14
高木春道が朝――といっても正午近くに起床すると、家の中に人の気配はなかった。松島和葉は会社に、葉月は小学校に行ったのだろう。
部屋から出ると、まずは洗顔と歯磨きをしてサッパリする。そのあとで、例のごとく用意されていた朝食を冷蔵庫から取り出して口にする。
昨夜もめてしまったため、変な味付けになってるんじゃないかとも思ったが、どうやら松島和葉は陰険なタイプではないらしい。
きちんと今日の食事が用意されてた時点でわかっていたが、こうして自分の舌で確認するとより安心できた。
今朝も無事に食事を終え、仕事にとりかかるべく専用の部屋へ行く。
椅子に座って、早速デスクトップPCの電源を入れる。
それにしても昨日はまいった。ディスプレイに映しだされた起動を告げるメッセージを見ながら、元凶となった出来事を思い出す。
自分でも理由はわからない。とにかく無性に、松島葉月の小学校で行われていた父兄の授業参観に行きたくなったのだ。
春道は厄介ごとを好む性格ではない。何故か参加してしまった。昨日みたいな事態になると、考えられたのにである。
結果、松島和葉と言い争いになった。売り言葉に買い言葉的な展開で怒らせた。さすがにあれはないと、ひとりになってから反省した。あとで機会があれば、謝罪するべきだろう。
考えがまとまったところで、タイミング良くOSの起動が完了した。まずは仕事を優先しなければならない。一度深呼吸をして集中力を高めてから、春道はキーボードに手を伸ばした。
ふーっと大きく息を吐き、両手の動きを止めた頃にはすでに正午を過ぎていた。
いつの間にこんな時間になってたのか、なんて驚いたりはしない。こういったケースはこれまで何度も経験している。
子供の頃から物事に没頭すると、時間を忘れてしまう。大人になっても、変わらない。食事の時間を逃したせいで一食を抜くなんて、松島家に来るまでは日常茶飯事だった。
今回は幸いにして、食事時間を大幅に過ぎてるわけではない。用意されていたセットの中から昼食を選択し、私室にて平らげていく。仕事のペースは順調だ。この分なら、余裕を持って納期に間に合わせられる。
それもこれも衣食住のうちの2つが、松島和葉によって援助されてるからだった。いくら相手の状況に合わせての結婚とはいえ、多大に世話になってるのには変わりない。やはり相手の意向を十分に尊重する必要がある。
それでなくても、春道は昨日彼女を怒らせてしまったばかりだ。これからはもっと冷静に物事を考え、下手に怒らせないようにしないとな。
昼食を終えてひと休みすると、すでに結構な時間になっていた。夕方にはまだ時間があるとはいえ、そろそろ学生たちも帰宅を始める頃だ。そうなると松島葉月も――。
玄関のドアが開く音がしたかと思ったら、すぐにドタドタと何者かが階段を上ってくる。
こちらの都合などお構いなしで、ノックもなく私室のドアが開かれた。正体は松島葉月で、走って帰ってきたのか息を切らしている。
まさか、また同級生にいじめられたのか。けれど、松島和葉には関わらないでくれと何度も怒られている。ここは一体どうするのがいいのか。
「ママなんてだいっ嫌い!」
ランドセルを背負ったままの葉月の第一声がそれだった。とりあえずいじめられてはいないみたいだが、何のことかわからない春道は呆然としてしまう。
「だってね、だってね。葉月とパパが仲良くするの、駄目って言うんだよ」
よほど頭にきてるのか、かなりの剣幕と早口でまくしたててくる。これまで春道に迷惑かけないようにと、二階に来るのを散々躊躇っていた少女と同一人物とは思えなかった。
やはり本音では、本物の父親と信じてる春道に甘えたくて仕方なかったのだろう。丁度このぐらいの年齢が、一番両親を必要とするのかもしれない。
我慢していたのが、先日の授業参観で優しくされたのをきっかけに、一気に爆発したのだ。春道から歩み寄っただけに文句は言えないが、元来の子供嫌い――と言うよりかは苦手意識が払拭されたわけではない。
