36
しばらく無言で座っていたあと、春道が最初に口を開いた。
「俺は……冷たい人間なのかな」
ポツリと言った春道に、隣の和葉が「どうして?」と尋ねる。
心配そうな愛妻に見つめられながら、自分を冷たい人間だと思った理由を説明する。
「俺さ、実の母親が亡くなったのに、あまり悲しくないんだ。涙ひとつ、出てこないんだよ」
言葉にしたとおりだった。
葉月や菜月はわんわんと泣き、和葉も瞳に涙を溜めていた。
皆が母親の死を悲しんでくれているのに、息子の春道だけはあまり感情の変化を覚えなかった。
それがなんだかとても寂しくて、まるで心を失ってるかのようだった。
「きっと、まだ現実感がないのよ。それに、春道さんだけじゃないわ。私だって……父の時にそうだったもの」
すっかり砕けた口調を使うようになってくれた和葉が、いたわるように微笑んだ。
母親が子供へするように春道の頭を胸に抱き、髪の毛を撫でてくれる。
凍った心が溶けていくようで、身体の中がジンと熱くなる。
気がつけば、春道は涙を流していた。
無意識にこぼれたひと筋の涙を、妻の和葉がそっと指ですくう。
「春道さんが、冷たい人のはずがないわ。子供嫌いと言っておきながら、困ってる葉月の力になってあげる人だもの」
「そういや、そんなこともあったっけな。今では、すっかり親バカ一直線だ。これも……お袋と血が繋がってるせいだぞ」
遺体に向けて言葉を発した春道の隣で、妻の和葉がクスッとした。
「それなら、お義母様に感謝をしないと駄目ね。春道さんを産んでくださったから、私は今、とても幸せです」
「……照れたりせず、きっと満面の笑みを浮かべて、喜んでるんだろうな」
生前の姿を思い出しては、あれこれと話をする。実際に会話をするのは叶わなくなったが、こういうのもひとつの供養になるのかもしれない。
和葉が会話に付き合ってくれるおかげで、時間の流れが早く感じた。
父親が仮眠から起き出してくると、今度は朝食を作ってくれる。家族全員で食べたあと、春道が仮眠を取る。
和葉を先にしたかったが、最後まで首を縦に振ってもらえなかった。苦笑しながら、居間に用意されている布団へ入る。
疲れもあるのか、瞼を閉じるとすぐに眠りへ落ちた。
台所に母親が立っていた。春道はご飯を食べたいと告げた。
振り返った母親は笑顔だった。見慣れたいつもの笑顔だった。
少しして、料理が出された。春道の好きな肉じゃがだ。
料理を作ってくれた女性の顔を見た。そこにいたのは母親ではなく、妻の和葉だった。
春道の世話をいつバトンタッチしたのかと、夢の中で苦笑いを浮かべ続けた。
母親が亡くなって以降は、あっという間に過ぎた。
通夜を終え、火葬を終える。親族や親しかった友人にだけ連絡し、小規模で行った。
それでも多数の人間が来てくれた。ずいぶんと母親は慕われていたのだと知った。
和葉だけでなく、葉月や菜月も手伝ってくれたので、滞りなく見送れた。
葬儀には、話を聞いた戸高泰泰宏も来てくれた。子供は預けてきたらしく、夫婦二人だけで参列した。
葬儀が終わったあとは、参加してくれた人たちで食事をした。春道たちも一緒だ。
大半が知らない人ばかりにもかかわらず、妻の和葉は笑顔で応対してくれた。
中年男性の親族たちが美貌豊かな和葉を見て、でれっとしてるのが印象的だった。
若干の腹立たしさを覚えつつも、どこか自慢げになったりもする。
葉月や菜月は、女性陣から人気だった。中年の女性らに、たくさんのお菓子を貰ったみたいだ。
祖母が亡くなった直後はよく泣いていたが、最近では回数が減った。
きちんと祖母の死を受け入れ、思い出に消化できているのだろう。愛らしい笑顔を見せる娘たちを見て、春道は心から安堵した。
