潮騒の大岩【短編】人魚喰い2【夏のホラー2025】
波穏やかな南海の果てに「千鳥浦」と呼ばれる入り江の村があった。
黒岩の崖が連なる海岸の風は、日が沈む度に唸り声をあげ、夜ともなれば、海面に人影のようなものが揺れたという。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
古びた村の小さな小屋。
あいにく天気は、小雨まじり。
板床の上に、子どもたちが、輪になって座る。
その真ん中に背中を丸めて座るのは、語り部の爺さま・・・鈴木治左衛門。
「むかしむかし、村の海での出来事じゃ・・・」
この年寄りが、静かに語り始めたのは、古くから伝わる「昔話」であった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
村には、ひとりの巫女がいた。
名は、瑞穂。
年の頃は、十五を少し過ぎたばかり。
まだ少女の面差しを残しながらも、どこか神秘を帯びた静けさと、淡い哀しみをその瞳に宿していた。
白い衣をまとい、腰に紅色の紐を結び、海に向かって舞い祈る姿は、波に揺れる美しい小さな魚のようで、村人たちは彼女を深く敬い、慈しんでおった。
それは、ある夏のことであった。
丘の上に聳える石造りの館に住まう領主・翠川左衛門督茲矩は、ある日、漁民たちにこう命じた。
「宴のため、海より最上の魚を大量に獲り集めよ。鮮やかな鯛、脂ののった鰤、飛び跳ねる海老、いずれも、余の舌を悦ばせるものでなければならぬ」
その声には、驕りがにじんでいた。
千鳥浦の人々が、海の機嫌をうかがいながら、ほそぼそと漁をしていることは、領主にとって些末なことであった。
当然のごとく、漁民たちは、困惑した。
夏の千鳥浦は、荒れることも多く、漁の成果は天候に大きく左右される。
領主の求める最上の魚を、彼が求める量、納めることは、なかなかに難しいことであったのだ。
その上、領主の遊興のために魚を獲れという命は、海の恵みを敬い慎ましく暮らしてきた漁民たちの生き方に反していた。
村の長老、弥次郎は、静かに言った。
「海も、生きており、奪う者には牙をむく。これを乱せば、海神様が怒る。波は人の心を映すのじゃ。」
しかし、村人たちは、命令に逆らえなかった。
侍たちは容赦なく圧をかけ、槍を突き付け、漁民を責め立てた。
「漁ができぬなら、娘を差し出すか?魚の代わりに舞でもさせてやろう。」
村人たちは、怒りと悲しみを胸に、船を海に出した。
村に漂うは、波間に漂う霧のような不安。
最初の一週間こそ、潮の流れは穏やかで、漁果もあり、領主の求めに応じる量の魚を納めることが出来た。
飛び跳ねる海老も、鯛も。
沖合に出した船からは、鰤も揚がった。
しかし、漁民たちの顔に笑みはなかった。
彼らは、これが、嵐の前の静けさであろうことを予感していたのかもしれない。
やがて、兆しが現れ始める。
海に漂う不気味な沈黙。
はるか沖の向こうでは、雷のような音。
岸に打ち上げられたのは、深海魚の死骸。
千鳥浦そのものが、異変を告げているかのようであった。
ある夜、弥太郎は、つぶやいた。
「海が怒っておる・・・魚たちの声が、聞こえんようになっとる。」
そして、嵐が来た。
最初は、小さなうねりだった。
それは日を追うごとに大きくなり、ついには防風林を越え、村の畑まで波飛沫が届いた。
風は、山をも唸らせるほどの声で吹き荒れ、粗末な家々の屋根を剥がし、小さな船を打ち砕いた。
網は壊され、漁具は流され、海は、一切の恵みを村のモノに与えようとしなくなった。
不思議なことに、翠川領の他の村々はそれほど被害を受けておらず、まるで千鳥浦だけが、呪われた地のように天災に襲われた。