「そういうことを言うな。彼女――いや、ママだって、葉月や俺のことを考えたうえでの発言だろ」
一応、葉月は娘で、和葉は春道の奥さんなのである。あまり他人行儀な呼び方もできなければ、呼び捨てにするのもいまいち抵抗がある。向こうが春道を好いていないからだ。
照れ臭いのを我慢して、あえてママなんて単語を選んだ。これからは葉月の前では、和葉をママと呼ぼう。恥ずかしくても、何かと好都合だ。
春道にしても、松島葉月にどうやって接するべきか未だ悩んでいた。心の奥底にお人好しが眠ってるのには気づいてたが、こうまでややこしい事態に発展する原因になるとは想像もしていなかった。
ここで突き放すような態度をとったとしても、また絶妙なタイミングで、お人好しに目覚められたら何の意味もなくなる。きちんと方針を決めておかなければならない。
「仲良くするのが駄目なんじゃなくて、俺の仕事が遅れたりしないか心配してるんだ。葉月もそれぐらいはわかってるな」
他人の子供と遠慮して扱うより、ここはドラマなどで見るような父親タイプを演じるべきだ。悠長に照れ臭いなどと言ってる場合じゃない。
葉月は納得しておらず、唇を尖らせて不満を露にする。本人からすれば、せっかく出会えた父親とコミュニケーションをとりたくてどうしようもないのだ。
「あとできちんとママに謝るんだ。いいな」
「……ヤだ……」
近頃の子供のわりには素直なタイプだと思ってただけに、松島葉月の反応は春道にとって予想外だった。
「だって、葉月はパパと仲良くしたいんだもん。パパは葉月とおしゃべりするの嫌?」
今にも捨てられそうな子犬のごとき瞳で見つめられれば、間違っても「もちろんだ」などとは答えられない。やはり子供は面倒だ。そう思っても、もはや後の祭りである。
「今のままだと嫌になるな。でも葉月が素直ないい子になるなら、これからはなるべく一緒に遊べる時間ができるかもしれないな」
それまでは不満一辺倒だった葉月の表情が、春道の台詞でガラリと変わった。にこやかな笑みを浮かべ、何度も「本当?」と聞き返してくる。
「ああ、本当だ。その代わり――」
「うん! 葉月、ちゃんとママに謝る」
まるでどこぞのテレビ局で放映している昼メロを見てる気分だった。挙句にはその中の登場人物――しかも主役級になってるのだからたちが悪い。
本音は子供と遊んでる時間はないに等しいのだが、先ほどのように言わない限り彼女は納得しなかったはずだ。実現できるかは別にしても、決して間違った選択ではなかった。無理やりな感は否めないが、とりあえずそう思うことにする。
「これで話は終わったな。悪いが俺はまだ仕事中だ。遊んだりするのはまた今度な」
「……うんっ!」
すぐにでも遊んでほしそうな顔をしてたものの、駄々をこねるだけ損とふんだのか、わずかな沈黙のあとで葉月は元気よく頷いた。
少女が退室したあとで、春道は大きくため息をついた。相互干渉なく平和な生活を送る予定だったのに、気づけばどんどんドロ沼にハマっている。それも春道から足を踏み込んでるのだ。
いい加減にしないとなと思っても、ここまできてしまったら簡単には引き返せない。春道が家を出たとしても、半端じゃないくらいに葉月が泣き喚くだろう。
結局は春道次第なのだが、すでに情が移ってしまったのか、当初みたいな素っ気ない態度を葉月に対してとれなくなっていた。
だからといって、あまりに仲良くなりすぎても、和葉の怒りを買うだけだ。頭の中がこんがらがってきて、何をどうすればいいのかまったくわからない。
悩んでいるうちに、いつの間にか外は暗くなっていた。
何か用でもない限りは一階へ降りないので、松島母娘が現在どうしてるかなんてわからない。ただ今夜は、和葉の足音が春道の私室へと迫ってこないので、恐らくは平和なのだろう。
