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どれくらい時間が経過しただろうか。菜月は手に持った本を、ひたすら初対面のクラスメートの部屋で読み耽っていた。外国人作家の本を翻訳した冒険小説で、少年の主人公が過去の宝を求めて旅に出るというのが大まかな内容だ。漫画で見るのも面白いだろうが、小説として読むのもまた違った趣がある。
よく利用する図書館で平然と司書の女性に告げると、やはり児童っぽくないと返されるのだが、これが菜月という人間なのだから仕方がない。チラチラと向けられる視線も気にせず、窓から入り込む太陽の勢いが弱まってくるまで、無言で文字を追い続けた。
気を遣った鈴木真の母親からミルクティーとクッキーも堪能し、外が暗くなり出した頃にようやく立ち上がった菜月はお礼とともに本を戻した。
「明日、また来るわ。この本、途中だし」
「え? あ、う、うん……」
スカートのしわを直し、部屋を退出する菜月を、鈴木真はただ茫然と眺めていた。
夕食を終えた高木家で、菜月は盛大にため息をつく。遅めの帰宅になったが宿題は食事前に終わらせている。あとはいつものようにリビングでテレビを見たりして、食休みを楽しむだけだった。そのソファには春道と、洗い物を終えたばかりの和葉もいる。
「何だ、もう葉月が恋しくなったのか」
「それはないんだけどね」
からかうつもりの一言を即座に否定された春道が苦笑する。その横で僅かに上半身を乗り出した和葉が心配事かと尋ねてくる。
「心配事……っていうよりは厄介事ね。学級委員長に推薦された挙句、不登校児の様子見まで仰せつかったのよ。ありがたいことにね。はあ」
新たなため息を生産しつつ、今日の出来事を両親に伝える。葉月が家にいた時もそうだったが、リビングではよく雑談混じりに日々の心情なども話す。
「そうだ。パパも同じ引き篭もりなんだし、何か対策を教えてよ」
「最近はよく和葉と散歩に出てるから、それほどでもないんだが……まあ、部屋にいる時間の方が長いのは確かか」
顎に手を当てて考え込むような表情を作りながら、春道は顔を後ろへ軽く倒す。
「そうだな……菜月が今日やったのでいいんじゃないか?」
「……脅して部屋に入って、そこの主を完全無視で他人様の小説を読んでただけなんだけど」
実行しておいてなんだが、改めて口にすると菜月自身も驚く傍若無人ぶりである。気の弱そうな鈴木真だからこそ文句を言われなかったが、勝気な人間であったならばまず間違いなく取っ組み合いになっていたに違いない。
「だがその子からすれば、きっと不登校になってから様々な人間に言葉を尽くした説得を受けてきたはずだ。菜月の対応は新鮮であり、今頃は思い返して戸惑っているだろうな」
軽く笑い、カップで湯気を立ち上らせている珈琲を一口含んでから春道は言葉を続ける。
「でもその子が誰より孤独を愛する性格でなければ、一緒にいてあげるという事実こそが何より重要な意味を持つかもしれない。仮に臆病さゆえに他者との間に壁を作るようになっているのなら尚更な」
一字一句逃さずに父親の話を聞いていた菜月は、無意識にへえと感嘆の声を上げていた。
「パパって、時折鋭いこと言うわよね。それなのにどうしてママの地雷ばかり踏むのかしら」
「それはもちろん、和葉の怒った顔が可愛いからだ。人前では済ましているのに、二人きりになった途端に思い出したかのごとく唇を尖らせる様は――むごっ」
案の定、上機嫌ですらすらと言葉を並べる男の口は横から伸びる女の手に塞がれた。こめかみをヒクつかせる笑顔を浮かべた和葉の指には、怒りと照れと握力が込められている。
「今は菜月の相談を受けている最中でしょう。話題を逸らすのは父親としていかがなものかと思うわよ」
