第5話 すばらしき新魔法
地面に一本線を付け足す。これで完成した正の字は三つ目。つまり、転移して十五日目の朝だ。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
人違いによる異世界転移だ。何とも迷惑な話だと思っていた。これなのに、何だかんだ言って俺は異世界転移にワクワクしていたみたいだ。想定通りではなかったけど、スキルツリーという能力ももらった。俺の異世界生活はきっと楽しいものになると無意識に思っていたようだ。
しかし、それは幻想だった。初日のうちに粉々になって消えた。飛竜に連れ去られた哀れな大猪。あの光景が目に焼きついて離れない。いつ飛竜が現れるか、今度こそ俺を食いに来るんじゃないか。毎日、怯えながら過ごすのだ。
あれ以来、飛竜の姿は見ていない。大猪のような危険な獣が襲ってくることもなかった。しかし、全く安心はできない。ときおり、遠くから獣の咆哮が聞こえてくる。ここが襲われていないのは偶然に過ぎないんだ。あるいは、スキルツリーに危険生物を遠ざけるような特別な力が備わっているか。後者なら少しは希望が持てるけど、今のところ確証は持てない。
そんなわけで、初日以降、俺は息を潜めて生きている。探索なんてもってのほか。目立つことを恐れて魔法の検証もできていない。スキルの実で飢えをしのぎ、あとはビクビク怯えながら過ごした。
命の危険と何もできない不自由さ。それらも辛いが、さらに俺を打ちのめしたのは強烈な孤独感だ。
俺は子供の頃に両親を亡くしている。親戚はいるが、誰も引き取ってはくれなかった。大人になった今ならわかる。子供一人を育てる金銭的な負担は大きい。誰も彼も余裕がなかったんだ。だけど、子供の俺にそんなことはわからない。あちこちたらい回しにされ、最終的に児童養護施設に入れられる頃にはすっかり人間を信じられなくなっていた。
表面上は愛想よく、しかし心のうちでは距離を置く。深い付き合いを避け、誰とも仲良くならない。就職してから仕事に没頭してのも、ひょっとしたら不要な人付き合いを避けるためだったのかもしれない。
友人もいらない。恋人もいらない。一人で生きるのは苦ではない。そんなことを思っていた。実際、寂しいと思うことはなかったんだ。だからこそ、自分でも意外だった。一人でいることがここまで心細いなんて。
「まぁ、地球とは環境が違いすぎるからな……」
職場に行けば同僚がいる。街に出れば人がいる。だから、本当の意味で孤独ではなかった。だけど、ここでは本当に一人だ。命の危機にあっても、それを共有できる相手がいない。それは想像していたよりもずっと堪えた。
この際、誰でもいい。誰かと話したい。何ならフィクスでも――
「いやいや、流されるな。そもそもアイツのせいでこんな目に遭ってるんだぞ!」
危ない、危ない。心細すぎて、フィクスに会いたいなんて思うところだった。いや、会うのは悪くないか。だが、和やかに会話するなんてありえない。苦情のひとつでも言ってやらないとな。
「フィクス、許すまじ!」
声に出して宣言すると、何だか元気がわいてきた。そうだな、奴に物申すためにもくよくよしている場合じゃない。何とか今の苦境から抜け出さなければ。
よし、まずは改めて状況確認だ。へこんでいてもお腹はすくので、毎日スキルの実は食べていた。だから、結構なスキルを獲得しているんだ。
ただまぁ、有用なスキルは少ない。初日に獲得した五つのスキルはあれでかなりの当たりだったようだ。それ以降に覚えたスキルはもっと酷い。あまりに微妙すぎて、全部は覚えてないんだよなぁ。
覚えてる範囲でいえば、【ドジョウ掬いマスター】だな。用途が不明すぎる。いや、ドジョウを掬うときに使うんだろうけど、そもそもこの世界にドジョウはいるのか? いたとしても森の中では使う機会がなさそうだ。
他には、【鑑定(ビー玉)】なんてのもあったな。いや、だから効果が限定的すぎるんだって。しかも、なんでビー玉。植物とかならかなり使えただろうに。
まぁ、それでも幾つ使えそうなスキルはあった。あいかわらず効果を確認する手段がないので詳細は不明だけど【肉体強化(微)】【棒術才能(弱)】【細工師の心得】【再生能力(微)】あたりはサバイバル生活において役に立ってくれるはずだ。“微”や“弱”とあるので少々頼りないが、塵も積もれば山となる、はずだ。
「さて、今日のスキルは何かな」
まだ朝食前だ。スキルの実を食べれば新たなスキルを獲得できるはず。有用なスキルであればいいんだが。
「実は……うん、減ってる感じはないな」
食事は朝昼夜に二つずつ実を食べることにしている。これまでに八十個以上食べたことになるが、スキルツリーにはまだたくさんの実がなっている。どうやらもいでしばらくすると、また新たな実がなるようだ。おかげで食料には困らない。毎食同じものなので味には少し飽きてきたが、飢える心配がないのはありがたい。
適当な実をもいで食べる。一つ目に習得したスキルは【弱点克服(味覚)】だった。
「味覚の弱点って何だ。嫌いなものでも食べられるとか、そういうことか?」
うーん、微妙。いや、サバイバル生活のおいてはそうでもないのか?
