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その日の深夜。高木家のソファで、春道は妻の和葉が淹れてくれた緑茶を飲んでいた。
「早いもんだな」
台所作業を終えて隣に座った和葉に話しかける。
「そうね。小さいと思っていたあの子が、高校を卒業するなんて冗談みたいな話だわ」
唇に人差し指の第二関節を当てて、クスっという擬音が聞こえそうな笑みだった。
昔から綺麗だったが、現在は年齢を重ねた美しさを身に纏っている。とはいえ、外見上はとても三十代半ばを過ぎたようには見えない。
春道に見つめられてるのに気づいたのか、和葉は口元から指を離す。「どうしたの?」
「いや、和葉の言う通りだと思ってさ」
和葉に見惚れてたのが事実なら、愛する我が子に対して同じ感想を抱いていたのも事実だ。
春道が愛娘――葉月と出会った頃、彼女はまだ小学生低学年だった。
通っていた銭湯から外へ出た際に「パパ」と声をかけられたのが、すべての始まりとなった。
契約による結婚を和葉に持ちかけられて損得勘定のみで応じたのが、気がつけば本物の家族になっていた。
「なんだか懐かしいな。葉月に構いすぎたせいで、和葉に怒られたのも含めてな」
「……まだ覚えてたのね。仕方ないでしょ。あの頃は葉月を守るので精一杯だったんだから」
「わかってるよ」
触れるのに緊張しなくなった妻の肩を抱き寄せる。まだ肌寒い春の夜、衣服から伝わる彼女の体温は身も心も温めてくれる。
そうするのが当たり前のように、和葉は春道の肩に頭を乗せた。しばしの沈黙の時間を夫婦で楽しむ。
そのうちに和葉が、もう一度クスリと笑った。今度は春道が「どうした?」と聞く番だった。
「寄せ付けないようにしていた春道さんと、こうしているのがなんだかおかしくて。でも、感謝しているわ。偶然は運命だった、なんて私らしくもなく考えてみたりしてね」
「俺も和葉と出会えてよかったよ。葉月ともな」
そんな高木家の長女も十八歳になり、明日で三年間通った高校を卒業する。彼女を通して、春道も色々な体験をさせてもらった。
部活の応援や、保護者も一緒に参加した学校行事。色々な付き合いを経て、人間として、父親として成長できたような気がする。
それもすべて葉月のおかげであり、言葉にした通り彼女との出会いを何より感謝していた。
「私もよ。でも、実感が沸かないわね。あの子が大人になるなんて」
「まだ未成年だし、大学に受かっていれば学生だけどな。それでも在学中に二十歳にはなるのか。本当にもう大人だな」
「ええ。大人になったからパパと結婚すると、言い出さなければいいんだけど」
和葉は笑っている。冗談だ。
春道も当人の報告を受けて、葉月が仲町和也と交際を始めたのを知っていた。何度か家にも遊びに来ている。
若干の憧れはあったりしたが、性格的に娘をやらんというタイプではないので、素直に若い二人を祝福できた。
小学校時代の件が夢だったのかというくらいに、和也は真っ直ぐに成長していた。むしろその件があったから、現在の姿になったのかもしれない。
もっとも、虐めの原因となったのは好きな女子――つまりは葉月の気を引きたいというものだったが。
動機は小学生らしいかもしれないが、虐められた方がずっと心に残る。トラウマがあってもおかしくないはずだが、葉月はその点をよく乗り越えた。何もできなかったが、親として春道は誇りに思っている。
「和也君もいるし、大丈夫だろう。俺が若さに目が眩んで、ふらふらするとわからないけどな」
「まあ、春道さんたら。面白くない冗談だわ。そんなことになったら、どうやってお仕置きしようかしら」
愛妻の目が本気になっているので、即座に謝罪する。胃袋をガッチリ握られているだけに、怒らせた際のお仕置きに耐えられる気がしなかった。
