第1話 “プレイヤー”に選ばれた
『喜びたまえ! 君は“プレイヤー”に選ばれた!』
日付変更直前。そろそろ寝ようとベッドに入ったところで、どこからともなく声が聞こえてきた。やや低めだが、女性的で艷やかな声だ。まるで脳内に直接語りかけてくるような不思議な響きがあった。
異常事態である。
一人暮らしで恋人もいない。そんな俺の部屋で女性の声がするわけがないんだ。可能性があるとすればテレビだが、画面は真っ黒で電源オフ状態。というわけでテレビではない。もちろん、スマホでもなければ、その他家電製品も違う。やはり異常事態と言うほかない。
ふむ――なるほど、これが幻聴というやつか。意外にはっきり聞こえるものなんだな。
「自分で思っているよりも疲れてるんだなぁ」
電機メーカーなんて、言ってはなんだがそれなりにブラックだ。シーズンごとに新モデルを出すので、やれ新機能を開発しろだの、コストカットを図れだの、次々と指示が飛んでくる。しかし、それは無茶振りというもの。コストと性能はトレードオフの関係にあるんだから。最適化によって多少は改善が見込めるが、完全な両立は無理な話。なので、上からの指示によって増える仕事の大半は実作業ではなく、できない理由を懇切丁寧に説明するための資料づくり。なんと無駄が多いことか。
おっと、迂闊な。思考に蓋をしなければ。不満は際限なく溢れてくる。考えすぎると眠れなくなるので、頭をからっぽにするのが社会人として生きるコツだ。他のメーカーさんはそこまでじゃないらしいと噂に聞くが、隣の芝が青く見えるだけに違いないと目を逸らしておく。
ともかく、だ。長時間残業が常態化しているせいで睡眠時間が足りていない自覚はある。脳がバグってありもしない声を聞いたとしてもおかしくはないだろう。
『おやぁ? 反応がないな。聞こえていないのかい』
また聞こえた。幻聴の癖に主張が激しいな。
だが、俺は負けないからな。しっかり寝ないと脳が休まらないんだ。疲れた頭では作業効率が下がり、また残業が増える。まさに負のスパイラル。これ以上の地獄を見たくはないので、幻聴なんかに関わっている暇はない。
『やはり反応がないか。聞こえてるはずなんだけどねぇ。余計な手間は省きたかったんだけど……まぁ仕方がないか』
諦めの悪い幻聴だな。しかし、眠ってしまえばこっちの――
「さて、これでどうだい。流石に無視はできないだろう?」
幻聴だ。幻聴だった、はずだ。しかし、今度の声は鮮明に聞こえた。
「なっ!?」
反射的に声の方へ視線を向けると、天井近くに何かがいる。先ほどまでは存在しなかったはずの女性が宙に浮いていた。
長く紫色の髪。この世のものとは思えない美貌には蠱惑的な笑みが浮かんでいる。身に纏っているのは執事服にモノクルだ。飾り気のない格好だが、それがかえって彼女の美しさを際立たせていた。いや、そうではない。きっと、どんな豪奢なドレスでも彼女の存在を霞ませることなどできはしないだろう。
美しい……掛け値なしに美しいと言える。しかし、お近づきになりたいとは到底思えない。彼女はあまりにも異質だった。
人の形をしている。だが、きっと、あれは人ならざる者だ。宙を浮いているのが何よりの証拠。いや、そんなことは些細なことかもしれない。
魂が訴えている。本能が警告している。ひれ伏せ、崇めよと。目の前の女性は自分とは何かが――言うなれば、生命としての格が違う。きっと、神やそれに類する存在に違いない。
幻覚だと拒絶することすらできなかった。これほど強烈な存在が疲れた脳が見せるまやかしのはずがない。
これが畏れというものなのか。何をしているわけでもない。ただそこにいるだけだというのに、その存在感に圧倒されてしまう。何か言わなければと口を開いても、言葉が出てこない。
そんな俺を見て、執事服の女神は目を細めた。
「ふふふ。緊張することはないよ。私はただのメッセンジャーだ」
自らをメッセンジャーと嘯く女神が両手を掲げる。
「さあ、改めて告げよう。鹿島君、君は“プレイヤー”に選ばれたんだ。君にはこれから別の世界に転移してもらう。君の大好きな『クロニクル・オブ・ロード』の世界だよ。これより始まるは大陸の覇権を賭けたウォーゲーム。主役になれるか、脇役で終わるかは君次第! どうだい、ワクワクするだろう?」
恍惚の表情で女神が告げる。思わず見惚れそうになるけど、そちらに意識を持っていかれることはなかった。彼女の言葉の中にいくつも気になる単語があったからだ。
別の世界。転移。クロニクル・オブ・ロード。ウォーゲーム。
それらの単語も気になる。だけど、それよりも――
「だ、誰?」
情けなくも声が震えた。しかし、それでも意図は伝えられたはずだ。
「ふふ。私かい。私は……そうだな。フィクスとでも呼んでくれればいい」
女神が薄っすらと笑みを浮かべて名乗る。だけど、そうじゃない。そうじゃないんだ。
いや、鹿島って……誰だよ!?
