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朝食の時間までに仕事をして、一段落ついたところで一階へ下りていく。これが高木春道の朝の定番だった。お盆時期の影響もあって、そのとおりにならない日が多かった。けれど春道の母親も実家へ帰り、ようやく普段と変わらない生活が戻ってきた。葉月はまだ夏休み中なので家へいるが、別に悪い影響はない。
朝のひと仕事を終えたばかりの春道は、欠伸をしながら仕事部屋を出て一階のリビングへ向かう。ドアを開ければ、いつもと変わらない笑顔で妻が出迎えてくれる。思い浮かべるだけでテンションが上がり、春道は元気にリビングへ入った。
「おは……よう?」
挨拶の語尾が疑問形になってしまうくらい、この日のリビング内の雰囲気は異様だった。すでに愛娘の葉月が食卓についているが、どことなく怯えてるようにも見える。一体何が起きてるのかと戸惑う春道の前に、愛妻がゆらりと姿を現した。
「おはようございます。本日も朝までごゆっくり眠られましたか?」
「え? あ、ああ……」
明らかに普段とは違う。従来の和葉であれば、嫌味が含まれてるような言い方はしない。さらにいえば、こめかみをヒクつかせる笑顔も見せない。なんともいえない奇妙な威圧感が、全身から放たれる。まさか妻に笑顔で接せられて、こんなにも強烈なプレッシャーを感じる日が来るとは夢にも思っていなかった。
「か、和葉はゆっくり眠ったのか?」
「ええ、もちろんです。春道さんよりも早く起きて、朝食の準備はしていますけれど」
言葉の端々に強烈な棘の存在を確認できる。春道より先にリビングへ来ている葉月に、尋ねる必要がないくらい明確だ。今朝の和葉は、とてつもなく機嫌が悪い。何が原因でこうなったのかは不明だが、君子危うきに近寄らずという言葉もある。ここはそっとしておくのが一番だ。
そうかとだけ言って、春道はそそくさと食卓につく。迫力のある笑顔を浮かべたままの和葉が台所へ向かった隙に、食卓に肘をついて上半身を乗り出す。正面に座っている葉月と話すためだ。妻に聞かれないよう小声で話しかけると、葉月も食卓の上に乗るような体勢で顔を近づけてきた。
「お前……何かやらかしたのか?」
春道の問いかけに、愛娘はすぐ近くにある顔を勢いよく左右に振った。「葉月じゃないよ。パパじゃないのー?」
「思い当たるふしはないな。どうして和葉は、朝からあんなに不機嫌なんだ?」
「んー……わかんない。でも、パパが来る前から、すっごくたまに、ああいう時があったよー」
長年一緒に過ごしてる葉月にも原因不明な不機嫌モードとなれば、ますます春道には手の施しようがない。愛の言葉をささやいて機嫌を直そうとしても、こんな時にくだらない発言は控えてくださいと真顔で怒られそうだ。
「理由がわからないと対処のしようがないな。というわけで、俺は朝飯を食べたら、すぐ仕事部屋へ逃げ帰る。あとは葉月に任せたぞ」
不機嫌な和葉と違って心からの笑顔を浮かべたつもりだったが、何故か愛娘は今にも号泣しそうな顔で嫌々を繰り返す。
「パパだけ、ずるいー。葉月も一緒に行くー」
「駄目だ。葉月はお姉ちゃんだろ?」
「お姉ちゃんなのとは、何の関係もないよー。葉月がひとりでパパの部屋にいるー」
ちょっとした口論に発展していると、キッチンから和葉が朝食を持ってきてくれた。先ほどと変わらない笑顔が、やはり特別なプレッシャーを放出している。
「楽しそうですね。私だけ仲間外れにしないでもらえますか? ウフフ」
「そ、そうだぞ、葉月。さ、さあ、俺は朝ご飯をいただこうかな」
話を振られた葉月はビクっとしたあとで、春道に恨みがましそうな視線を向けてくる。かわいそうだが、現実の厳しさを教えるのも親の務め。涙を呑んで、愛娘に尊い犠牲となってもらうしかない。心の中で許せと繰り替えす。なるべく葉月や和葉と視線を合わせないようにしながら、黙々と朝食をとる。ここまで会話がないのも久しぶりだった。
同居するようになって以降、ヒステリックに和葉が叫ぶ姿は幾度か目にしてきた。けれど、ここまで不機嫌なのは初めてのような気がする。リビングを包む重苦しい空気の影響で、じっとりと肌に汗が滲む。決して夏の暑さだけのせいでない。
