第9話 揺らぐ心、燃える街
アークラインの夜は、赤く染まっていた。
遠くで燃え続ける炎が、街の輪郭を歪ませている。
紅蓮団の結界は崩れたものの、余波として各地に小規模な暴動と火災が広がっていた。
非魔法師たちは恐怖に駆られ、魔法師を避けるように逃げ惑う。
人々の瞳には、もはや“誰が敵か”も分からない混乱だけが残っていた。
昴は廃ビルの屋上からその光景を見下ろしていた。
夜風が煤を運び、鼻の奥に苦い匂いが残る。
「……これが、悠介の言ってた“恐怖の形”か」
隣で、美玲が目を伏せる。
「人が、怖がってる。誰も炎を止めようとしない。……もう、共存なんて言葉が遠すぎる」
「でも、俺たちが諦めたら、本当に終わる」
昴の声は静かだが、瞳の奥には強い光があった。
「悠介の“炎”に勝つには、理想を信じるしかない。たとえ今、それが空っぽに見えても」
しばらく沈黙が流れた。
瓦礫の向こうで風が鳴り、ふと、美玲が口を開いた。
「昴くん、あなたはどうしてそこまで信じられるの?」
「……信じるしかないから、かな」
昴は苦笑した。
「俺は、昔から誰かを放っておけない性分でさ。
助けたい、守りたいって思うと、止まれなくなる。……でも、それって結局、怖いことなんだ」
「怖い?」
「守る相手が、傷つくかもしれないから」
美玲は彼を見つめた。
炎に照らされた横顔が、ほんの一瞬、寂しげに揺れた。
「……それでも、守ろうとするのね」
「ああ。だって、それが俺の雷だから」
美玲はその言葉に、少しだけ微笑んだ。
だがその笑みは、どこか壊れそうに脆かった。
* * *
その頃、地上では颯真と亜里沙が避難誘導に奔走していた。
「南区、封鎖完了! こっちは非魔法師の避難が終わった!」
「こっちもあと少し! ……くそ、炎が広がってる!」
風と大地の魔力が交差し、炎の進行を抑え込む。
しかしその勢いは凄まじく、建物の崩落音が響いた。
亜里沙が息を荒げながら言った。
「颯真、あんた……前にもこういう状況、あったんでしょ?」
「……ああ。三年前、北区の戦火だ」
「“あの事件”ね」
颯真は一瞬、目を閉じた。
――風の中で、焦げた匂いが蘇る。
当時、まだ彼は学生だった。
魔法師と非魔法師の衝突で、避難誘導に入った仲間の少女を救えなかった。
彼女は火に巻かれて死んだ。
「俺は……風で人を助けられるって信じてた。でも、風は形を持たない。ただ吹き抜けるだけだ」
「だから、今度は違う風を吹かせるのね」
亜里沙の声が少し柔らかくなった。
「私だって、あの時、家を焼かれた。……でも、あんたが風で炎を逸らしてくれた」
颯真が目を見開いた。
「……あの時の避難民の中に?」
「ええ。だから、あの時から知ってたの。
あんたは“吹き抜ける”風じゃなくて、“包む”風を持ってる」
亜里沙は微笑み、崩れかけた壁を拳で支えた。
「だから、あたしは地で支える。あんたの風と昴の雷があれば、この街は立ち上がれる」
「……ありがとな」
風が少しだけ、優しく吹いた。
* * *
一方その頃――
紅蓮団の拠点、旧第零格納庫。
悠介は一人、暗い部屋に座っていた。
炎は灯っているのに、その光は妙に冷たい。
刹那が報告を終えると、彼は小さく頷いた。
「結界は破られたが、恐怖は広がった。……これでいい」
「悠介様。ですが、非魔法師たちの避難行動が速すぎます。何者かが――」
「昴だ」
悠介の声が低く響く。
「奴は、恐怖の連鎖を断とうとしている。……だが、止められはしない」
「次の標的は?」
「南区の補給路を落とす。奴らが人を守るほど、俺たちは炎を強める」
「了解」
刹那が去った後、静寂が戻る。
悠介は机の上の小さなペンダントを見つめた。
中には、沙耶の笑顔。
指先が微かに震える。
――『お兄ちゃん、私ね、人が好きだよ』
脳裏に、あの日の声が蘇る。
――『魔法があっても、なくても。笑って生きられる世界がいいな』
悠介の表情が歪む。
「……やめろ」
声が漏れた。
だが、止まらない。
炎の奥で、妹の姿が浮かぶ。
――『そのために、頑張ってね。お兄ちゃん』
悠介は立ち上がり、机を拳で叩いた。
「違う……! もう遅いんだ!」
炎が爆ぜ、壁に描かれた魔法陣が歪む。
だがその炎の中、確かに“涙のような光”が見えた。
「沙耶……お前の言葉は、もう俺を燃やせない」
悠介はそう言いながら、しかしどこか苦しげに瞼を閉じた。
炎がわずかに揺らぎ、赤から橙へと色を変えていく。
――彼の心の奥で、炎と涙が静かに交わっていた。
* * *
夜明け前。
昴たちは廃ビルの屋上に再び集まっていた。
風が通り抜け、遠くの炎がようやく収まり始める。
「紅蓮団は次にどこを狙うと思う?」
颯真の問いに、昴は迷わず答えた。
「南区。……補給路を絶てば、避難民を動かせなくなる」
「じゃあ、次の戦場は決まりね」
亜里沙が拳を鳴らす。
美玲が静かに頷いた。
「……昴くん。悠介くんを、止めようね」
昴はその言葉に、強く頷いた。
「必ず、俺が終わらせる。――彼の炎も、俺の雷も、無駄にしないために」
朝焼けが、灰の街を照らした。
それはまるで、
焼け跡の中から差し込む“希望の光”のようだった。




