第20話 神の雷(かみのいかづち)
――暗い。
闇が、音もなく満ちていた。
世界が焼け落ちる寸前のような静寂。
昴はそこで、ひとり浮かんでいた。
腕を見れば、黒い炎がまだ絡みついている。
皮膚は焼け焦げることもなく、ただ深い夜のように染まっていた。
「……ここは……?」
声は、吸い込まれるように消える。
足もない。地面もない。
まるで、“存在”という概念さえ剥がれ落ちたようだった。
その時、遠くで声がした。
『――雷の子よ』
低く、響く声。
男でも女でもない、けれど世界そのものが語りかけてくるような声だった。
昴は顔を上げた。
暗闇の彼方に、光が見える。
それはひと筋の稲妻。
白銀の雷が、虚空を貫き、やがて人の形を取った。
「……誰だ、お前は」
『我は“原初の雷”――神が最初に放った罰の象徴。
お前の中に流れる“雷の起源”だ』
昴は息を呑む。
「俺の……中に……?」
『そうだ。桐谷昴。
お前が雷を呼ぶ時、その力はこの“原初の意志”に触れている。
だがいま、お前の器は“黒焔”によって穢された。
放っておけば、やがてお前は神の断罪として世界を滅ぼすだろう』
「……っ!?」
昴の背筋に冷たいものが走る。
「そんなこと、俺は――望んでない……!」
『ならば、選べ。
神の力を継ぎ、この世界を焼き尽くすか。
それとも――“人”として抗うか』
昴は拳を握った。
黒炎の痛みがじんじんと走る。
その痛みが、逆に現実を思い出させた。
――美玲の笑顔。
――悠介の叫び。
――非魔法師の子供たちの泣き声。
「俺は……人として戦う。
誰かを救いたくて、雷を使ってきた。
それが罪でも、俺はそれを手放さない」
“原初の雷”は一瞬、沈黙した。
やがて、低く笑う。
『ならば、我を乗り越えてみせよ。
人の意志が神を凌駕するというのなら――この雷を、制してみろ!』
世界が閃光に包まれた。
雷鳴が轟き、昴の身体が弾け飛ぶ。
――試練の始まりだった。
* * *
一方、現実の世界。
中央広場の瓦礫の中で、美玲が昴の名を叫び続けていた。
だが、彼の身体は黒炎に包まれたまま動かない。
「昴……お願い、戻ってきて……!」
結界を維持する魔力が限界に達していた。
黒炎は静かに波打ちながら、まるで心臓の鼓動のように脈動している。
その中心で、昴は今も“戦っている”のだと、美玲は直感していた。
「導師……あの人、昴を――」
悠介が拳を握る。
「“鍵”にした。昴の力で、黒炎を完全に顕現させる気だ」
「止める方法は……?」
「一つだけだ。あの黒炎の核を、外から破壊する。
でも……中の昴も一緒に消える」
美玲は顔を上げた。
「そんなの、絶対に嫌……!」
彼女の瞳が震える。
涙が頬を伝い落ち、地面の灰を濡らした。
悠介はその様子を見て、静かに目を閉じた。
そして、ポケットから一枚の古びた魔導札を取り出した。
「……これは?」
「俺が昔、紅蓮団を抜ける時に封印した《炎の祈印》だ。
持ち主の魔力と命を燃やして、対象の“契約”を破壊できる。
黒炎も、魔導契約の一種なら――これで昴を取り戻せる」
「でも、それって……!」
悠介は笑った。
「わかってる。死ぬさ」
美玲は首を振った。
「駄目だよ、そんなの!」
「他に手はないだろ。……俺のせいで、こんなことになったんだ。
あいつが、俺を信じてくれたからここまで来れた。
だから今度は、俺が“雷”を信じる番だ」
悠介の炎が揺らめく。
その姿は、かつて敵として戦った男ではなく――友だった。
美玲は唇を噛んだ。
「……わたしも行く。昴を呼び戻すのは、わたしの役目だから」
「美玲――!」
「水は炎を抑えるだけじゃない。
流れを導く力だよ。悠介、わたしの魔力を使って」
彼女が両手を差し出す。
悠介は一瞬迷い――そして、頷いた。
「……わかった。共に行こう」
炎と水が交わる。
紅と蒼が溶け合い、黒炎へと向かって伸びていく。
その中心には――昴。
* * *
――試練の中。
昴は雷の奔流の中を走っていた。
周囲を無数の稲妻が駆け巡り、雷鳴が絶え間なく轟く。
その中に、黒い影が現れた。
“原初の雷”のもう一つの姿――
己の“恐れ”が具現化したもの。
『人は弱い。守ると言いながら、壊す。
救うと言いながら、奪う。
お前も同じだ、桐谷昴。』
「違う……俺は……!」
『違わぬ。お前は雷の子。破壊の象徴。
お前が生きる限り、誰かが傷つく』
昴は拳を握りしめた。
目の前の影が、悠介の姿に変わる。
炎の剣を掲げ、笑っていた。
――“救うために燃やす”
その言葉が、刃のように胸を突く。
「俺は……そんな力のために雷を使ってきたわけじゃない!」
昴が叫んだ瞬間、雷が爆ぜた。
黒い影が押し返される。
『ならば、証明してみろ――人の雷を!』
昴は目を開き、両手を広げた。
その指先に、無数の光が集まる。
青白い稲妻が渦を巻き、やがて純白の光に変わった。
「……これが……俺の雷だ!」
光が弾け、黒い影を貫く。
闇が砕け、虚空に雷鳴が響き渡った。
* * *
現実――
黒炎が震え、亀裂が走る。
その瞬間、悠介と美玲が同時に詠唱を放った。
「――炎祈・破界ノ印!」
「――蒼流・還波ノ祈り!」
紅と蒼の魔法陣が重なり、光が爆ぜる。
黒炎の中心が白く輝き、そこから――
「……雷鳴っ!!」
轟音。
純白の雷が黒炎を貫き、空へと駆け上がった。
昴が現れた。
右腕には、もはや黒炎の痕跡はない。
瞳には蒼い稲妻が宿り、全身から雷光がほとばしっていた。
「……戻ってきたか、雷の子よ」
導師が呟く。
昴は彼を見据え、静かに言った。
「もう“神の雷”じゃない。
これは――“人の誓い”だ」
雷鳴が再び響く。
空を裂き、夜を貫く。
そして、その光の下で、三人の影が再び並び立った。
――炎。
――水。
――雷。
それぞれの光が、同じ敵を見据えていた。
「導師。お前の再生なんて、誰も望んじゃいない!」
昴の声が、雷鳴に溶けて響く。
――世界の運命が、動き始めた。




