1 避暑地で
8歳の夏、私イエンナ・ロッシュは家族と一緒に避暑地として有名な王領の街へ来ていた。
自然が豊かで王都よりも空気の良いその街は、湖や森がある以外にも貴族が好むような綺麗で高級なお店が多く、同じ田舎でもロッシュ家の領地にあるどの街よりもずっと華やかで、貴族が飽きずにひと夏が過ごせるような街だった。
我が家は貴族の中でも中流といわれる伯爵家で、王領に別荘を持ってはいなかったが、病気がちな弟のアーロンの為にひと夏の予定で屋敷を借りて、医者も多いこの街へ家族で訪れていた。
この街が気に入ったら借りた屋敷をこのまま買い取って毎年来ようと両親は話していたのだが、屋敷に来て1日目に立地か何かが気に入らなかったらしく、仲介してくれた者に我が家を軽んじているのか!とお父さまが詰め寄っていた。
結局手頃な屋敷が無い事を理由に今年はこの屋敷で過ごし、来年の夏までには別の屋敷を探してもらう事となり、しぶしぶ了承した両親と仲介者との話はついたようだった。
貴族街の真ん中にあるこの屋敷は敷地も広いし部屋数も充分にあった。お店が並ぶ大通りへも近く、遠くには湖も見える素敵な場所なのに、どこがいけなかったのだろうと私は思ったのだが、両親は私にこの屋敷が気に入らなかった理由を詳しく話してはくれなかった。
この街には王都には無い宝石店やドレスショップ、王都では公演されていない観劇やオペラがあった。屋敷はともかく、街を気に入った両親は夫婦で出掛ける事に毎日忙しく過ごしていた。
そして屋敷には私と弟が残されたのだが、幼い弟は体が弱く嫡男である事から使用人たちにとっては目が離せない存在だった。
夏の間だけだからと使用人はそれほど多くは連れこなかった。少ない使用人たちは両親と弟に人数を割いてしまったので、私にまで専属の使用人をつける余裕がなく、弟の世話をしている侍女のひとりが兼務というかたちで、時々私の部屋に様子を見にやってくるだけだった。
自分のお気に入りの本もおもちゃも王都の自分の部屋に置いてきてしまった。ほかは侍女が持ってきた勉強道具ぐらいで、遊び歩いている両親を見ると自分だけ勉強をする気にもなれず、長い休暇を楽しんでいる両親とは違い、私は時間を持て余していた。
そんな私が唯一楽しめたのは広い庭を散歩という名の探索をする事だった。
こっそり外に出ていても時間通りには自分の部屋に帰ってくる私に侍女が小言を言うような事は無く、私は庭で自由に過ごす事ができた。
この屋敷が貸し家だからか、目につきやすい南側は手入れが行き届いているが、屋敷の裏庭は放っておかれているようで雑草が生えっぱなしになっていたり、定期的な剪定をしていない木がたくさんあった。
冒険者気分で裏庭を散策していた私は、王都では見かけないリスを木の上に見かけて感動したり、目の前を素早く横切るトカゲに腰を抜かしたりと、王都の屋敷では味わえない刺激を私なりに楽しんでいた。
屋敷に滞在して10日ほどすると最初は広いと思っていた庭も南側はだいたい探索を終えてしまった。しかし庭師の手がおざなり程度にしか入っていない裏庭は気に入っていたので、私は裏庭で過ごす事が多かった。
そんな時、庭の奥に植えられている大きな木の根元に白い子猫がちょこんと座っているのを見つけた私は、初めて見るかわいい子猫に掛け寄ろうとしたのだが、あと少しというところで子猫は走り去ってしまった。
「あっ、猫ちゃん…」
私の腰の辺りまで伸びた雑草をかき分けながら猫が向かった方へ向かうと、隣の屋敷との境目にある塀まで行き着いてしまった。
子猫はもうどこにもいなかった。子猫を探す事を諦めた私は自分の背丈よりもずっと高い塀伝いに北側へ歩く。裏庭も探索したつもりだったが、庭の端までは行った事が無かったので、私は何となく庭の端を目指して雑草をかき分けながら塀沿いを歩いた。
古い屋敷だからか塀は蔦で覆われていて、奥に行けばいくほど塀はより蔦に覆われて緑色の壁といってもいいほどだった。そして庭の北側の端が見えた辺りで、塀の一部が壊れているところを私は見つけてしまった。
緑の蔦で覆われたそれは一見すると壊れているようには見えないが、地面の方へ眼をやると大きな穴が開いており、蔦の間から向こう側が透けて見えていたのだった。
塀の向こう側は隣家の敷地で、人が住んでいるのかどうかも分からなかったが、この向こう側には私の知らない場所があると思うだけでワクワクしてきたのだった。
好奇心の強かった私は一生懸命に蔦を取り払おうとするのだが、子供の力ではなかなか蔦を切り離す事が出来ず、蔦の隙間に手を入れて寄せてみたら子猫一匹なら通れそうな大きさになったので、さらに作業を進めて少しずつ穴を大きくしていった。
向こう側へ抜ける穴を作る事に夢中になり、時間をかけて作業をしていたら子供一人ならば何とか通れそうな大きさにまで穴を広げる事に成功した。
作業を終えた頃にはもう時間もかなり経ってしまっていた。疲れてしまった私は塀の向こう側を探検するのは翌日にする事にした。
屋敷に戻り、泥だらけの私を見た侍女のハンナは渋い表情を浮かべたが「旦那様や奥様には内緒にして下さいよ」と言いながら綺麗な服に着替えさせてくれた。