領主は、命を取り下げなかった。
むしろ、苛立ちを募らせ、漁民たちを咎めた。
「魚が足りぬのは、お主らの怠惰ゆえ。次の月には、倍の量を献上せよ。都の客人が来るのだ」
村では嘆きが広がった。
漁に出られぬ者、怪我をした者、そして、船を失って餓えに苦しむ家族。
年端もいかぬ子供まで、森の木の実や、海辺で拾った貝、海草を集めて命を繋いだ。
ある日、一人の漁師が帰らぬままになった。
若い漁師、一太だった。
彼は、領主の無茶な命になんとか応えるため、夜明け前の潮に賭け、ひとり漁に出たのだ。
翌朝、波間に浮かぶ彼の小舟だけが見つかった。
舳先は裂け、櫂は失われていた。
船に魚はなく、ただ、舳先に・・・何によるものであろうか?・・・無数の爪痕のような深い傷跡があった。
「明らかに、人の手によるものではない。」
村人たちは、息を呑んだ。
海神が遣わした何かが、そこにいたのだと、誰もが悟った。
夜、村の沖で、海が割れる轟音がした。
波の音ではない、地の底から響いてくるような唸り声。
家々の戸が鳴り、飢えで声を失っていた赤子たちが、一斉に泣き出す。
何かが這い出ようとしているかのように、海水がぶつかり合い、黒い渦を巻いていた。
海は、怒りを露わにし、波が、千鳥浦を目指して高く高く、空を裂くかのように、忍び寄って来る。
もはや、村の誰もが否応なく、それを認めざるを得ない現実。
魚のいなくなった浜は、命を喪ったように乾ききっており、吹き寄せられる波も、陽光を反射してきらめくことはなく、どす黒い影を孕んだまま打ち寄せる。
空の色は、その不吉さを増し、陽が昇っても明るさは戻らず、朝夕の区別がつかなくなるほど、薄暗さが村を覆った。
村人は、日に日に痩せ細り、幼子たちは、咳をし、皮膚に生気は無く、その体は、力なくバタリと倒れていく。
海水に浸された畑からの収穫は無く、井戸からは、鉄の匂いがする茶色の水が湧き出る。
にもかかわらず、館からの命令は変わらなかった。
むしろその調子は苛烈さを増し、「献上用の干物が足りぬ」との一言が、さらに重い苦しみを村に課した。
その月の中頃、領主・翠川左衛門督茲矩は、新たに命を下した。
「魚が足りなければ、人手を出せ。漁が出来ぬならば、山林を伐採し、木を切り出せ。」
都からくる賓客をもてなすため、迎賓施設を急造するための命令であった。
しかし、それは、海で死ぬか、山を崩し、土砂で海を濁らせるかの選択だった。
だが、その山もまた、容易く人を許さぬ場所となっていた。
強い波風は、山をも襲い、斜面は脆く、木々は病に侵され、樹皮に触れると手が痺れ、命令通りに山に入った者が、倒木の下敷きになる事故が相次いだ。
漁に出る者は減り、山に入った者も戻らず、残されたのは、身を寄せ合う女と子、年寄りばかり。
朝焼けの空は、不気味に紫がかり、波は、まるで何かに怯えるようにさざめく。
海鳥たちは沖へ出ることをやめ、森の奥へと逃げ込んだ。
港に並ぶ小舟は逆さに返り、風は、言葉にならぬ嘆きを吹きつけていた。
それでも、漁に出なければならない。
それが、領主・翠川左衛門督茲矩の命であった。
「宴はまだ終わらぬ。都より新たな客人が来る。海の幸をたっぷり揃えてもてなせ。」
海は、牙をむき、小舟を呑み込み、年老いた漁師が命を落とす。
だが、領主は、それを怠慢と一蹴した。
館にこもったまま、魚が不十分であると怒鳴り散らし、集落に次なる魚を求めてきた。
「海はただの塩水。それを恐れて何になる。沖に出れば、魚は群れておる。獲ってこい。」
海の理を知らぬ者の傲慢そのもの。
だが、それを咎めるものは、誰も居ない。
逆らえば、処罰される。
逆らわぬとも、飢えれば、死ぬ。
海に出ても死、出ずとも死。