悲鳴を上げる春道を後目に、慣れたもので菜月は我関せずとばかりにホットミルクを呑む。それに父親が調子に乗ったのは、きっと愛娘が少しでも吹っ切れた顔をしたからだろう。
ふうとミルク色に染まってそうな吐息をリビングに浮かべる頃には、隣り合って座る両親はいつの間にかこっそり手を繋いで仲の良さぶりをアピールするようになっていた。
通い出して何日目くらいだろうか。お互いに無言の放課後を送っていた鈴木真が、やはりおずおずとではあるが菜月に声をかけてきた。
「あの……た、退屈……じゃない……?」
「全然。鈴木君、面白い本をたくさん持っているんだもの。お母さんに気を遣わせて飲物などをご馳走になってしまうのは心苦しいけれど、図書館よりも快適なくらいだわ」
答えながらもページからは目を離さない。最初にこの部屋を訪れた時に選んだ冒険小説はすでに読み終えており、現在は二冊目となる架空の歴史ものを愛読中だった。
「そ、そうなんだ。こ、今度……僕も読んでみようかな……」
「え? まさか読んでないの?」
驚いて顔を上げると、菜月から見て左方にあるベッドへ腰かけている真が申し訳なさそうに肯定する。
「実は部屋にある本は全部、お父さんのなんだ。面白いからってくれたんだけど、僕はその……」
片時も傍から放さない学校で使っているのと似たようなスケッチブックを両手で抱きしめ、今にもごめんなさいと謝り出しそうな雰囲気で少年が俯く。いわゆる虐めてオーラみたいなのが見えるようで、乱雑な人間がクラスにいれば標的にされかねないほどだった。
「もしかして鈴木君、学校で虐められてるの?」
菜月の質問に真は心底驚いたというように上げた顔を、慌てて左右に振った。
「そんなことはないよ。でも……」
「でも?」
口を噤んだ彼を、菜月は黙って待ち続ける。以前に春道から助言された通り、一緒にいるという事実が真の心を解しているのであれば、焦るのは厳禁と判断した。
数分ほどだろうか。重苦しいとも思わずに沈黙を守る菜月の鼓膜に、待ち焦がれた続きを紡ぐ声が届く。
「僕……その……漫画とか読むより、あの……絵とか、ええと……描くのが好きだから……」
「そうなのね」
「そうなのね……って、それだけ……?」
「……むしろ他にどう言えばいいのか知りたいくらいなんだけど」
クッションに座らせてもらっている菜月は太腿に乗せていた本を床に置き、ジーンズを履いた足を動かして体勢を変える。
「好きなものなんて人それぞれでしょう。絵が好きなら好きでいいじゃない」
「そ、そう、なんだけど……その……高木さんは、あの、男の子なのに外で遊ばないのは変、とか思わないの……?」
「思わないわね。それを言ったら、外で遊ぶ女の子は変みたいになってしまうじゃない。さっきも言ったけれど、好きなものなんて人それぞれよ」
ピシャリと言い放ってから、ようやく重大な秘密を打ち明けられた事実に気づく。
「もしかして、そのことでからかわれて不登校になったの?」
またしばらく黙ってしまうが、急かしても逆に相手が心を閉ざしてしまうだけと、矢継ぎ早に言葉を並べたくなるのを堪える。そのかいあってかどうかは不明だが、途切れ途切れではあるものの、また真が口を開き始めた。
「僕、顔もこんなだから……その、女の子みたいって……絵も描いてるし……だから男の子じゃないって……でも、女の子からも変って言われて……だから……」
「要するに両方から仲間に入れてもらえなかったのね」
「う、うん。それに僕、生まれはこっちじゃないし……余計に友達、できなくて……でも、一人でいるのがもともと好きだから……その……」
「学校に行かなくても構わないと思ったのね」
少年の肯定の首振り運動にため息をつきたくなったが、実行すれば繊細な心を傷つけてしまう。必要なのは肯定。しかしそれだけでは何の解決にもならない。そこで菜月は決断する。
