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夏が通り過ぎれば、あとはあっという間だった。迫りくる受験に挑むため、葉月たちは必死で勉強をした。三年分を、一年で取り返そうとするかのような勢いだった。
せっかくの冬休みも受験勉強に費やした。代替わりしたソフトボール部の新人戦の応援に行った以外は、遊びに行くのも制限したみたいだった。
それもこれもすべて、三人で同じ高校へ進学するためだ。佐々木実希子に合わせて志望校のランクを下げるのではなく、今井好美のために逆に上げたのは好印象だった。
春道や和葉も出来る限りの手助けをした。本当は実家への帰省も控えようかと思ったが、多少の息抜きは必要とのことで、短めの日程ながらも墓参りをしてきた。
三が日が終わればすぐに勉強の日々へ戻った。短い三学期に突入しても、変わらなかった。
そして今日。高木家の長女は、人生で初めての受験に挑む。
春道はわりとゆったり構えていたが、妻で母親の和葉は違った。朝から娘より緊張している。
「準備はきちんと終わったの? 受験票を忘れたりしないようにね」
「ママってば、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。私が、そんなヘマをするように見える?」
「見えるわ。葉月なら、やりかねないもの」
むーっと唇を尖らせるものの、反論してる余裕はない。すぐにでも、今井好美らが迎えに来るはずだった。自転車ではなく、徒歩で高校まで向かうので早めに出発する予定になっているのだ。
約束した時間の少し前に、インターホンが鳴った。誰か確認しなくとも、やってきたのは今井好美だとわかる。
葉月が移動するのに合わせて、春道と和葉も一緒に玄関へ向かう。次女の菜月は、幼稚園の送迎バスに乗ってすでに出発済みだ。
ドアを開けると、今井好美と佐々木実希子が立っていた。さすがに二人とも緊張気味だ。
「おはようございます。葉月ちゃん、準備は大丈夫?」
「好美ちゃんまで、心配しすぎだよ。きちんと受験票も持ったし、大丈夫」
準備をしたバッグを部屋に置いていくというベタなミスもせず、葉月は親友たちと一緒に受験会場へ出発した。
家の中がシンとするなり、妻の和葉がそわそわとあちこちを歩き出す。
「どうかしたのか? 忘れ物なら、してなさそうだったぞ」
出かけたばかりの葉月は、きちんと和葉お手製のお弁当も持って行った。緊張はしてるだろうが、いい状態で受験に臨めそうだ。
「春道さんは、心配にならないの。葉月の人生の行方が、今日で決まるのよ!」
「お、落ち着けって。合格発表はまだ先だから、今日で人生の行方は決まらないぞ」
「そんな言い訳は聞きたくないわ!」
ぴしゃりと言ったあとで、春道の眼前まで愛妻がやってくる。昨夜はろくに眠れてないのか、目が充血している。
「受験に失敗したら、友達に見捨てられるわ。ひとりぼっちの葉月は引きこもりになるの。そのうち柄の悪い人たちと遊び始めて……ああっ! 力のないママを許してっ!」
どこの昼ドラマの設定だとツッコミたい衝動を抑える。娘が何より大事な和葉が、このパターンに突入したら何を言っても無駄だ。
無視してるうちに元へ戻ってくれたらありがたいが、相手をしていないと責められる。普段は誰より冷静なのに、娘が絡んでくると抑えがきかなくなる。それが高木和葉という女性だった。
「高校受験がすべてじゃないんだし、どっしり構えてようぜ。親の俺たちに余裕がないと、葉月が不安になるだろ」
「春道さんは甘すぎるわ。受験とは戦争よ。勝つか負けるかで、運命は大きく変わるの」
「さすがに、大げさすぎないか……?」
「もっと危機感を持って! 私たちの大事な娘が、最前線で戦ってるのよ!」