それが、千鳥浦の人々に課せられた現実であった。
老女が、海岸の古びた祠に魚の形に削った木片を並べた。
生きた魚を供えることはもはや叶わず、せめて形だけでもと、手を合わせたのだ。
人々は、それを「かたちの祈り」と呼び、やがてその祈りは、村人全体へと広がっていく。
誰もが、形だけでも供えようと、布に魚の絵を描き、土を捏ねて貝に見立て、夜ごと祠の前に置いた。
祈りは、実らずとも、祈りを止めれば、村が、完全に壊れてしまうような気がしてならなかったのだ。
領主の館では、都からの使者を迎え、再び、大宴が開かれた。
飾られた膳は、美しい魚の姿焼きや、刺身、食欲をそそる香りの干物が並び、都人の口元に笑みが浮かんでいた。
「この地には、海神さまのご加護があるようですね。」
使者はそう言いながら、刺身を口に運んだ。
それを聞いた領主・翠川左衛門督茲矩は、自らの功を誇るように高笑いし、盃を干した。
千鳥浦では、供物すら作れぬほどに衰弱した老人が、ひとり・・・またひとりと、息を引き取っていた。
母が亡くなり、幼い姉弟だけで残された家族。
その幼い姉弟が、土の魚を胸に抱き、祠の前に並んでいた。
風が強く、細かな雨が降り続いた。
領主・翠川左衛門督茲矩は、都からの使者を見送ったあとも、成果に酔いしれ、帳簿に書かれた数字で村の豊かさを測っていた。
「供出」「他村より塩魚輸送」「山林伐採確保」など、侍たちの筆で綴られた報告が並び、満足げに眺めるたび、左衛門督は、盃を傾ける。
「民など替えの利くものよ。生かすも殺すも、治める者の裁量よ。」
言葉を聞いた若い侍の一人が、わずかに眉をひそめたが、彼が、何かを言うことはない。
何かを言うことが出来る空気などなく、また、言った者は、既にこの館に残っていないのだ。
千鳥浦では、子供の声がほとんど聞こえなくなっていた。
多くの家は戸を閉じたまま、人の気配を絶っていた。
老いた者も、海辺へ下りることをやめ、小屋の奥に籠もって祠の方向だけを向いた。
だが、ある晩、その祠さえ波に呑まれた。
夜のうちに激しい風が吹き、岩場にしがみついていた祠は跡形もなく、翌朝には、ただ濡れた礫の上に、土で形作られた供物の欠片だけが残っていた。
海は喋らない。
ただ、静かに怒りを溜める。
それを、誰もが理解していた。
意を決した村の長老・弥次郎は、死を覚悟して、領主に申し出る。
「海神さまが、怒っとるに違ありませぬ。どうぞ、海の神様の怒りがおさまるまで、税を免除してくだされ。」
ところが、領主は、こう答えた。
「ほう・・・海神の怒りとな。ならば、神に捧げる供物が要る。人だ。神が望むは魂の贄よ。海の神に近しい者がおったであろう。かの巫女を海に捧げるべしっ!」
こうして選ばれたのが、海神の巫女・・・瑞穂であった。
命に逆らうことは、許されない。
瑞穂は、村の神事において舞を奉じる役目を担う「潮姫」として育てられた。
母を亡くし、村の老婆たちに囲まれて育てられた瑞穂は、海神に最も近しい存在とされていた。
彼女は言葉少なく、穏やかな目をしていた。
「瑞穂が選ばれたのは、その魂が清いからだ。」と年寄りは、口にした。
「潮姫を献じたら、神もきっと満足なさる。」と誰かが、つぶやいた。
それは、逃げ場のない村人たちの言い訳の言葉であった。
儀の日、夜の潮がひいた干潮の時刻、侍たちは、領主の館からやって来た。
彼らは、瑞穂を神事に使う白装束で包み、縄で縛った。
彼女は抵抗しなかった。
いや、できなかったのかもしれない。
視線はどこか遠くを見つめ、育ての婆が、声をかけても、微かに首を傾けるばかりだった。
瑞穂の瞳には恐れも悲しみもなく、ただ、静かな諦念だけが宿っていた。