「じゃあ不登校なのは友達がいないからってことね?」
「え? いや、その……」
「ことね?」
ずいと詰め寄る菜月の迫力に押され、繰り返される念押しにとうとう鈴木真は頷く。
「なら解決ね。今から私が友達よ」
「え? でも、そんな急に……」
「嫌なの?」
「そういうわけじゃ……」
「では決定。今後、本件に関する拒否は一切認められません」
スケッチブックを抱いたままの真が、大きな瞳で瞬きを繰り返す。
「え、ええと……その……どういう……意味?」
「要するに途中で友達辞めたいって言っても駄目ってこと」
痛烈な宣告ではあったが、どうやら異論はないみたいである。これで読書が再開できると本に手を伸ばしかけたところで、菜月は動きをピタリと止める。
「そういえば……絵って何を描いてるの?」
何気ない質問だったのだが、露骨なまでに真はギクリとする。よからぬ雰囲気を察した菜月はベッドに座っている少年ににじり寄ると、懸命な抵抗を押し切ってスケッチブックの中身を見せてもらうことに成功。ペラペラと捲るページには部屋の中の光景のみならず、想像して描いたのは幻想的な風景まであった。
漫画チックな絵を想定していたが、真のは全然違った。性格通りの繊細なタッチではあるものの、情景を事細かに伝えてくるような精緻さが抜群に上手い。もっとも菜月は美術の評論家ではないので、あくまでも自分自身が得た感想にすぎないのだが。
「ふうん。上手いじゃない……って、これ、私……?」
あわわと顔を真っ赤にする真。ページの最後に描かれていたのは、熱心に本を読む菜月の横顔だった。少しだけ猫背になり、揃えた太腿の上の本に視線を落としている。傍から見ればこんな感じなのかと、ある意味で新鮮な感想を覚えた。
「ご、ごめんなさい……その、勝手に……」
「別に構わないわよ。綺麗に描けてるしね。本を読ませて貰ってるお礼よ」
菜月が笑うと安心したのか、ぎこちなくではあるが真も表情を変えた。それは鈴木家に通い出してから、初めて彼が見せてくれた笑顔だった。
翌朝。いつもより早い時間に家を出た菜月は、ここ数日で通い慣れた家の門前にいた。インターホンを鳴らし、応対に出た女性に迎えに来ましたと告げる。すぐにドアが開き、黒いランドセルを背負った少年が緊張気味に出て来る。
「おはよう」
「え? あ、その……おはようございます。あの、本当に……」
「さあ、行くわよ」
ともすれば部屋の中まで逃げ帰ってしまいそうな少年の手を無造作に掴み、引き摺るようにして歩きだす。最初は戸惑っていた真も顔を真っ赤にしながらだが、菜月の隣を歩き出す。
「真ちゃんも菜月ちゃんも、いってらっしゃい」
嬉しそうに手を振る母親にぺこりと頭を下げ、再び前を向く。まだ春になったばかりで風は冷たいが、空は高くてどこまでも青い。
「そんなにそわそわ周りを見なくても、誰も取って食べたりはしないわよ。落ち着きなさい」
「う、うん……でも、その……」
「どうしたの?」
「あの……その……高木さんの……手が……」
「手? ああ、繋いでないと誰かが逃げてしまいそうだからね」
悪戯っぽく告げたつもりが、何故か真は茹蛸みたいに赤面して俯いてしまう。やはりまだ軽快な会話というのは早かったのだろうか。
ふと小首を傾げた菜月を、横から瞳を潤ませる真が見つめてくる。
「あ、の……本当に、迎えに来て、くれたんだね……」
「友達なんだから当たり前でしょう。何でもというわけにはいかないでしょうけれど、これからは何かあったら私に相談しなさい。出来る範囲で力になるわ」
「う、うんっ」
嬉しそうに頷く真。ようやくというべきか、ほんの少しだけ彼の足取りも軽くなったみたいだった。