夜になって、和葉も帰宅しているはずだ。娘と喧嘩みたいな感じになっているが、無事に仲直りできたのだろうか。私室で食後のひと時を楽しみながら、春道は考える。
途中で春道はハっとして、考えるのをやめた。必要以上に松島母娘を気にかけていたら、仕事が手につかなくなる。他人の親子関係に世話を焼くのも、ほどほどにしないといけない。
厳密には結婚してるから他人ではないのだが、和葉は今でも春道を他人としか認識してないはずだ。
春道も松島和葉の方針に異論はなかったのに、葉月への同情心から、現在のややこしい状況になってしまった。もはやなるようにしかならない。それぐらいの心境で生活していくしかなかった。
明日になったら、気晴らしにどこかへ出かけるのもいいかもしれないな。幸い仕事の納期には余裕がある。多少の融通はきくのが、この仕事の一番の利点だった。
そのために今夜は少しでも仕事を進めておくか。食休みを終了させ、春道は私室から仕事部屋へと移動した。
丁度その頃、一階では松島和葉と、娘の松島葉月がリビングテーブルに向かい合って座っていた。
本当なら今日も残業して深夜帰宅になりそうだったのを、仕事を切り上げて帰宅してきたのだ。それもこれも、昨日の葉月との一件があったからである。
これまでロクに反抗なんてしてこなかった娘が、声を荒げてまで和葉に激怒したのだ。母親になってから初めての経験だっただけに戸惑いを覚え、仕事なんてほとんど手につかなかった。
なんとか娘と仲直りをしたくて、会話の時間を多めにとろうとシフトどおりに定時で帰宅した。昨夜みたいに自室へ篭城されたらどうしようと心配していたが、こうして無事に二人でリビングテーブルに座っている。
腕によりをかけて作った和葉の料理を、美味しいといつもどおりの笑顔で葉月が食べてくれている。その光景を見てるだけで、胸が熱くなった。
時には些細な喧嘩もする。でもすぐに仲直りできた。これも親子だからだ。不安定な要素はあるけれども、何も心配する必要はない。
ホッとしながらも食事を終えると、葉月の方から昨夜のことを謝罪してくれた。とても嬉しかった。注意したことを、わかってくれたのだ。
それなら、これからはパパにあまり迷惑をかけないでくれるわよね――。
和葉が念を押す直前に、葉月がまったく予想してなかった台詞を口にした。
「ママにちゃんと謝ったら、これからはパパが遊んでくれるって約束してくれたんだー」
「え……?」
ズキリと和葉の胸が痛んだ。
娘が謝罪してくれたのは、和葉との関係を気遣ってではなく、あくまで父親である高木春道に促されたからだったのだ。しかも代償は和葉がもっとも望まないものだった。
娘が……あれほど可愛がっていた葉月が自分から離れていく。頭の中が真っ白になって、途方もない絶望感を一緒に連れてくる。
「は、葉月……」
「ごちそうさまでしたー。あ、葉月、宿題があるからお部屋でお勉強するねー」
「え? え、ええ……」
屈託のない笑顔で告げられると、和葉は何も言えなくなってしまう。
使い終わった食器をキッチンに下げ、リビングから退出していく娘を、和葉はただただ呆然と見送る。
引き止めようとして唇を開くも、どんな言葉をかけたらいいのかわからず、みっともなく開け放たれたままになる。普段キリッとしている和葉だけに、会社の部下たちにはとても見せられない表情だった。
リビングのドアがバタンと閉められる。娘の行為に、和葉は親子関係を拒絶されたような気がした。
どうして? どうしてこんなことになっているの。私が悪いの? 葉月が悪いの? それともあの男――。
思考が暗黒の世界に堕ちかけた和葉を制止するかのように、突然リビングにある固定電話機が鳴り出した。
ショックが大きすぎてすぐには動けなかったが、ベル音は諦めきれない様子でいつまでも鳴り続ける。
仕方がない。混乱を抱えたままで、受話器を取った。
「和葉か、大変だ。親父が倒れた」