「きょ、今日の朝ご飯、と、とっても……美味しいねー」
なんとか現状を打破しようと、愛娘が牽制気味にジャブを放つ。普段なら、この程度のやりとりでも会話が弾むほどに食卓は和やかだ。日常の朝を取り戻そう。明確な目的を持って最初の一歩を踏み出した葉月に、名ばかりの笑顔を浮かべた和葉が妙に迫力のある声で応じる。
「今日の……ということは、昨日までの朝ご飯は美味しくなかったのですね。申し訳ありません」
「ひえっ!? そ、そんなつもりじゃ……あ、あうあう……」
金魚のように口をパクパクさせる葉月が、もう限界とばかりに目で春道に助けを求めてくる。捨てられた子犬みたいな仕草を見せられれば、さすがの春道も愛娘を放置できなくなる。
「お、おい、和葉。不機嫌なのはわかるが、さすがにやりすぎだ。なにも葉月が悪いわけじゃないだろ」
「……では、私が悪いわけですね。それに……どうして不機嫌だと断定できるのです? 春道さんの思い込みかもしれないでしょう」
導火線に火がつき、爆発までのカウントダウンが開始される。そのような印象を持っても、無理のない状況だった。原因がわかれば謝るなりできるのだが、見当もつかない現状では手の施しようがない。怒りが通り過ぎるのを、黙って耐えるしかなかった。
「今度はだんまりですか。先ほどの私の言葉に対して、何らかの対応はしてもらいたいものですね」
どんどんと和葉の口調が厳しくなる。腹立たしさもあるが、ここで春道も好戦的になったら泥沼の夫婦喧嘩に突入する。人間なら誰だって不機嫌になるし、春道も知らないうちに和葉たちへキツく当たっていた日があったかもしれない。そう考えると、ここで派手に喧嘩をしたくはなかった。
「悪かったよ。俺の思い込みだった。和葉は普段どおりだ」
「……何ですか、その言い方は。実に不愉快です」
不愉快なのはこちらだと言い返せば、大変な事態になる。怒りを飲み込み、普段から和葉にしてもらっていたことをひとつずつ思い出す。感謝の念を芽生えさせ、ギスギスした気持ちをなだめる。仕事だけに集中してればいい春道と違って、妻は家事に加えて育児もある。蓄積されたストレスを、適度に吐き出さなければならない日がきただけだ。そんなふうに考えれば、こちらの気分も多少は楽になる。
「そうだな、すまない。許してくれ」
「……そうやって、謝れば済むと思っているのですか。誠意が感じられません」
謝罪して終わるかと思いきや、和葉の口撃はなおも続く。もしかしたら、爆発できるきっかけを探してるのかもしれない。こうなったら、一度おもいきり怒りを爆発させてやった方がいいのだろうか。春道がそんなことを考えていると、ひと足先に食事を終えた葉月が椅子から立ち上がった。
「ご馳走様でした」
元気に言ったあと、慌てた様子でリビングから退散する。それでも自分で使った食器を台所に下げていくあたりは、さすがだった。もしかすると、忘れたらさらなるカミナリが自分に落ちるのを危惧したのかもしれない。どちらにせよ、愛娘は父親の春道を置き去りにして自室へ避難してしまった。
助けがいなくなったリビング内では、余計に和葉のもの言いたげな視線が春道へ突き刺さるはめになる。正直、勘弁してほしいのだが、それを言えば口論になるだけだ。下手をしたら、怒りの原因が春道の場合もある。軽はずみな言動は避け、無難な応対に終始する。
次第に和葉の口数も減った。こういうケースでは、無理やりにでも会話を継続するべきかどうかもわからない。一緒に過ごすようになってだいぶ相手を理解できたつもりでいたが、実際はまだまだなんだなと痛感させられる。さて、どうするべきか。朝食を終えた春道が本格的に悩みだすと、リビングのドアが元気に開かれた。
やってきたのは、自室へ退避したはずの高木葉月だった。両手で一冊のノートを持ち、意を決したような瞳を母親の和葉へ向ける。
「これから、ママのいいところベストテンを発表しますっ!」
春道と和葉の注目を集めるために、立ったままで食卓の上に持ってきたノートを紙芝居をするみたいに置く。春道からすれば右側。正面へ座ってる和葉には左側になる位置に立ったまま葉月は言葉を続ける。