葬儀の席で、参列者たちが楽しそうに母親との思い出を語る。
時折涙を見せながらも笑顔なのは、亡くなった母親が湿っぽいのを嫌うと知っているからだろう。
考えてみれば、最後まで勝手だった。
元気な姿だけを覚えておいてほしいと、先が長くないのも知らせてくれなかった。母親は満足だろうが、春道には心残りがある。
「……ろくに、親孝行ができなかったじゃないか……」
葬儀に飾られた笑顔の写真を見て、誰にともなく呟いた。
いつの間に近くにいたのか、背後から父親が春道の右肩に手を置いた。
「もう十分にしたさ。自分の力だけで生活し、お嫁さんや孫の顔を見せてあげただろ。お前が結婚してるのを知って以降、母さんは本当に楽しそうだった」
「そうだな。暇さえあれば……葉月と遊びたがってたもんな」
「ああ。家でもよく、葉月たちの写真を眺めてたよ。次はいつ遊びに来るんだろうってな」
「もっと……遊びに来てやればよかったな」
春道が言うと、父親は首を横に振った。
「気にする必要はない。それに、会いたくなったら、母さんから出向いていただろう。和葉さんに、ずいぶんとご迷惑をかけたんじゃないかと思う。あとでお礼を言っておかないとな」
「いつだって、突然なんだよ。今回もな。お袋らしいけどさ」
春道と父親が一緒になって笑う。
二人の視線の先では、写真の中にいる母親も目を細めて笑っていた。
葬儀も終わり、忙しかった日々も少しずつ落ち着きを取り戻してくる。
春道たちも、そろそろ自分たちの家へ戻ろうかと考えだした頃だった。
全員で夕食をとっている席で、唐突に和葉が提案した。
「考えたのですけど、お義父様も私たちの家で暮らしてはどうでしょうか」
いきなりだったので、驚いた父親が目を丸くする。
「おひとりでは何かとご不便でしょうし……同居をしていれば、お手伝いができます」
春道の父親を気遣ってくれての発言だった。
たまにひとりになるのとは違う。寂しさもあるだろうし、一緒に暮らした方がいいのかもしれない。
「私も賛成。皆で暮らせば、きっと楽しいよ」葉月が言った。
菜月も茶碗を持ったまま、コクコクと頷いた。
春道にも異論はないので決定かと思いきや、当の父親が承諾しなかった。
「お前たちに迷惑をかけたら、母さんに怒られる。それに……側にいてやりたいんだよ。墓もこっちだしな……」
亡くなった母親だけでなく、父親にとってもここは若い時代を過ごした土地だ。
春道が知らない思い出も、きっとそこかしこにあるのだろう。
懐かしむような目をする父親に、春道は何も言えなくなった。
妻の和葉も同様だったみたいで、申し訳なさそうに「すみませんでした」と謝った。
「謝る必要はないよ。和葉さんの優しさは、とても嬉しいんだ。間違いなく、母さんはやきもちを焼いてるだろうな」
笑う父親を見て、和葉も小さく微笑む。
これでこの話も終わりになるかという時に、今度は葉月がとんでもない提案をした。
「じゃあ、皆でここに住めばいいんだよ」
「皆でここにって……お前、学校があるだろ」春道は言った。
「転校すれば大丈夫。私なら平気だよ」
笑顔の葉月の隣で、やはり菜月も頷く。よほどお腹が空いていたのだろうか、相変わらず茶碗と箸を持ったままだ。
確かに、葉月の言うとおりにするのが一番だ。けれど、素直には頷けない。
「好美ちゃんや実希子ちゃんはどうする。仲の良い友人と、離れ離れになってもいいのか」
普通なら嫌と言うはずなのに、心優しい愛娘は「大丈夫」と言った。
「好美ちゃんや実希子ちゃんなら、話せばわかってくれるよ。二度と会えなくなるわけじゃないしね」
すっかり決意してるみたいだが、春道は小さくため息をついて首を左右に振った。