「そ、そうではなくって。私は、鹿島では、ないですよ……?」
「……おやぁ?」
控えめに否定すると、女神は目を丸くして首を傾げた。いや、驚いているのはこちらのほうなんだが。
女神はしばらく不思議そうな顔をしていたが、やがて納得顔で頷く。
「なるほど、冗談か!」
「いえ、違いますよ」
「おやぁ……?」
信じられないのか、さらに首を深く傾ける女神。そのままひっくり返りそうで怖いんだが。
「一応確認なんだけど、本当は鹿島君なんだよね? ええと、クロニクル・オブ・ロード界隈では熟練プレイヤーとして有名で、フルネームは鹿島透。年齢は四十歳……あれ、それにしては若いぞ」
女神――フィクスさんが諦めきれない様子で、鹿島某さんのプロフィールを読み上げる。だが、年齢に違和感を覚えたらしい。
そりゃそうだ。俺はまだ二十五だからな。四十に間違えられるほど老け顔でもない。
「いえ、私は新谷賢人です。別人ですね」
「……ホントに?」
「ええ、本当です」
フィクスさんの顔が曇る。
神が如き存在がやることだ。もしや何某かの深謀遠慮があるのか、なんてことをうっすら考えていたのだが……この表情から察するに、単なる人違いらしい。この人、意外とそそっかしいのかもしれない。
ともかく、人違いなら速やかにお帰り願おう。実を言えば異世界転移への憧れみたいなものはあるんだが、あくまで安全な場所で妄想するのが楽しいのだ。実際に転移したところで、うまく生き残れるとは思えない。ウォーゲームとかいう物騒な言葉が聞こえたし絶対に関わりたくない。妙なことに巻き込まれないようにしないと。
しかし、相手は不思議な力を操るような人物だ。下手なことを言って機嫌を損ねるのは怖い。どうやって切り出すかと悩んでいると、不意にフィクスさんが手をポンと叩いた。
「そうだ! では、こうしよう。今日からは君が鹿島透だ!」
いやいや、とんでもないことを言い出したぞ!
「そんなこと言われて、ハイそうですかと頷けるわけないですよね!?」
「そこをなんとか!」
「なんともなりません!」
先ほど感じた神々しさみたいなのは錯覚だったらしい。ここにいるのはただのポンコツだ。ちょっと宙を浮いてるくらい気にならなくなった。
「とにかく、あなたの探している鹿島さんとやらはここには居ません! 速やかにお帰りを!」
「そんな、困るよ! もうゲーム開始の刻限が迫っているんだ。このままじゃ“プレイヤー”の数が足りなくなってしまう」
「延期すればいいじゃないですか!」
「出資者の皆様にそんなこと言えるわけがないだろ」
「知るか!」
いや、ホント勘弁してくれよ。ウォーゲームとか言ってたし、絶対平和な世界じゃないだろ。スローライフとか間違いなく無理だ。勘弁してくれ。
しかし、当然と言えば当然のことだが、非常識な存在の非常識な力に抗えるわけはなかった。




