める。
「何だ。体を動かすのが嫌いなのではないのね」
掌に頬を乗せ、公園で戯れる二人の男児を見る。自分の実力を見せつけて高笑いでもするのかと思いきや、なんと宏和は真のレベルに合わせて遊んでいた。
意外だと素直に言うと、宏和は大きな声で笑った。
「勝負なら本気でやるけど、遊びは楽しい方がいいだろ」
「フフッ。宏和にしては立派な意見ね」
「惚れたか?」
「冗談はやめて。それより私も混ぜてよ。ホームランを打ってあげる」
結局この日は読書ではなく、宏和の目論見通りなのは三人で夕暮れまで公園で遊んだ。最初はまだ緊張気味だった真も、最後らへんでは普通に宏和と笑い合えるようになっていた。内気とはいえ、一人を愛するタイプではないのだと改めて実感する。
菜月にとって謎なのは、二人が何やらコソコソと会話をして以降、妙に仲良くなった感じがすることだ。直接聞いてみたが、揃って内緒と言い出す始末。とりわけ真の場合は顔を極限まで真っ赤にするほどだ。
「なんだか仲間外れみたいで納得がいかないわね」
「いいじゃねえか。男同士の友情だよ。な?」
「う、うん。ご、ごめんね、その……な、菜月……ちゃん……」
両の人差し指をもじもじさせる真。懸命に勇気を振り絞ったのだろうと考えれば、からかう気には到底なれなかった。
「仕方ないわね。特別に許してあげるわよ、真君」
名前で呼ばれた少年が見せたのは花が咲いたような笑顔。そしてこの日以降、真はほんの少しだけだが教室でも明るく振舞えるようになっていくのだった。