「やっぱり駄目だ。誰より、お袋が喜ばない。お前が辛い思いをしてどうするんだ」
「だって……」
なおも食い下がろうとする葉月を制したのは、春道の父親だった。
「葉月の気持ちは嬉しいが、春道の――パパの言ったとおりだ。無理をしなくてもいいんだよ」
葉月が俯く。祖父と一緒に暮らしたいが、友達も大事に思ってるのがよく伝わってくる。
「一緒には暮らせなくても、毎年会いに来ればいい。今までみたいにな」
春道が言うと、父親もそのとおりだと言いたげな顔をした。
「そうね。その時には、葉月が作ったお菓子でも持ってきてあげればいいわ。お義母様も喜ぶでしょうから」
「喜びすぎて大変だよ。前に葉月がお菓子を作ってきてくれた時は、家宝にすると言ってずっと飾ってたからな」
父親の言葉に、たまらず春道は吹き出しそうになった。
「お、おいおい……悪くなってなかっただろうな」
「ギリギリのところくらいで、食べてたぞ。勿体なさそうにしながらな。あれは確か、クッキーだったな」
懐かしそうに父親が言った。
幼少時ならともかく、成長した葉月はずいぶんと料理が上手になった。母親の和葉まではいかないが、料理対決をしたとしても、十分に勝負になるレベルだ。
最近では和葉が不在の際は、葉月が夕食などを用意してくれる機会も増えた。春道が奥義を伝授した頃とは偉い違いだった。
「そんなのでいいなら、たくさん作るよ。向こうでお裾分けして、お祖母ちゃんが人気者になるくらい」
「じゃあ、菜月も作る」
ひと足先に夕食を終えた菜月が、食卓に茶碗を箸を置いてから、気合を示すように両手を上げた。
「菜月もって……料理できるのか?」
真っ先に驚いたのは、春道の父親だった。
質問されたのはいいが、明確な答えは春道でさえも持っていなかった。
困った春道は、目で愛妻にどうなんだと質問する。
「まだ料理のお手伝いをさせたことはないわ。小さなお皿を並べさせたくらいかしら」
「そうか……なら、教える必要があるな」
春道が言うと、途端に愛妻が険しい顔つきになった。
「間違っても、例の奥義を伝授するのだけはやめてね。矯正するのは大変だったのよ」
「勝手に覚えるかもしれないだろ。和葉の娘なんだから」
「それを言うなら、春道さんの娘です」
「おいおい。お袋から受け継いだ血が悪いと言ってるのか。和葉は酷い嫁だな」
狙い澄ました春道の指摘に、和葉が「卑怯よ」と唇を尖らせた。
「もう。二人とも、喧嘩は駄目だよ。菜月には、私が料理を教えるね。子供の頃は、包丁を大胆に使って料理を覚えるんだよ」
悪気をまったく感じられない葉月の発言に、春道と妻の和葉は声を揃えた。
「お願いだから、やめて」
葉月が舌を出して笑う。冗談だと気づいて安堵する。
「……葉月の小さい頃は、そんなに凄かったのか。見てみたかった気もするな」
父親の軽卒な発言が、悲劇への幕開けとなる。
待ってましたといわんばかりに立ち上がった葉月が、和葉の制止を振り切ってキッチンへ向かう。
「は、春道さんっ! あの子を止めてください!」
「親父があんなことを言うからだぞ!」
「す、すまん……」
騒がしい夕食を終え、眠る前まで皆で母親の思い出を話したりする。
その日の晩は、母親の遺影がある前で全員が眠った。
そして次の日。春道たちはそれぞれの日常へ戻るために、実家をあとにする。
車の窓から身を乗り出し、実家が見えなくなるまで後部座席で葉月は手を振り続けた。
運転中の春道は愛娘に危ないぞと注意しつつ、心の中で呟く。
お袋、またな。
母親の声は聞こえないが、脳裏に浮かんだ顔はいつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。