「第十位は綺麗なところですっ! 葉月の自慢のママです」
開かれたノートには、和葉のと思われる似顔絵が描かれていた。年齢も上がってきて、人の顔を描く技術も着実に進歩している。以前に春道が参加した父兄参観で描いてもらったのとは、レベルが違いすぎるくらいだ。
「第九位はおっぱいが大きいところー」
「お……って、ちょっと、葉月……!」
怒りか恥ずかしさなのかわからないが、顔を赤くした和葉が止めようとする。だが自分しか知らない使命感に燃える愛娘は、気にせずに口を開く。
「よくお風呂で見てたから、間違いないよー。これが第九位ですっ!」
断言したあとで、ノートを次々とめくっていく。どうやら一枚一枚に母親――つまりは和葉のいいところを書いてきたらしい。きっと葉月なりに、不機嫌さをなんとかしてあげたいと考えた結果なのだろう。子供らしい方法ではあったが、意外にこれが一番効果的かもしれない。
「第八位はいいにおいがするところですっ! だから葉月は、ママの側にいると安心します。きっと菜月もおんなじですっ!」
次々と和葉のいいところが発表され、その点についてのコメントも添えられる。最初は呆気にとられていた和葉も、ランキングの公開順位が上がるにつれて穏やかな笑みを浮かべるようになっていく。妻の表情が和らげば、春道の心も平穏を取り戻す。気がつけば夫婦揃って、愛娘のランキングを楽しく見守っていた。そして、いよいよ一位が発表される。
「ママのいいところ、第一位は……笑顔ですっ! 葉月はママの笑顔が大好きなので、ずっと笑っていてほしいです。そのためなら、お手伝いも頑張りますっ」
理由まで一気に説明して、最後に「以上です」と終わった。一生懸命に考えられたママのいいところランキングに、当の和葉は照れながらも嬉しそうだった。
「ありがとう、葉月。ママ……少し、おとなげなかったわね。ごめんなさい。春道さんも……」
「気にするな。誰にだって、虫の居所が悪い時はあるさ」
笑って許し、これで平和な日常が戻ってくる。安心していたら、唐突に葉月が春道を指差してきた。
「じゃあ次は、パパにママのいいところランキングを発表してもらいます。どうぞっ!」
「えっ!? お、俺か!? そ、そうだな、ええと……」
愛妻のいいところはたくさん知っているが、葉月と同じのばかりでは芸がない。そう思って悩んでいると、徐々に和葉のこめかみがヒクつき始めた。このままではマズいと理解するが、焦るほどに的確な言葉が出てこない。最終的にどうすればいいのかわからなくなった春道は、ついうっかりと頭の中の言葉をそのまま口にしてしまう。つまり、わからないと。
「わからないって何ですかっ! どうせ私にはいいところがありませんよ! ええ、最初からわかっていましたとも!」
音を立てて椅子から立ち上がった和葉が、春道をキツく睨みつけてくる。
「ちょ、ちょっと、パパ! せっかく、ママの機嫌が直りかけてたのに!」
「葉月がいきなり、俺にも発表を求めるのが悪いんだろ。俺にだって考える時間をくれよっ!」
春道と葉月が言い争っていると、そこへ当然のように和葉も参戦する。
「考える時間がなくとも、すぐに見つかるはずですっ! 夫婦なら! 最近は葉月にばかり構って、私をないがしろにしてるから、わからないなんて回答になるのですっ!」
感情のままにぶつけられた和葉の言葉に、春道はハっとする。
「ないがしろって、まさか……和葉が不機嫌なのは、俺と葉月が仲良くしてるのに嫉妬したからじゃないよな?」
どうやら、これが一番言ってはならない台詞だったらしい。顔面を真っ赤にした和葉は違いますと繰り返しながらも、いつになく声を荒げる。
「そんなに怒るなって。これからはきちんと、和葉のことも構うからさ。可愛くおねだりされたら、俺なんていちころだぞ。ほら、今から試してみろよ」
「うううっ! 春道さんの悪いところ第一位は、意地悪な性格ですっ!」
思いがけずに、妻から発表された悪いところランキングに苦笑する。けれど不機嫌さの原因が判明したので、近いうちに仲直りはできるだろう。耳まで真っ赤にさせて怒る妻の顔も、なんだか可愛く思えてきた。