「それにしても、今回は落ち着いてるじゃないか、いつもは前日からそわそわしてるのにな」
からかうように春道は言った。
葉月のことになると冷静さを失いがちになる和葉だが、大学受験の際も含めてさほど取り乱してはいなかった。
「緊張はもちろんしてるわ。でも、感慨深さが勝ってるのかしらね。それにあの子はしっかりしている。それがわかったのが一番かもしれないわ。少しだけ寂しいけれど、常に私が心配する必要はないのよ」
でも、と和葉は付け加える。
「当日になったらわからないけどね」
「その時はいつものように、俺の手を握るなり服を掴むなりしてくれればいいさ」
「ええ、頼りにしてるわ」
至近距離で顔を見合わせて笑う。ふとどちらからともなく真顔に戻り、緩やかに重なる。
「ねえ、春道さん。葉月ね、パン屋になりたいそうよ」
「そんなことを言ってたな。まあ、大学に行ってる間に他の夢を見つけるかもしれないけどな」
「そうね。どちらにしても、やりたいことをやってくれればいいわ。あとは元気でいてほしい」
「ああ。さて、そろそろ眠るか。明日はきちんと娘の卒業式を撮影してやらないとな」
「はい、あなた」
いつになく春道をあなたと呼んだ和葉は、一度言ってみたかったのと悪戯っぽく笑った。そのあとで彼女から顔を近づけてきて、眠る前にもう一度だけ唇を重ねた。
道路脇にも雪はもうなく、本格的な春の訪れが卒業式を祝う。
柔らかな日の光の祝福に包まれ、春道は二女の菜月も連れて卒業式の会場となる南高校の体育館へ入った。
昨夜までは平気だったが、今朝から徐々に落ち着くをなくしつつあった和葉も一緒である。
「や、やっぱり緊張してきたわ。どうしてこうなのかしら。自分の事なら平気なのに……」
「それが親ってもんだろ。まだまだ新米だから、偉そうなことは言えないけどな」
慰めるように言ってから周囲を見る。すると、すぐにこちらに気づいた佐々木実希子の両親に名前を呼ばれた。
どうやら親交のある家族の中では、春道たちが最後だったようだ。卒業式の案内に書かれた開始時間にはまだ結構あるのだが、早くも保護者席は多くの人でごった返している。
佐々木実希子の両親らが春道たちの席も確保してくれていた。お礼を言って座ると、和葉だけでなく菜月まで落ち着かない様子でそわそわし始めた。
「なんで菜月まで緊張してるんだよ」
からかうと、可愛らしい二女はすぐに頬を膨らませた。
「緊張なんてしてないわ。はづ姉が転んだりしないか、心配してるのよ」
「おや。葉月が転ぶのを期待してるんじゃないのか? やっぱり菜月はお姉ちゃん大好きっ子なんだな」
「ち、違うってば。もう、パパ嫌い」
フンとそっぽを向かれる。悪い悪いと頭を撫でるが、そう簡単に機嫌は戻らないみたいである。
普段ならフォローする役回りの和葉も、今日ばかりは二女以上に気もそぞろになっている。
丁度家族の真ん中に座っている和葉は右手で菜月の手を握りながら、左手で春道のジャケットを掴んでいる。
式の開始時間が近づくにつれて握力が強まっているようなので、菜月を痛がらせないようにという注意だけはしておいた。
「大丈夫だろうと思っていても、不安になるわね。あっ、始まったわ。葉月はF組だから、最後の方ね」
今井好美らと同じクラスの葉月は、春道たちの前を通る際にこちらを見てにこりと笑った。
その瞬間に和葉は泣き出し、菜月までもらい泣きする。
「本当に立派になったわね」
泣きすぎてせっかくのワンピースを汚すなよとは言わない。滅多に春道の目尻にも熱い感触があるからだ。
卒業証書の授与が始まり、涙を流しながらも壇上で堂々と振舞う葉月の姿に、筆舌にし難いほどの感動で胸を震わせる。
先ほどの和葉の台詞ではないが、本当に立派になった。にこにこしながら後ろをついて回る小さな少女の姿を思い出し、とうとう春道も本格的に泣いてしまった。
