プロローグ
白いレースのヴェール越しに、朝の光が差し込んでくる。
鏡に映った自分の姿が、少しだけ他人のように見えた。
「……やっぱり、似合わないかも」
そう呟いた声は、ふるえていた。
胸の奥に、ずっと沈めていた何かが、今日はどうしても騒がしい。
――どうして、今日なんだろう。
何気なくよみがえるのは、“あの春の日”のことだった。
あれは、制服の袖が少しだけ窮屈に感じた、高校二年の春。
新しいクラスの扉を開けた瞬間、私はあなたを見た。
明るくて、周囲の中心にいるような人。
でも、私の視線は、その手のひらから始まった音に惹かれていた。
図書室へ向かう途中、ふと聴こえた音楽室のピアノの旋律。
扉の隙間から覗いた先にいたのは、あなた――高瀬大翔だった。
ただのクラスメイトだったはずのその人が、
やがて、私の世界を少しずつ塗り替えていくなんて、その時はまだ知らなかった。
名前も、関係も、何もわからなかったあの頃。
けれど今――私は、あの音から始まった日々を、確かに胸に抱いている。
私は、きっと、
あのときのままの「わたし」でいられたら、どんなに楽だっただろうと思う。
誰にも見つからず、本と一緒に静かに過ごすだけのわたし。
感情を波立たせることなく、日々をやりすごしていくわたし。
でも、あなたに出会って、
私は「感情で生きる」ということを知った。
戸惑いも、涙も、怒りも、愛しさも。
あの春の日に扉が開いてから、
わたしの中には、今もずっと、あなたがいる。
――忘れていたのは、名前じゃない。
あなたと過ごした「気持ち」だった。
思い出せないまま、あなたを好きになった。
思い出せないまま、またあなたに恋をした。
何度も失いかけて、
何度も遠ざけてしまって、
それでも、今日、ここにたどり着いた。
カーテンの隙間から吹き込む風が、
そっとベールを揺らす。
私は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
“待ち合わせは、もうすぐだ。”