村外れの岩場・・・「神の磐座」と呼ばれる場所に、瑞穂は運ばれ、赤色の縄で大岩にグルグルとしばりつけられた。
そこは、切り立った崖の岩場と砂浜、そして、海に挟まれ、潮が満ちれば水に呑まれる地だった。
侍たちは、黙々と彼女を岩に括り付けた。
満月の光が、彼女の白い顔を照らす。
最後に、頭を垂れて祈りを捧げたのは、村の長老・弥次郎であった。
「海神様、潮姫を捧げます。どうか、村をお救いください・・・・・・瑞穂、すまぬ。」
その声は、瑞穂の耳に届いていたかどうか・・・
そして夜が明けた。
朝霧の中、波は穏やか。
磐座の下に打ち上げられていたのは、瑞穂の遺体。
漁師の嘆きの声が、村を震わせた。
瑞穂の両脚は、裂かれ、腹と胸は、巨大な獣に喰われたように穿たれていた。
白装束は赤黒く染まり、瞳は半ば開いたまま、空を仰いでおり、その傍らに、小さな貝殻がひとつ、小さな花が一輪、静かに置かれていた。
それを見た者は、口々に「神が、潮姫を喰らったのだ。」「これで怒りは鎮まる。」と囁いた。
老女がひとり、涙を流しながら、血に濡れた彼女の髪をそっと撫でた。
「瑞穂・・・ようやってくれた。」
その日から、確かに村の穏やかな海は、戻ってきた。
しかし、以前のように網に多くのイワシがかかることもなくなり、小魚もほとんど獲れなくなった。
村は、活気を失い、逃散するものもあらわれた。
村人たちは瑞穂の死について、誰も多くを語ろうとはしなかった。
いや、語れなかった。
あの瞳に宿っていたものが、何だったのかを思い出すたび、喉の奥が痛んだからだ。
海から聞こえる潮の音は、まるで誰かのすすり泣きのように響いていた。
それから、村外れの岩場・・・「神の磐座」は、『巫女の大岩』と呼ばれるようになった。
領主が、立ち入りを禁じても、時々、村の者が木を削り、魚を模して献じた。
土を捏ね、その土の貝を捧げて、祈りを捧げる。
領主・翠川左衛門督茲矩は、国替えを命じられ、領地を移動し、新たな領主が村を治めることとなった。
やがて、潮姫の記憶も、巫女の大岩の場所も忘れられ、ただ話だけが、語り部の一族に伝わるのみとなった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
輪のすみに居た男の子のひとりがぽつりと聞いた。
「『巫女の大岩』って、海沿いを探したら見つかるかな?」
語り部の爺さま・・・鈴木治左衛門は、ゆっくり首を振り、つぶやくように告げた。
「海の声を聞く巫女は・・・そこで、海に還ることになったのじゃよ。同じように潮姫の声、海の声を聞くものは、やはり、海に還る定めじゃ。『巫女の大岩』を探してはならぬし、見つけても近寄ってはならぬ。大切なのは、ただ話を忘れずに、海への感謝を持ち続けることじゃ。」
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
翌朝、話を聞いた子供のひとりが、姿を消した。
「巫女の大岩を探そう。」と言ったあの男の子であった。
大騒ぎする男の子の両親の隣で、村人は、床の上に小さな水たまりができていることに気づいた。
水たまりは、雑木林へと続き、今はあまり使われない岩場の道の方角へと転々とその痕跡を残す。
やがて乾いて途切れた場所に、小さな貝殻がひとつ、小さな花が一輪、静かに置かれていた。
しかし、男の子の姿は、いつまでも見つかることは無かった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
語り部は、伝える。
磐座に・・・『巫女の大岩』に・・・そこに、何かが居ることを。
黒い海の底で、白い波と共に、誰かがじぃっと見つめ続けていることを・・・