夜になって、友人同士の遊びから帰宅した葉月の卒業を祝う。
新しいスマホをプレゼントしようかと思ったが、まだ使えるのでいいと葉月当人が拒否をした。高校の入学祝で買ってもらった物なので、壊れるまで使いたいらしかった。
葉月が新しいのを買ってもらったのを理由に古いのを譲り受け、あわよくば自分もスマホを持とうとしていた菜月の野望はここで絶たれた。本人はかなり落胆していたが、和葉にいかなる理由があっても高校生までは持たせないと改めて通告され、哀れこの上ないくらいに絶望するはめになった。
その葉月が欲しいとおねだりしたのは、和葉が昔着ていたという着物だった。成人式の日に着たいらしい。
和葉は快く応じ、成人式前になったら渡すと約束した。
それだけでは足りないだろうと言ったが、葉月は他に求めなかった。
「パパがいてママがいて、なっちーがいる。家族全員で過ごせるのが、私にとって何よりの幸せなんだよ」
「あとは和也君ね」和葉が勝手に付け足した。「パパ離れしてくれて嬉しいわ」
「え? 何言ってるの? 和也君は彼氏でも、パパはパパだもん。ずっと一緒だよ」
娘にそう言われて悪い気はしないのが父親だ。思わず財布を取り出して、何が欲しいとウキウキしながら尋ねたくなってしまう。
「でも、はづ姉は大学に合格したら家を出るんでしょ?」
ちょっとだけ寂しそうな菜月を、葉月が両手で抱き締める。
「大丈夫だよ。同じ県だし、何かあったらすぐに帰ってこられるから。ただ部活をやるなら寮の方がいいだろうって皆で話し合ったの」
大学に合格した場合、自宅から通うのではなくて寮で暮らしたい。
葉月からそう打ち明けられた時、春道は真っ先に賛成した。彼女の自主性を大事にしたかった。だからこそ通学を希望する和葉の説得もしたのである。
「何事も経験だ。寮での団体生活を楽しむのも悪くはないさ。長期休み中のアルバイトは無理そうなんだったか?」
「うん。多分、ソフトボール部に集中すると思う。それと、皆と一緒に寮生活をしてみたいというのもあるかな。受かってなければ、どうしようもないけどね」
葉月は滑り止めの大学を受験していない。落ちた場合はすっぱりと諦めて、パン屋さんにアルバイトでもいいから就職して修行を積みたいらしかった。悩んだ結果、専門学校等に進むより実務経験を優先したのだ。
放任主義ではないが、葉月の人生なのだから好きにさせてあげたかった。それで困ったら、その時に親である春道なり和葉が助ければいいだけなのである。
「朝練があったりすれば、電車で一時間以上かけて通うのも大変だしな。子離れできてない和葉は、まだ不満があるみたいだが」
「それはそうよ。でも、葉月が決めたことだものね。私も応援するわ。寂しくなったら、すぐに帰ってきていいのよ」
「ハハハ。この分だと葉月が帰ってくるより先に、和葉が寮まで押しかけそうだな」
冗談で言ったつもりだったが、その手があったかとばかりに和葉は目を見開いていた。
真意を尋ねるのが何となく怖くて苦笑するが、愛娘はそんな母親の台詞にも笑顔で頷く。
「その時は寮や大学を案内するよ。いつでも遊びに来てね。だって私たちはずっと家族だもん。遠慮なんてされたら、悲しくて泣いちゃうよ」
「そうだな。だから葉月も遠慮しないで、何かをねだったりしてもいいんだぞ」
「うん。じゃあ、パパをおねだりする」
「アッハハハ。これはやられたな」
笑う春道の隣で、妙に怖い空気を醸し出すのは和葉だった。
「それは駄目よ。葉月は和也君で我慢なさい」
「そうそう。パパは菜月が貰っておいてあげるから」
「なっちー、裏切りは駄目だからね!」
「その前に、俺は景品じゃないんだが」
この日ばかりは菜月も夜更かしを許され、日付が変わるまで四人でのお喋りを楽しんだ。