愛妻は興奮する一方だ。なんとかなだめようとするのだが、何を言っても否定される。身振り手振りを交えて、過剰な発言を連発する姿を、いっそビデオカメラで撮影してやろうかなんて悪戯心が芽生える。その映像を和葉だけでなく、娘たちにも見せてやれば、少しはマシになるかもしれない。
本気で実行しようかと思ったが、途中でやっぱり駄目だなと断念する。我を忘れてる和葉の姿を見せても、だってママだからのひと言で葉月あたりに片付けられそうな気がした。
仕方なしに春道は、おとなしく愛妻に付き合ってやろうと決める。もっともらしく、うんうんと頷きながら和葉の言葉に耳を傾ける。
「あの子は私に似て可愛いから、執拗に狙われるかもしれない……! なんて卑怯なの!」
駄目だ。春道は本気でそう思った。愛妻に付き合おうとしたのも束の間、わけのわからない妄想世界に滞在しきれなくなる。
「だから落ち着け。受験会場のどこに敵がいる」
「周りに決まってるでしょう。試験中に嫌がらせをされたりしたら、とても集中するどころじゃないわ!」
「そんな事態が起きてたら、監督役の先生方が注意するに決まってるだろ」
試験会場にいるのは受験生だけではない。その高校の教員も、誰かが不正を行ったりしないか監視する意味も含めて待機しているはずだ。
「春道さんは甘すぎる……! どうして他の受験生と、裏で手を組んでいると考えないの!」
「いや、普通は考えないだろ。そんなことをしてたら、大問題だ」
正論を言っても、届かない。悲劇のヒロインとなった愛妻が、娘の名前を呼んでリビングの床に崩れ落ちる。
娘が初めての受験に挑むのもあって、数日前から極度に緊張してるのはわかっていた。春道も内心ではドキドキしていたので、あえて放置しておいた。
おつかいをひとりでさせた時も、尾行したくらいだ。こうなるのは、予想できた。他人が側にいれば平静を保とうとするのだが、春道だけだとご覧の有様だ。
情けないとは思わない。むしろ春道に心を許し、甘えてくれているのだと好印象を抱く。出会った当初のツンツンしてばかりの妻よりも、今の方がずっといい。
「葉月は大丈夫だよ。だから不安だとか言われそうだが、俺の子供でもあるんだ」
「……わかってるけど……心配なものは心配なの。ああ……無事に会場へ着いているのかしら」
立ち上がった和葉が、リビングだけではなく家中の廊下をうろうろし始める。
落ち着いて仕事ができそうもないので休みにしたが、大正解だったようだ。妻からの焦燥感のお裾分けで、こちらまで動悸がしてくる。
「そうだわ。今からでも、受験会場へ向かいましょう。不安なあの子を助けるのよ!」
「落ち着けっ! それはマズい。いくらなんでも、やりすぎだ!」
本気で行きかねない妻を、慌てて羽交い絞めにする。離してと暴れられても、簡単に手を離すわけにはいかない。
最近では、受験会場にまでついていきたがる保護者もいるというニュースを以前にテレビで見た。その時は凄い親もいるもんだなと呆れた。まさか、ごく身近にいるとは思わなかったからだ。
「葉月は喜ぶかもしれないが、他の子供は戸惑うぞ。自分の子供のためなら、迷惑をかけてもいいのか」
理性が少しは残っていてくれたらしく、妻の身体からスっと力が抜けた。
これでひと安心かと思いきや、まだ和葉は諦めようとしない。
「それならせめて、電話をかけさせて。通話料金をこちらで負担して、受験会場と繋げておいてもらうの」
「できるはずないだろ」
「どうして!?」
「どうしてって、本気で言ってるのか? そんな真似を許したら、受験生がカンニングし放題じゃないか。通話中の親から、答えを教えてもらうという方法でな」
「くっ……! それは盲点だったわ」
何故に悔しがるのか意味不明だが、どうやら理解してくれたようだ。
そう考えた春道が甘かった。
「春道さんは意地悪だわ。もっと早く教えてくれていれば、確実に葉月を合格させられたのに……!」
「おいおい! 不正する気だったのかよ」
