第7話 雷鳴の報せ
朝の空気は、まだ冷たかった。
アークライン南区――臨時避難所の屋根の上。
昴は一人、灰色の街を見下ろしていた。
遠くではまだ煙が立ち昇り、崩れた建物の中からは救助の声が聞こえる。
雷を落とした右手には、包帯が巻かれていた。
あの戦いのあと、感覚が鈍くなっている。
けれど、痛みは確かに残っていた。
“痛み”が、生きている証だ。
それが今の彼を繋ぎ止めている。
「……悠介、動き出したか」
低く呟いた声に、背後から水の気配がした。
「紅蓮団が北区を制圧したって情報、もう広まってる」
美玲が手に持った端末を昴に渡す。
映し出されたのは、焦げた街と、紅蓮の紋章。
“炎を恐れよ。それが秩序の第一歩。”
そう書かれたビラが、壁という壁に貼られている。
昴は奥歯を噛みしめた。
「……恐怖を“秩序”って呼ぶなよ」
「彼は本気で、世界を変えるつもりなんだと思う」
美玲の声には迷いがなかった。
「でも、私たちも信じてる。違う形の“変化”を」
昴は頷き、拳を握る。
「……俺たちだけじゃ、足りない。奴を止めるには、同じ“魔法師”の力が必要だ」
「共存を信じる魔法師たち、ね」
美玲が小さく微笑んだ。
「心当たり、あるの?」
「……二人」
昴の目が、遠くの空を見た。
「風の魔法師・神崎颯真。そして、土の防御術士・白瀬亜里沙。
二人とも、昔、俺たちと同じ『共存会』の仲間だった」
美玲の表情に懐かしさが浮かぶ。
「颯真くんは風の研究所にいるんじゃなかった?」
「ああ。空気魔法の応用で、非魔法師地域の空気浄化装置を作ってた。
でも……今は、紅蓮団に押さえられてる可能性がある」
「助けに行くのね」
昴は短く頷く。
「風が消えれば、炎は暴走する。颯真を取り戻す」
* * *
午前十時。
風研究区・第4ラボ跡地。
建物の外は静まり返っていた。
焦げ跡の残る壁に触れると、淡く雷が走る。
「……静かすぎるな」
「罠の匂いがする」
美玲が水の膜を展開し、霧状の探知を広げた。
その霧の中で、微かな動きが映る。
「昴くん、そこ!」
次の瞬間、風が爆ぜた。
見えない刃が空気を裂き、昴の頬を掠める。
「久しぶりだな、昴」
建物の影から、風を纏った青年が現れる。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、無精髭を生やした姿――神崎颯真だった。
「颯真!」
「動くな。……紅蓮団の間者かもしれない」
颯真の目は警戒に満ちていた。
「何を言ってるんだ、俺たちは――」
「“共存会”はもう死んだ。理想を語る奴は、どっちの側にもいない」
その言葉に、昴は言葉を詰まらせた。
「颯真……お前、まさか――」
「俺は、ただ“風向き”を読んでるだけさ」
皮肉な笑みを浮かべた颯真の視線が、昴の背後に向く。
そこには、美玲が立っていた。
「菅峰か。お前まで生きてたとは」
「颯真くん……お願い、私たちに協力して」
「協力? 理想論で炎は消せない」
「でも、風がなければ炎は広がり続ける」
美玲の声が、静かに空気を震わせた。
「あなたの風が、まだ人を守るために吹けるって、私は信じてる」
沈黙。
颯真の目が一瞬、揺れた。
彼の背後で、風が渦を巻く。
その風は荒々しく、しかしどこか寂しげだった。
「……昴。お前、まだ悠介を救えると思ってるのか」
「救えるかは分からない。でも、見捨てたくはない」
「甘いな」
「そうかもな。でも、甘さがなきゃ、人は誰も隣に立てない」
その言葉に、颯真は目を伏せ、息を吐いた。
「……本当に、お前は変わらない」
「お前もな」
昴の笑みに、颯真は小さく苦笑した。
「……いいだろう。俺も行く。
だが覚えておけ、炎の中に踏み込むってことは、理想を焼かれる覚悟がいる」
「覚悟なら、もうある」
昴の声に、雷が一瞬走った。
颯真が手を差し出した。
「なら――風は雷に従おう」
昴がその手を握り返す。
再び、風が流れ始めた。
* * *
夕方、避難所に戻った昴たちを、白瀬亜里沙が迎えた。
茶色の髪を短くまとめた彼女は、土の魔法で避難民の防壁を築いていた。
「やっと来たのね、昴」
「無事でよかった、亜里沙」
「無事じゃないわよ。こっちは毎晩、紅蓮団の放火と戦ってる」
亜里沙は溜息をついた後、颯真に目をやった。
「風まで戻ってきたなら、もう逃げられないわね」
「俺は逃げた覚えはないさ。……ただ、向かい風を読んでただけだ」
「へぇ、相変わらずの言い訳ね」
小さな笑いが、崩れた避難所に響く。
久しぶりに、空気が少しだけ和らいだ。
その瞬間、空の向こうで雷鳴が轟いた。
昴が顔を上げる。
雲の中に、赤い閃光が混じっていた。
「……悠介だ」
美玲が呟く。
「紅蓮団が、次の行動を始めたのね」
昴は拳を握った。
「次は……この街の“中心”を焼くつもりだ」
雷が空を裂き、風が吹き抜ける。
昴たちは互いを見た。
もう、後戻りはできない。
炎の中に飛び込む覚悟を胸に、彼らは立ち上がった。
「行こう。雷と風と水と土――全部で、未来を取り戻す」
その言葉に、誰も反論しなかった。
灰の街の上で、遠く雷が鳴る。
それは――戦いの“報せ”だった。




