6 知らない彼
学園で授業と授業の合間にある休み時間、クリストフェルの席には令嬢がよく訪れる。
「……でしたら、レイカルト様は幼い頃から領地にいらしたのですね、王都にいらっしゃったばかりでしたら私めがご案内して差し上げますわ」
「ありがとう、せっかくの申し出だが当家には街歩きが好きな侍従がいてね。気になる場所はもう彼に案内してもらったんだ」
「せっかく同じクラスになったのですから、クリストフェル様とお呼びしても?」
「学園の基本理念は素晴らしいと思うが、学友であっても距離感を大切にしたいんだ。私の事は家名で呼んで欲しい」
名簿順に席が決められているので、私とクリストフェルの席はとても近い。正確に言うと彼とは隣の席だった。なのでお互いに着席しているとそれぞれの学友との会話が聞こえてきてしまう。彼は今、同じクラスの男爵令嬢に話し掛けられていた。
「ああ、そうだ次の授業で使う地図を教材室から持ってこないといけなかったな。失礼するね」
そう言って自分の席から立ち上がったクリストフェルは一緒に行こうとする男爵令嬢を置いて教室を出て行ってしまった。
「あー、もう。いつも冷たいのだからっ」
そうぼやきながら男爵令嬢は自分の席へと戻っていく。
侯爵令息で嫡男、更に婚約者がいないので彼を狙っている令嬢は多い。さすがに高位貴族の令嬢は婚約者のいる令嬢ばかりなので、高位貴族で彼に積極的に話しかけようとするような令嬢はいなかった。
しかし、低位貴族の令嬢たちは学園入学時ではまだ婚約者のいない者が多い。これまで縁が無かったという場合や、学園に入学してから相手を探したいと思ったりと理由も様々で、私からしたら彼女たちの自由なところが少し羨ましかった。
高位貴族と低位貴族では身分差はあるが、もしかしたらのチャンスを狙っているのか、クリストフェルは低位貴族の令嬢たちに話し掛けられることが多い。隣に座っている私は、何度も彼女たちを適度にあしらっている光景をこのひと月で何回も見てきた。
レイカルト家といえば当主夫婦の不仲は有名で、夫人は王都、侯爵は領地で別居生活を長く続けている。政略での結婚だったが相性が悪かったらしく、嫡男であるクリストフェルが生まれてからは、夫婦での参加が義務付けられている夜会以外はお互いのパートナーと参加をしているというのは貴族ならば誰もが知っていた。
彼は学園に入学するまでずっと父親と共に領地にいた事になっているが、ルークはレイカルト家の領地からも離れた土地であるあの街の屋敷には小さな頃からずっと暮らしていると話していた。
両親の事をよく知らないと言っていたので、会いにくる回数も少なかったのかもしれない。高位貴族として両親のどちらも子供と暮らしていないと言うのは体裁が悪いから、表向きは領地で育ったという事にしているのだろう。
「ロッシュ嬢、悪いがこの地図を貼るのを手伝ってくれないか?」
声を掛けられて見上げたらクリストフェルが丸められた地図を持って立っていた。
彼の琥珀色の瞳と視線がぶつかる。最後に嘘つきと叫んでいた彼の声をどうしても思い出してしまい、私は彼の視線を避けるように自分の席から立ち上がって彼を手伝う。
「承知致しました」
授業の準備をするのはクラス委員の仕事で、本来なら私も教材室へ行かないといけない。
彼に対して必要以上に素っ気ない対応をしている事は分かっているのだけれど、彼との距離をどう取っていいのかが分からない。
幼かったとはいえ、あんな事をしてしまったのだから、他のクラスメイトと同じように柔らかい穏やかな態度で接するのは今さら過ぎる。
けれども私の本心は彼の事を嫌っていない。
好きという恋愛の感情はもうなくなっていても、彼に対して懐かしいという幼馴染のような思いはあるのだ。
彼に自分から話しかける事を何度も考えたけれども、一度も出来てはいない。
家同士も私たち同士もわだかまりのあるような関係でこちらから話しかけても、先ほどの男爵令嬢以上に素っ気なく返されそうな気がするのだ。そうなったら彼との楽しかった思い出も壊れてしまいそうで、私はそれが怖くて彼に話し掛けられない。
彼にした事を思うとずるい考えだというのは分かっているし、彼の中では私との思い出なんて嫌なものとして記憶されているのかもしれないけれど、私は自分の中の思い出だけはそっとしておきたかった。
「ロッシュ嬢はそちらを押さえておいてくれ」
何の感情も乗せない事務的な口調で彼が私に指示をして、私は無言でそれに従う。
(ルーク、喋り方も性格も変わっちゃったなあ)
教壇にほど近い壁面に手際良く大きな地図を貼っていくクリストフェルを見て私はぼんやりとそう思った。
私の知っている彼は無邪気で元気が良くて、少し乱暴なところもあったけれど優しい所もあった。こんなに落ち着いた物腰の彼は私の知っている彼とは違う。
面差しの似た別の誰かと言われた方が信じられそうなところだが、彼は私があげたリボンを持っている。あのリボンの端にはI・Rと私のイニシャルが刺繍してあり、クリストフェルがチラリと見せたリボンの端にも同じような刺繍がしてあったのだ。
そしてあの時少し意地が悪そうに笑った彼は、間違いなく私の知っている彼だった。
「ロッシュ嬢、先ほど職員室へ行った時に生徒会からのアンケート用紙を渡された。学校行事の件なのだが、クラス委員から説明をしないといけないので配布前に先に目を通してもらえるだろうか?」
「はい」
そう言って彼が渡してきたのは、新入生歓迎会についての事前アンケートだった。