第七話 高田桐栄 Departure
三月を迎えたばかりのベルリンはまだ凍てつく寒さを湛えている。
空気分子すらをも凍らせる程に寒く凍てつくこの時期はとにかく容赦なく雪が降るせいかこれから先、暦通り暖かくなると言うのがにわかに信じられなかった。
「宮原さん、父さんだけど今日は遅くなるって!」
「そうか、あ、じゃぁ外でも行くか?」
研修先の診療所の院長は彼女の留学先の大学と今後の受け入れ枠について話すべく今日この寒い中、出かけて行った。
和国の入卒期間に合わせて行われているので研修修了まであと二か月もない。それでも彼女は手を抜くなどはせずこれから自分が自覚すべき責任に自らをなじませることも含めて診療所に来た人たちと院長のヘルプをやりながら積極的に接していった。
「やったー!」
院長の息子は歓喜の声を上げると床を走り回り全身で喜びを表現した。
そんな光景に笑みを浮かべながらも一昨日受け取った手紙の内容が相変わらず彼女の胸中に重くのしかかっていた。
友人の高田紀子が流産をした。
もうあと三か月で二人目が生まれると溢れんばかりの嬉しさを伴って書かれていたがその三週間後に来たのは涙で濡れた跡と取り乱した字でいっぱいの手紙だった。
(なんてことだ)
死神とは幸せまであと少しのところでその大鎌を振り下ろすのだろうか?それとも神様が綺麗な花を摘んだのだろうか?なんのために?そんなことを考えながら燥ぎまわる子供を見ていたら突如、玄関の呼び鈴が鳴らされた。
この寒い時間に取り乱したように何度も鳴らされる事に不自然さを覚えた。実際宮原が玄関に駆け付けるまでにも何回も呼び鈴が鳴らされた。
「今でま~す!」
そう言いながら玄関のドアを開けるとぼろ布みたいな服で全身を包んだ一人の女性が立っている。
「とりあえず中へ!外は寒いでしょう」と言いかけるもその女性は宮原に「この子をお願いします。」と言いながら手にしている何かを託した。
「あぁ、ちょっと!」
止めるべく声を掛けようとするも女性はすぐに走り去ってしまい、手を伸ばそうにも渡された赤子の泣き声によって一瞬だけ注意を逸らした瞬間に建物の影に消えてしまった。
呆気に囚われ立ち尽くすも腕の中から赤子の泣き声が広がると慌てて診療所に入り室内を温めるよう、院長の息子に頼んだ。
(まさか、何かのめぐりあわせか?)
友人の紀子が流産した話を思い出しながら身体が冷めないためにと渡された温かいタオルで赤子の身体を拭いていった。赤子から零れ落ちるはにかんだ笑顔が宮原の脳裏に焼き付いて離れなかった。
二か月後
春の陽気が染みわたるように広がりつつ物陰にはまだ残雪がまだ残る平野部を貫く線路にはパシシ型が牽く特別急行列車『つばめ』が眼前の駅に止まるべくブレーキを始動させた。
減速しながら本線からホームに分かれる分岐点をブレーキ音を響かせながら渡ると列車はいよいよ制動力を強くさせ駅のホームへとゆっくり入線していく。
内開きのドアを開けつつデッキでハンドレールを握りながらホームへの完全停止を確認すると背中の赤子が停車の衝撃で鳴り響いた連結器の音に驚ろきかけている赤子を更に脅さぬよう注意を払いつつ三等客車を降りた。
「みっちゃ~ん!」
「その名で呼ぶなぁ~」
宮原が間の抜けた声で改札の向こうにいる呼びかけ主の方へと歩を進めた。
呼び主の名は高田紀子、幼馴染でよく試験の点数を競い合った事は今やいい思い出だ、まさかそんな彼女が医大に落ちてしまい自分が受かった事含めて全く世の中よく分からない。普通なら予想外の出来事は不幸になるが彼女の場合はそうでは無かったようだ。
「うぇ~い!みっちゃんみっちゃんみっちゃんみっちゃ~ん!!!」
何とも挑発的な表情を浮かべながら右に左に右往左往する紀子の姿にやかましさを覚えると掌で顔を鷲掴みし制圧した。
「友人がご迷惑かけます。」
「アワワ、紀子さんが!」
その時、マテニ型が牽引する北行きの貨物列車が駅を通過した。汽笛と重量級の貨車が轟音を上げながら通過する音に赤子が驚いたのだろう、突然泣き始めると場所を変える事の重要性を思い出し宮原を車へと招いた。
「積もる話は家でしましょう。」
田園の中を車が行くと水質の良さもあるのだろう、車の映る水面に自分たちの姿が鮮明と見えた。後部座席で眠っている紀子の姿を宮原が時折確認しながら車はそうした水田の中をほどほどの速さで動いていく。
「最近はどうですか?」
「今の妻はカラ元気です。かなり無理しています。ああ見えてとても繊細ですから。」
「やはり…そういえばこの子の名前は?」
「桐栄です。流れた子の名前ではありません。そこはしっかりとケジメを付けねばと思いまして。大事な事ですが妻には辛い思いをさせた。」
やむを得ずとは言え過酷な現実と向き合わせてしまった事への罪悪感が彼の瞳に燻っておりその思いは瞳を潤わせることで表現した
