10 新入生歓迎会
新入生歓迎会の当日、私はひとりで入場をして、今もひとりきりでいる。隣にジョエル様はいない。
新入生歓迎会はエスコートが無くても良しとされているが、学園内に婚約者のいる生徒のほとんどは婚約者にエスコートをしてもらっている。
この講堂にいるたくさんの学園生たちの中で婚約者がいるのにエスコートをされない生徒は私だけではないだろうか。
ダンスの授業はそれぞれのクラスだけで行われていたせいか、1年生はどのクラスもクラス毎に生徒たちが集まってグループを作っていた。
こういった時でもジョエル様は周りの雰囲気に流されずに必ずといっていいほど私の側にいたのに、今の彼は自分のクラスメイトたちがいるグループにいた。
Aクラスのクラスメイトたちは私の婚約者がジョエル様という事は知っているので、どうして私がひとりでいるのか、奇妙に思いつつも誰も聞けないでいる空気がバシバシと伝わってくる。
私たちは仲の良い婚約者同士だったはずだった。
お茶会にだって二人でたくさん参加をして、いつも一緒にいた。
私だってどうしてこうなったのか分からない。
当日の今日になって突然、ジョエル様からエスコートが出来ないと手紙がきたのだ。理由については書かれていなかったが、体調を崩して新入生歓迎会に参加出来ないのか、婚約者をエスコート出来ない自分のクラスメイトたちに合わせてひとりで参加するのを突然思い立ったかのどちらかだろうと思っていたのに、何とジョエル様は先日会ったミオット嬢を伴って入場したのだ。
そういえば衣装の色を合わせたいと手紙を送っても返事が返ってこなかった。ジョエル様が私からの手紙の返事を返して下さらない事はよくあったので、とりあえずジョエル様の瞳の色であるグリーンのドレスを着て参加をしたのだが、金髪に茶色の瞳をしたミオット嬢は自分の色でもないのにグリーンのドレスを着てジョエル様の隣に立っていたのだった。
開会を告げる生徒会長の言葉も何も頭に入ってこない。
ダンスが始まろうとしているのに、ジョエル様はこちらへ来てはくれず、彼はファーストダンスで何とミオット嬢と踊っていたのだった。
夜会デビューをまだしていない私達にとっての公の場での初めてのダンスだったのに、ジョエル様はダンスパートナーにもミオット嬢を選んだ。
私は何か彼の気に障るような事をしてしまったのだろうか?気に入らない事があったとしても、婚約者からファーストダンスに誘われない令嬢の気持ちを彼は考えた事はあるのだろうか?もう何も考えられない。
「大丈夫か?」
壁の花となりながら呆然とファーストダンスを眺めていた私に声を掛けてきたのはクリストフェルだった。
「大丈夫です、よろしかったら次の曲で踊って頂けますか?」
Aクラスではダンスの練習の為に、ファーストダンスが終わったらクラスメイト同士でダンスを踊る事になっていた。副委員長の私が踊らないままではまずい。
「ああ、構わない。2曲目が始まったら行くぞ」
「はい」
私がそう返事をしたところで1曲目の曲が終わったので、私はクリストフェルのリードでホールへと出た。
ダンスの授業での彼はダイナミックに力強く踊るタイプだったのだが、今日の彼は大きな動きは入れずに柔かく丁寧に踊ってくれている。女性側が負担のかかるパートでは、たくましい腕でしっかりと支えてくれたので、合わせるのがラクだった。きっと気持ちが沈んでいつものように踊れない私に気を遣ってくれたのだろう。
その後も何人かのクラスメイトと踊ったが、結局ジョエル様は私のところには1度も来てはくれなかった。
時間が経つごとに婚約者がきてくれない状況に私はプレッシャーを感じていた。
婚約者に蔑ろにされている令嬢、男爵令嬢に婚約者を取られた伯爵令嬢、きっと周りはそう見ている。
こんな時だからこそ笑顔でいないといけない。しかし体はどんどんついていけなくなる。
立っているだけなのに嫌な汗が流れ始めたのを感じる。
ストレスで軽い眩暈を感じる。学園の行事であっても、練習と謳っていてもこれは社交だ。弱い自分は見せられない。
そう思っていたのに、気持ちに反してどんどん私のコンディションは悪くなっていき、ついには練習でもしなかったダンスパートナーの足を踏むという行為を私は連発してしまったのだった。私に足を踏まれた令息たちが気の毒そうに私を見るのが更に私を居たたまれない気持ちにさせた。
(早く、帰りたい)
ジョエル様の事なんてどうでもいいから早く帰りたい。私は本心からそう思っていたのだが、新入生歓迎会は授業の一環なので何かしらの正当な理由がなければ帰れない。
無理をして何曲も踊ったせいで私はもう限界だった。
「おい、顔色が悪いぞ」
皆が腫れものをさわるように少し遠巻きに見守って中で、私に近づいて声を掛けてくれたのは今度もクリストフェルだった。
「……ルーク、もう嫌。家に帰りたい」
私は小さな声を絞り出すようにして彼に伝えた。
「先生に伝えてくる、少しだけ待てるか?」
私がこくりと頷いたのを確認すると、彼は私に自分のハンカチを渡してくれた。
「辛くなったら遠慮なく使ってくれ」
そして教師を探すために足早にその場を去った。
幸いなことにAクラスのクラスメイト達は壁際で固まっていたので、私はクラスメイト達に混ざって壁に寄り掛かることができた。そしてクリストフェルから手渡されたハンカチを口元に当てながら、彼が戻るまでの時間を何とかやり過ごそうとしていた。
過去に私は彼を裏切ったのに、今は彼の優しさに支えられている。そう思うと申し訳ない気持ちになって涙が出そうになったが、この場を乗り切るためにほんの少しの時間だけは過去の事を考えないようにしていた。
新入生歓迎会は終盤を迎えようとしていた。私はもう充分にクラス委員としての役目を果たし、伯爵令嬢としてもみっともない姿を見せずに済んだ。後はもう少しで来てくれるだろうクリストフェルを待つだけだった。
それなのに、あの二人がこちらへ向かってくるのが見えた。
ここまできたらもう新入生歓迎会が終わるまで放っておいてくれたらいいのに、彼らは私が休息する時間すら与えてくれなかった。
Bクラスの輪の中から抜け出して、わざわざ離れた場所にいた私の元へやってきたジョエル様とミオット嬢は私に何の用があるのだろう?