食料の選択肢がほとんどない状況なら、何でも食べられる方が生きるのに有利だ。スキルの実があるとはいえ、栄養面を考えれば偏りすぎはよくない。いずれ他の食料にも挑戦するときがくるだろうから、悪いスキルではないか。よし、【弱点克服(味覚)】は当たり判定でいいだろう。
「さて、もう一つは、と」
もう一つの実も食べる。システム音声らしき声が通知したスキル名は――【石鹸魔法】だった。
「せっけんって……石鹸か!」
おいおい、大当たりじゃないか!
「では、早速」
使い方は他の魔法と同じ。謎の呪文を唱えることで、右手の指先からぴゅっと出る。固形ではなく液体石鹸みたいだな。こうなると予想はしていたので、左手で受け止めることができた。両手でもみ込むと、すぐに白い泡が生まれた。
「間違いない! 石鹸だ!」
サバイバル生活で何がつらいかと言えば自分の体臭だった。風呂どころか水浴びすらできていないので、とにかく臭いんだ。だが、この魔法があれば問題は解決する!
あとは衛生面でも助かるな。妙な細菌で体調を崩すと、そのまま人生の終わりを迎えることになりかねない。石鹸があれば、リスクを下げることができる。
「ひゃっはー!」
変なテンションになって服を脱ぎ捨てる。まずは体を洗う。スポンジなんてないので手を使って直洗いだ。何度か石鹸を継ぎ足して全身に泡を塗りたくった。お次は飲み水魔法で洗い流す。水量が少ないので効率が悪いな。
「ふぅ、スッキリした。やっぱり綺麗にしていたほうが気分がいいな。できれば、洗濯もしたいんだが……」
少しだけ考えて断念する。体と違って服はすすぐの大変だ。たらいのようなものがなければ洗濯は難しいだろう。
「ないなら作るしかないな。材料は木でいいけど、削り出すのは大変そうだなぁ」
整地魔法で作った倒木があるので材料には困らないんだが、加工が問題だ。道具になりそうなのは尖った石のみ。なかなか気の長い作業になりそうだ。
「まぁ仕方がない。今日のところはそのまま着るか……臭っ!?」
脱ぎ捨てた服を回収して、そのまま着ようとしたところ異臭が鼻についた。自分自身が臭かったのでこれまでは気づかなかったが、服にも匂いが染み込んでいるようだ。
「これは早急に対策が必要だなぁ」
少し涙目になりながら臭い服を着る。
と、そのときだ。カサリと近くの茂みが音を立てた。
体が強ばるのを自覚する。今まで危険な生き物がここにやってきたことはないが、それは安全を保証するものではないのだ。
しかし、同時に妙だなとも思う。見通しが悪い森の中とはいえ、完全に身を隠せるわけではないのだ。大猪は言うに及ばず、普通サイズの鹿や狼だったとしても、茂みに身を隠すことはできないはず。何かが草むらに潜んでいるとしても、小動物である可能性が高い。
「……ん?」
「にゃー」
果たして、身構える俺の前に現れたのは、地球にいるようなごく普通のサイズの黒猫だった。




