第1章|音楽室の秘密
風見ヶ丘高校、2年生になって最初の春。
同じクラスになった生徒の名前を、私はほとんど覚えていなかった。
廊下ですれ違っても話すことのない子ばかりで、毎年、それは変わらなかった。
ただ、ひとりだけ――彼の名前だけは、自然と耳に残った。
高瀬大翔。
野球部のエースで、誰にでも明るく話しかける、クラスの中心にいるような存在。
私とは、まるで違う世界の人。
だからこそ、目が合うことなんてないと思っていた。
その日も私は、いつもと同じように図書室に向かっていた。
ホームルームが終わるとすぐに鞄を持ち、誰にも話しかけられないように、足早に教室を出る。
図書室は3階のいちばん奥にある。
廊下の突き当たりに、静けさを閉じ込めたようなその空間が、私は好きだった。
けれど――その日は、途中で足を止めてしまった。
上の階から、ふと聞こえてきたのは、微かに響くピアノの音。
4階の音楽室。いつもは放課後に誰も使っていないはずの場所から、綺麗な旋律が降ってきた。
音に引き寄せられるように、私は階段をのぼった。
――そして、見てしまった。
真剣な顔で鍵盤に指を落とす、高瀬大翔の姿を。
え?
一瞬、頭が真っ白になった。
運動部の彼が、ピアノを弾いているなんて、まったく想像できなかった。
しかも、その音は、とても綺麗で、やさしくて――思わず息を呑んでしまった。
ドアの小さなガラス越しに、私は立ちすくむ。
すると、大翔がふいに顔を上げた。
目が合った。
思わず視線をそらしかけた私に、彼はゆっくりとドアを開けた。
「……見た?」
私は小さく頷く。
「誰にも言うなよ」
その声は、いつもの教室で聞く明るさではなくて、
少しだけ不安そうで、少しだけ、頼るような響きがあった。
「……うん」
私は、それだけを口にして、その場を離れた。
けれど、胸の奥には静かなざわめきが残っていた。
“本当の彼を知ってしまった気がする”
それが、私と高瀬大翔のはじまりだった。
音楽室の出来事以来、私は彼のことが少しだけ気になるようになっていた。
でも、あの日のことには触れられることもなく、私たちはただの“クラスメイト”として、静かに日々を過ごしていた。
……はずだった。
「なあ、これどこに出せばいいんだっけ?」
そう言って、教室の隅で本を読んでいた私に、唐突に声をかけてきたのが高瀬くんだった。
彼は環境委員で、私は図書委員。直接関わることなんてほとんどないはずなのに、不思議だった。
「えっと……それは、分別の貼り紙に──」
そう言いかけた私の手元を、彼はふと見下ろした。
ノートの上に、学校とは関係ない小さな物語の文字が並んでいる。
「……それ、なに書いてんの?」
そう聞かれて、私は思わずノートを閉じた。
誰にも見せたことのない、“もうひとりのわたし”を、彼に見られた気がして。
放課後の図書室。
今日も、静かな空気の中で私はペンを走らせていた。
図書委員の仕事を終えたあとの、ほんのひととき。
この時間だけが、私が“わたし”でいられる、大切な居場所。
──カツ、カツ。
足音に顔を上げると、そこには見慣れた姿が立っていた。
「……高瀬くん?」
「あー……やっぱ、おまえだった」
彼は、手に私のノートを持っていた。
慌てて立ち上がろうとしたけれど、もう遅かった。
「ちょっと、それ返して──!」
「ん? “風のない夕暮れに、きみの声だけが響いていた”……」
ぱら、とページをめくる彼の指が止まる。
「……これ、おまえが書いたの?」
「っ、それ……違う。授業の……メモで……」
苦しい言い訳だった。
彼はふっと笑って、ノートを閉じた。
「へぇ、意外。……でも、こういうの、いいと思うよ」
「……誰にも言わないで」
「んー……どうしよっかな」
からかうような笑みが口元に浮かぶ。
「……あの日のこと。音楽室で、おれがピアノ弾いてたの、見たよな?」
「……うん」
「じゃあ、こうしよう。おまえがそれ黙っててくれるなら──
このノートのことも、誰にも言わない。……交換条件な」
彼はそう言って、ノートを私の手にそっと戻した。
「秘密、ひとつずつ。……これでおあいこだな?」
「……ずるい」
「よく言われる」
目が合った瞬間、どこかくすぐったいような沈黙が生まれた。
音楽室の出来事も、このノートの中の言葉も、
まだ誰にも知られたくない、小さな“わたし”だった。
けれど彼は、それを奪わなかった。
ただ、そっと心の隣に置いただけだった。