「イエンナ、キミに話したい事があるのだけれど」
ジョエル様は私の顔色の悪さなんて気にせずに自分が話したい事を話そうとする。そう、彼はいつもそうだ。そんな彼が弟のようでかわいいと思った時もあったけれど、今は違う。彼はまず私に謝罪をしないといけない。
「……どうして、か、彼女と、いるのですか?」
私は声を少し掠れさせながらもやっとの思いでそれだけを言った。
「ミオット嬢が婚約者もいなくて誰もエスコートをしてくれなくて可愛そうだからエスコートを引き受けたんだ。イエンナにはこれから何度もエスコートをしてあげるのだから1回くらい譲ってくれたっていいだろう。いや、今はキミの話よりも僕の話だ。最近のキミはいつも僕を蔑ろにしている。こんな状態が続いているのなら僕はキミとの婚約の解消も考えたいと思っている」
私の周りにいるAクラスのクラスメイト達がざわついている。ジョエル様の声は大きいからはっきりと聞こえてしまったようだ。
「な、ないがしろ?」
「キミは僕の許可も無しにクラス委員を引き受けて、放課後は委員の仕事ばかりをしているじゃないか」
ジョエル様の言葉にクラスメイトたちが更にざわつく。彼が話す内容はおかしいが、私はもう何も言いたくない。
私の無言をどう受け取ったのか、香水女が口を挟んできた。
「そうですよ、ロッシュ様はジョエル様の事をもっと大切にしないとダメです。だからその罰としてエスコートをしてもらえなかったのですわ」
「えっ、そうなの?」
驚いた表情でジョエル様が香水女の顔を見る。この二人、打ち合わせも何もせずにここに来たのか。
さすがのジョエル様も周りの空気にやっと気付いたらしく、きょろきょとと周りを見回し始めた。
「そうだ、ダンスを踊ろうイエンナ!」
取り繕うようにジョエル様が私の元へ近づこうとする。
ダメ、今は来て欲しくない。
拒絶の意味を込めて私は下を向いて目をギュッと瞑った。
きっとジョエル様は私の腕を掴む、そう思ったのにジョエル様が私の腕を掴むような事はなく、代わりにクリストフェルの声が聞こえてきた。
「お前たち、最低だな」
いつもよりも低く抑えた声だった。下を向いていた顔を上げたらクリストフェルが表情を浮かべずにジョエル様の肩を掴んでいた。
「離せっ、レイカルト!」
クリストフェルはジョエル様の言葉には答えずに私の前まで来る。
「先生から早退の許可をもらってきた。まずは医務室へ行くぞ、歩けるか?」
そう言ってエスコートをするように手を差し伸べてくれたので、私は気力を振り絞ってその手に縋らせてもらった。
「お前っ、イエンヌは僕の婚約者だぞ!」
「今婚約解消するって言ってただろう。クラスの皆が聞いてたぜ」
そう言ってクリストフェルはジョエル様を馬鹿にするようにニヤリと笑う。
口調と表情がルークのようだと懐かしく思いながらジョエル様の方を見たら、ジョエル様は顔を真っ赤にして怒っている様子だった。幼い頃から元気な令息たちの輪の中に入ろうとしなかったから、彼はこういった事に慣れていないのだろう。
さっきまで得意そうにしていた香水女を見たらオロオロとしていた。彼女は感情的になっているジョエル様を見たのは初めてだろうし、まさか侯爵令息が助けにきてくれるなんて思わなかったようだ。
「文句があるなら決闘でも何でも受けてやるぜ。どうせ俺には勝てないだろう」
細身で身長も高くないジョエル様では体格でも成績でも爵位でも彼に敵わない。きっと剣術も同じだろう。
事実を突き付けられてプライドを傷つけられたジョエル様は、まるで小さな子供のように、顔を真っ赤にしてプルプルと震え、目にはうっすらと涙を浮かべていた。
昨日まではまだ少しは残っていたジョエル様への親愛とも呼べた愛情が、私の中で一気に目減りしていくのを感じながら、彼がこうなのは婚約者として私が甘やかし過ぎたのだろうかと考えていた。
そしてクリストフェルも貴族令息としての仮面がすっかり剥がれおちている。これでは子供同士のケンカだ。こちらは何とかしないといけない。
「……行きましょう、レイカルト令息」
私が初めて彼の家名を呼んでみたら、彼はハッとした表情を浮かべ冷静さを取り戻してくれた。
「ああ、……すまない、ロッシュ嬢。それでは失礼する」
私はクリストフェルに支えられながら講堂を後にした。