普段の和葉なら、絶対に口にしない発言だ。それだけ愛娘を心配してるのがわかる。だからといって、不正の肯定はできないが。
「……もちろん、冗談です」
「今の一瞬の間は何だ。危険すぎるから、やっぱりお前を葉月のもとへ行かせるわけにはいかん」
「意地悪しないで。あの子には私が必要なんですっ!」
「葉月が可愛いのはわかる。けど、あいつだってもう中学生。試験に合格できれば高校生になるんだ。そのうちに親離れするようになる」
言われなくともわかっていたのか、いつになく和葉が寂しそうな顔をした。
「ずっと一緒にいたい気持ちもわかる。俺だって、葉月や菜月が可愛いからな。けど、それは多分、あいつらのためにならない」
「きっと……春道さんの言うとおりなのよね……」
「だから、そんなに寂しそうにするな。葉月たちが親離れしても、俺たちはずっと一緒だろ。夫婦なんだからな」
羽交い絞めをやめ、正面を向かせて真っ直ぐに相手の目を見る。肩を抱く手に力を入れると、和葉はもうこれまでみたいに取り乱したりしなかった。
「春道さんはずるい。いつも私ばかり、ドキドキさせられてるもの」
「そんなことは……ないだろ、多分」
声が上擦る。上目遣いをしてきた和葉は、とても蠱惑的だった。
魅了されたように、目を離せなくなる。勝手に唇が吸い寄せられる。
愛妻が目をつぶる様子が視界に映る。こうなると、もう自分自身を制御できない。
熱い吐息を漏らす唇どうしが触れ合う。その瞬間だった。
「ただいまーっ!」
家中に葉月の元気な声が響いた。合鍵を持たせているので、インターホンを鳴らさずに玄関のドアを開けたのだ。
閉じていた愛妻の目が、大きく見開かれる。肩を抱いていた春道の手を振りほどき、全速力で玄関へ向かう。
リビングでひとりぼっちにされた春道は苦笑した。腹立たしさはない。そもそも娘が受験を頑張ってるのに、甘い雰囲気を作ってしまったこと自体が駄目だったのだ。
「それにしても、いつの間にかこんな時間だったんだな」
リビングに時計を見ると、すでに夕方近い時間になっていた。和葉とのやりとりを、それだけ長い間していたのだ。改めて春道は、ひとり苦笑いを浮かべる。
考えてみれば、昼食どこか朝食もとっていない。空腹を覚えないほどに、春道も自分事のように緊張していたのだ。
和葉のことをいえないな。春道も玄関へ向かおうとしたところ、二人が一緒にリビングへやってきた。
「パパ、ただいまーっ!」
「おかえり。試験はどうだったんだ?」
問いかけられた葉月が、にぱっと笑う。目の前で見せてくれたピースサインが、自信の大きさを表している。
「どうやら大丈夫だったみたいだな」
「うん。試験のあとに、図書館で好美ちゃんたちと答え合わせをしたけど、葉月と好美ちゃんは多分、大丈夫だよ」
「……実希子ちゃんはどうした」
「……ギリギリっぽい。受かってるといいんだけど……」
そうかとしか言えなかった。愛娘にとって、親友が受かってるかどうかは大きな心配事になる。
「合格発表の日までは落ち着かないだろうが、なるべく気にしないように過ごすといい」
「わかってる。ありがとう、パパ」
「おう。それじゃ……皆でご飯でも食べに行くか。葉月の顔を見て、安心したら急に腹が減ってきた」
呆れるように和葉が「春道さんは、仕方ないわね」と言った。
次の瞬間、発言を待っていたかのように和葉のお腹がくーっと可愛く鳴いた。彼女だって春道と同じように、朝も昼も食べてないのだ。
「アハハ! ママもお腹が空いてるんだね。じゃあ、菜月が帰ってきたら、すぐご飯に行こうよ!」
「そうだな。今夜は特別に、お寿司でも食べに行くか。パパが奢ってやるぞ」
「わー! パパ、大好きっ!」
瞳をキラキラ輝かせた葉月が、春道に抱きついてくる。
その様子を見ていた和葉が微笑む。
仲間外れは嫌だとばかりに、菜月が帰宅したのはそれからすぐだった。




