第1話 魔法使いシャルロット参上
序章 タリム国魔法使いの国
タリム国は、どの地図にも載っていない。
隠されているからではない。人間の目が、魔法を映すための焦点を持たないからだ。霧の深い谷の奥、真夜中にだけ開く銀の門をくぐれば、そこには石畳の道が続いている。道の両側には、灯りをともした書庫と、硝子屋根の温室と、青銅の鐘楼が並んでいる。夜ごと降る星は、まるで宛名のない手紙のようだった。
この国は、優れた魔法使いを育てるために創られた。
建国の祖、はじまりの魔女エオナは、魔法がまだ「奇跡」と呼ばれ、恐れられていた時代に、こう言い遺した。
「魔法は、願いを叶えるため」
エオナは死の床で、次の世代にひとつの宿題を遺した。いつか、傷ついた心が自分では立ち上がれなくなったとき、魔法の力でその人を「見つけ出す」こと。そして、その人を、世界の光の下へ連れ出すこと。
いつしか人々は、その役目を「シンデレラ探し」と呼ぶようになった。ガラスの靴ではなく、差し出された手。それがタリムの流儀だった。
第一章 五百人と、たったひとり
シャルロット・ノワールは十七歳。タリム魔法学院の最終学年で、成績は上から数えたほうが早い。けれど、彼女の評価欄には、いつも同じ一行が添えられていた。
「技術は申し分なし。ただし、お節介焼きすぎる事が難点…。」
その日の朝、学院の大広間には、絹の旗と、星を封じた硝子球が並べられていた。最終試験の発表の日である。
「シャルロット・ノワール」
名を呼んだのは、学院長のセレスティアだった。白髪を高く結い、指にはめられた七つの指輪が、それぞれに違う季節の光を宿している。
「あなたの最終試験は、人間界での実地任務です。次のシンデレラを見つけなさい。期間は三ヶ月」
差し出された巻物は、ずっしりと重かった。開くと、びっしりと名前が並んでいる。五百人。デリア国全域から、魔法の網にかかった「心に傷を負った女性」たちのリストだ。
「五百人全員に、会ってくるんですか」
「まさか。あなたが選ぶのよ。たったひとりを」
シャルロットは、ページをめくった。職を失った令嬢、婚約を破談にされた歌姫、戦地から帰った看護師。どの名前にも、丁寧な備考がついている。
そして、最後のページ。一行だけ、ぽつんと書かれていた。
ローバート・アンナ。二十三歳。デリア国ヨーゼルシティ。備考――最も冴えない。
シャルロットは、その一文を指でなぞった。
「学院長。この人にだけ、備考がひどいです。……書いた人は、この人のことを、ちゃんと見ていない」
セレスティアの眉が、わずかに上がった。
「なぜ、そう思うの」
「『最も冴えない』って、いちばん最後に、いちばん長く迷った字で書いてあるからです。消しかけて、やめた跡がある」
学院長は、しばらく黙って、それから笑った。笑うのを、この人はこんなに下手だったかしら、とシャルロットは思った。
「行きなさい。そして、あなたの目で確かめなさい」
一方…、デリア国、ヨーゼルシティ。
デリア国ヨーゼルシティは、かつて運河にガス灯が映え、王国一の織物で栄えた街だった。いまは、閉ざされた工場の窓が並び、運河の水は灰色に濁っている。それでも人々は暮らしていた。パン屋の煙突は細く煙を上げ、洗濯物は雨の合間を縫って乾かされ、街は静かに、しかし確かに、息をしていた。
シャルロットが街に着いたのは、雨の午後だった。虹色のステッキは、外套の下で、星をひとつだけ瞬かせている。
アンナを見つけたのは、市場の外れだった。
雨のなか、彼女は膝をついて、地面に落ちたパンを拾っていた。黒いパンがひとつ。水たまりに半分ひたって、もう食べられそうにない。それでも彼女は、袖でていねいに泥をぬぐっていた。
「もったいないから」と、彼女はひとりごとのように言った。「誰かが、これを焼くのに、朝から火を焚いたんだもの」
シャルロットは、立ち止まった。
灰色のエプロンはつぎはぎだらけで、指先は針仕事で赤くひび割れていた。けれど、彼女の声は、歌うようにやわらかかった。
「あなた、迷子?」
アンナが顔を上げた。灰色の瞳。雨に濡れた前髪。その顔には、悲しみより深いところに、まだ消えていない光があった。
「いいえ」とシャルロットは言った。「あなたを探していました」
「私を?」アンナは、泥だらけのパンを握ったまま、首をかしげた。「私なんて、何もないのに」
「アンナみたいな人を、さがしてましたわ。」
アンナの家は、運河沿いの古い長屋の三階だった。階段はきしみ、窓は寒々しい。部屋の奥の寝台には、母親のマルグリットが眠っていた。長い病の床で、その頬は紙のように薄い。
「母は、私が小さいころ、この街いちばんの刺繍師でした」とアンナは言った。「私は、その娘で、シュタット貿易商の令嬢リリアナさまの侍女でした。……去年、会社が経費を削ると決めて、私の名前が、いちばん最初に消されました」
「悲しくないの」
「悲しいです」アンナは、窓の外の雨を見た。「でも、泣く時間があったら、ミシンを踏まなきゃって思うんです。母の薬が、明日また、高くなるから」
シャルロットは、外套の内側からステッキを取り出した。星が、部屋の埃のなかで、ひとつ、またひとつ、目を覚ました。
「アンナ。ひとつだけ、お願いを聞いてもらえますか」
「お願い?」
「あなたが、いちばん好きだった服を、思い出してください」
アンナは、しばらく考えた。それから、恥ずかしそうに笑った。
「……青です。母が、私の十歳の誕生日に縫ってくれた、青いレースのドレス。古くなって、とうに解いてしまったけど。……あれを着ると、私は、私じゃないみたいだった」
シャルロットは、ステッキを高く掲げた。虹色の光が、部屋の隅々まで満ちていく。星が、彼女の髪のまわりを、ゆっくりと回りはじめた。
「アーレラアーラレル」
声は、歌のようだった。
光が、アンナの身体を包んだ。つぎはぎのエプロンが、糸からほどけ、色が、形が、記憶が、空気のなかで編み直されていく。灰色が、深い藍に。擦り切れた袖が、細かなレースの波に。
光が引いたとき、そこに立っていたのは、昨日までのアンナではなかった。
青いレースのドレス。胸元には、星を散らした小さなブローチ。解けた髪は、雨ではなく、真珠のように光っていた。
アンナは、割れた鏡の前に立った。しばらく、動かなかった。それから、震える指で、自分の頬に触れた。
「素敵ね……」
涙が、ひとつ、こぼれた。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。