宮原は無口になりながら外の田んぼに目をやりそこを家に着くまでの意識の退避場所とした。
高田邸に着くと信太郎が作ったのだろう、玄関の段にお手製の木造スロープが掛けられており紀子の歩行の助けとなっていた。だが肝心かなめの紀子は久々の外出もあってか足を上げて動く事にそれらしい重くするしさは感じない。
流産の件もあったから本当に心配だったのがよく分かった。
玄関を跨ぎ部屋に入ると赤子は周囲の気配も嘘みたいに静かに眠っている。
「変わりませんね、紀子は」
「三つ子の魂百までですよ。そこは母親になっても変わらんものです」
そう言ってる信太郎の顔はどこか照れくさく素直になれない少年のようであった。これが学生同士だったら「素直じゃねぇな~」と肘で突いてからかったりしていただろう。
大人とは不器用なものだ。
信太郎に変わり宮原が玄関を開けると「ただいま~」の声が響き渡る。そのまま玄関に着くと目を覚ました紀子の相手を宮原に頼み彼は台所に向かった。
「旦那さんどうだ?」
「良い人よ。正直私なんか釣り合うのか心配なぐらい」
医大の試験に落ちて行こう、彼女の笑顔にはどこか陰りが見えていた。無理もない、学校に受かる最有力候補だった彼女が失敗した時はみんな茫然となったものだ。期待に応えられない罪悪感が彼女の胸中にいつも重石となっているのだろう。
「そう言えば娘さんいるんだっけ?」
「え、えぇ!さっき帰ってきた感じね。靴がそのまま。」
「まいっちゃうわ本当」と言う彼女の表情は言葉に反して影の無い笑みが零れ落ちた。
「あ、ちょっと待ってて。あなた~!」
「あ、えっと」
宮原の静止の声も虚しく紀子は跳ねるように向かうと台所でスイカを斬っている信太郎と楽しく会話をしていた。
(ま、大丈夫かな)
ふとそう思い笑みがこぼれると部屋の廊下に通ずる襖の裾から一人の少女の姿が見えたがすぐに影に消えた。
(あ、娘さんか)
聞いた話によればお転婆な年ごろらしい、自分も昔は傍から見たらそうなのかな?とふと思っていると突然『鉄道省機関車図面集』と書かれた分厚い内部資料冊子で頭を叩かれた。
「見つけた!見つけたぞ~、えっと…見付けた!」
「名前!」
しかし宮原の突っ込みも虚しくおてんば娘は奇襲攻撃を仕掛けて来た。
「鉄道軍軌道要塞しゅっぱつ~!目標、沿岸の戦艦!30センチ砲を食らえ!」
「うわ!やられた!はんげきだ!射撃情報入力!距離22000絶対方位北北…せ…い」
二人が戦う様子をスイカ片手に微笑みながら見つめる紀子と信太郎の姿があった。しかも紀子の手にはご丁寧にも新しいフィルムカメラが握られている。恐らく出番待ちだったのだろう。
「別に撮ってないわよ~」
「ささ紀子さんスイカ運ぼスイカスイカ」
「待ていコラ」
「なにこれ新種の生き物~!?」
声の方向を見るとそこには赤ん坊をくるむ様に眠らせる小さな藁製の寝台があった。葵の視線はその中の赤子に釘付けだ。
「ゲ、いつの間に!?」
「だって見て!なんかぶら下がってる!引っ張ってみよ!」
「やめなさい!」
信太郎が竹を割ったような切れのある声を放ちながら即座に葵の元に駆け寄り、今まさに始まろうとする悲劇を自身の身体を犠牲にしてでも止めようとする。
今宵この時、信太郎は赤子の未来を守るべく、そして娘が罪悪感に苛まされる事がないために、この愚行を止めねばならないと決意した。その為なら彼はどんな犠牲も!
「こら葵。いけません」
「じゃいいや」
瞬間、葵の近くを畳から埃を上げながら庭の軒下に転覆していく信太郎が見えた。豪快に足を上にしながら逆さ脚のポーズで沈黙している彼の姿に家は静寂に包まれる。
「治療する。かすり傷でもあなどれん。」
「ご、ごめんね。」
「ごめんなさ~い!」
そんなやり取りをしていると時間はあっという間に過ぎて行く。
スイカを食べたりベルリンで経験した事の会話など実に様々だ。面白いのは信太郎が有する蒸気機関車に対する知識に意外にも葵ちゃん興味津々だったことだ。
自分の携わる分野に子供が興味を抱いてくれるのは誰であれ嬉しい事なのだろう。
「もう、こんな時間か。」
「今日泊ってったら?」
「ぼく、布団の準備してくるよ」
「あ、いえ、大丈夫です。帰りの急行を予約したので。ちょっとまだ大学関係で書類の提出が必要で」
「分かったわ。ごめんね貴方、お願いできる?」
「お安い御用さ」
帰りの車から見える水田は月明かりを反射し淡いはちみつ色を湛えていた。
「今日来られた新しいお子さん、いつか、気付くと思います」
「いつ言うのが正解ですか?不安定な思春期?アイデンティティが形成された成人後?」
「それは今後の彼を見て決めましょう。今の段階ではまだ分かりません」
「時が止まればいいのに・・・」
「そうすればこの幸せな日々は永遠に続く」と続けて言いたげな声を呟いた。そうだ、時を止められたらどれほど良いのだろう。
駅の灯りと急行の一本前の普通列車が出発する音が響いていた。