ベヒシュタイン童話翻訳にかかる序論
日本では圧倒的にグリム童話が主流である。
イソップ童話やペロー童話、アンデルセン童話なども、日本では確固たる地位にある。
が、なぜかベヒシュタイン童話は、日本では評価がイマイチ低く、翻訳されているものも多くは見つけられない。
そのひとつの理由として考えられるのは、ベヒシュタイン童話がグリム童話と同じ話をたくさん含んでいるからだろう。ルードヴィッヒ・ベヒシュタインは(日本語だとルードウィグ・ベヒシュタインという表記もある)、グリム兄弟とほぼ同じ時期、少し後輩として、民話収集を行った説話家である。時代も、場所も、ほとんど同じところで、似たような民話や伝説を集めたというわけだ。ゆえに、たとえば「ヘンゼルとグレーテル」のように、まったくタイトルまで同一のものも存在するのである。
こうして並び立った、同じ時代の同じ仕事内容の童話集を評価するとなれば、当然のことながら、それぞれ語り部がもっている文章の力によって評価されがちである。グリム兄弟は、文法や語彙の当時のスペシャリストであり、なお童話集の編纂をしたウィルヘルム・グリムにあっては、童話の文章を詩的に描写する能力に長けており、これらの初版から150年ほどの間に、軍配はおおむねグリム兄弟にあがったと見て良いだろう。
一方のベヒシュタインであるが、文章としてペロー童話よりも荒削りであると言われる。また「世にも不思議なことが起こる物語でなければメルヘンとはいえない」とベヒシュタイン本人が書き残しているが、同時に、子どもに与えるものとして、時にはイソップ童話よりも訓導的でもある。いわく「子どもに与えられるものでなければメルヘンとはいえない」である。歴史のなかに埋没することとなった敗因はそういった説教臭いところにあるかもしれない。
ただし、ベヒシュタインは幼少期に植物学者の叔父に育てられたという経験から、森のいぶきを醸し出す文章を書き上げている。木漏れ日の森か、薄暗い森か、読み始めればいずれにしても森を散歩するかのようなのだ。
聞いたままの民話をそのまま残したのでなく、ときに圧倒的に手を加え、他の童話や伝説と連結させたりもしている。子どもに聞かせる「不思議なこと」の追究ではないかと思われる。
あるいは「子どもに与えられるものでなければメルヘンとはいえない」と本人はいい、なお性的描写を極力削除してはいるのだろうが、ときに、圧倒的にグリム童話よりもエロスを感じられる文章がでてくる。
そして、グリム童話が「いい子のため」のものだとするならば、ベヒシュタイン童話は「悪い子のため」と言い切れるほどに、冒険的で、活動的だ。グリム童話の主人公は女子が多いが、ベヒシュタイン童話では男子の活躍が面白い、とも言える。
本国ドイツでは、やはりグリム兄弟より名前が知られているとは言い難いかもしれないが、日常の言い伝えやことわざなどに、ちらりとベヒシュタインの言葉が混じっていることが多く、文章としてよりも、風土のなかに根付いているといえるかもしれない。
いずれにしても、同じ内容がグリムとベヒシュタインで書き表されているとして、もとの民話の血の通い方、子どもに何を伝えているかを知るには、相互を対照してみて初めて真意が分かるのではなかろうか。その意味でも、ベヒシュタイン童話が打ち捨てられたようなのは、非常にもったいないことであると考える。
そこで、翻訳をしてみようと思うのだ。
筆者は、会話はできないし、単語の発音もあやふやなことが多いのだが、一応、文献ドイツ語と文献フランス語は内容理解程度までなら可能である。やっかいなことに、相手が童話であるから、童話らしく、民話らしく、語り部が糸車をまわしながら語る雰囲気で翻訳せねばならないのだが、これは挑み甲斐のある課題ともいえる。
うまくできたらお慰み。失敗したら大笑い。
なお、底文テキストは「L・ベヒシュタイン童話集~アルバトロス~」。
Sämtliche Märchen (Albatros) 2011年:ARTEMIS & WINKLER出版のものとする。