第一話 扉の向こう側
しなやかで細い脚、まるで翼を着けたかのような軽々とした身体運び。誰しもがその者の踊りに魅了され呼吸すら忘れた。しかしある時、足が挫かれた、翼が捥がれた、そして汚れた大地に落とされた。その者は何を依り代に生きるのだろう?
大陸歴1941年7月20日
暑い夏が和国を覆っていた。蝉の鳴き声が耳に騒音となって入り、道行く者達の不快感を煽っていく。
東栄電気軌道の200系車両がパンタグラフからスパークを生み出しつつフランジと線路を擦らせ甲高い金属音を響かせながら通りのカーブを曲がり電停に停まった。
冬なら既にオレンジ色の空模様になっている時分だが日の長い夏だ、まだ空は青々とした色を湛えておりそれがどこまでいつまでも終わりなく続くように感じられる。
電停からは白い軍服を纏った一人の女性が降りると横断歩道の先にあるアパートの方へと向かって行くが向かった先の玄関には隣近所の住民からだろうか?『汚辱魔人』とか『国恥王』と言った言葉が書かれた紙が幾つも貼ってある。
わざわざ自分たち以外に誰もいないこのアパートに紙を貼られる事にもはや怒りの感情すら湧かぬ自分自身に失望しながらもそれ等を丸めて処分することにした。暇人が多いのだろうか或いはただの憂さ晴らしか。
そうして玄関を開けようとすると扉越しに姉がいることに気付いた弟の桐栄が「おかえりなさい!」と開けながら笑顔で出迎えた。
サイドテールに髪飾りをしたホットパンツに半袖の服装は彼自身の宿す妖精の如き身軽さを如実に表現している。
くびれのあるお腹とスレンダーな身体つきがその魅力を一層搔き立てた。
「ただいま、桐栄」といいながら扉が閉めた玄関で桐栄を抱くと彼は葵の腕の中で安堵の表情を浮かべた。
ともすればちょっと生意気な年頃の着飾った少女にも見える彼はその印象に反してとても素直だ。
「今日は大丈夫だったか?」
「うん、平気。ねえさんがいるから。」
「そうか」
か細い返事が部屋に響き二人だけに許された甘い瞬間が心を溶かす。
そんな心地よい時間に温かさとやるせなさを感じる葵を前に桐栄は机に並べてある食事の献立を告げた。
「今日はね、腕を振るってカツ煮にしました~!」
食卓には桐栄が作った夕飯が並べられておりそこからは湯気が立ち込めている。
少し早い夕飯だが試運転による機械トラブルも起きなかったからせっかく早く帰れたのだ、もしかしたらこうしたひと時の為に順調に事が運んでいたのが今日と言う日なのかもしれない。
「ありがとう。じゃっさっそく食べよう」
そう返事をすると早速机に座り「「いただきます」」と少し早い夕飯とした。
「そういえば換気してる?ちょっと開けるよ。」
窓に手を掛けながら桐栄に尋ねるも彼の顔は一瞬だけ引き攣った、「しまった」と思う
その時、風切り音と共に何かが落下する音が聞こえて来る。
「伏せろ!」
演習でよく聞いた音に反応した葵は桐栄にとびかかり彼を庇った瞬間、通りに一斉に火柱と衝撃が轟きガラス窓が吹っ飛び床一面に散乱した。
通りに悲鳴とむせび声が氾濫すると頭に降りかかったガラス片を振り落としながら自分の下で蹲る桐栄の無事を確認した。
絞る声で無事の返事が来たがここに落とされたという事はまたしても落ちる可能性がある、桐栄の手を引っ張ると外に連れ出した。
「え、ちょっといやだ外は!」
「良いから来い!ここは危険だ!」
引っ張られて階段を下り大通りにでた途端、アパートが吹き飛んだ。
衝撃で二人が倒れるも葵が桐栄を引っ張る様に歩かせつつ既に火の手が上がっている街の方へと向かい始める。
避難民が殺到し二人とぶつかりながら火の手がない方向に殺到、見かねた葵が「そっちに行くな!」と叫ぶが誰も彼も彼女の言葉には耳を貸さない。
恐らく交差点と接する公園へと向かうのだろう、しかし次の瞬間、落とされた爆弾が火花のシャワーを生み出しながら爆発、大勢の民間人を破片と熱と衝撃で殺傷し肉片や切り裂かれた手足を撒き散らして行く。
「大丈夫だ。怖くない怖くない。」
直前に二人で地面に蹲ると震える桐栄の頭をポンポンと撫でながらなだめると機を見て再び走り始めた。
(手はず通りならもう整ってるはず!)
火柱を上げる大通りを行くと爆風で窓ガラスが割れて停車している路面電車に向かって火災を起こした車両が線路を伝って衝突、破壊音を上げながら火災車両が崩壊し同じ場所で熱にあぶられた架線がスパークしながらあっさりと千切れる。
ガラス窓や車両機材が熱で歪み割れる音が木霊し軽い車両があっさりとその車体を崩していく。
「桐栄!もうすぐだ!」
葵と二人で駆け付けた先は煉瓦とコンクリート屋根で構成された巨大な車庫だった。
守衛室は爆撃で吹き飛ばされ誰もいない、好機と見た彼女はそのまま桐栄を連れて行くと扉に手をかけ整備室の中に入った。
「とりあえず車内から行く!こっちだ!」
手を引っ張られた彼の眼前には巨大な車両が連なっているのが分かる。
そのまま機関車に向かうと一人の女性が「高田隊長!」と声を掛けた。
「準備整ってます!え、ちょっと民間人!?」
「あとで説明する!準備急げ!」
葵の掛け声音と共に各々が総合指揮室へと向かうとその中で待っていた大原陽菜が敬礼を捧げレーダーを起動させたことを告げた。
「既に電探の準備は終えてます!また楓市が砲撃を受けているとの情報です!」
「情報助かる!発進準備に入る!」
「距離三万に移動物体を確認!こちらに向かってます!」
「なに!?」
陽菜の声で見に行くとそこには複数の移動点が表示されている。
高度と共に表示されている八つあるその光点は機体の性能を伺うのには充分すぎる情報であった。
「この高度と速度…間違いない!四発機だ!ロンドン大空襲の奴だぞ!」
(機関車を起動してすべての車両が出る迄に時間が足りない…どうすれば!)
「隊長!もうここから撃ちましょう!」
「雛森、お前何言って!」
「投下コースを定めたら変更は出来ないです!その隙を狙うしかありません!それに編成全体が出るまで敵は待ってくれません!」
「よし!それでいこう!主砲、仰角調整!目標敵爆撃機!高度三〇〇〇距離六〇〇〇で落とす!時限信管を使え!」
発射の際、整備場のコンクリートを支える鉄筋に電波が反射し爆発する危険性がある為だ。
ましてや近接信管では突破の際に耐えられるか確信が持てない。
「了解!主砲装填開始!」
鉄道車両などに使われる電動機を複数配置した自動装填装置が電源車からの給電により稼働し始めた。
第一砲身、第二砲身に装備されている自動装填機が電動機とランマーを使い砲弾と装薬を別々に装填し始めると八秒ほどの時間でそれを終え電探連動と各車両に搭載されている偏差検出装置を下に計算が始まる。
そうしている間にも『ガルダ』はその距離を詰めつつあり攻撃に備え空気圧シリンダー式開閉装置によって爆弾倉を開けて行く。
大気中の水分が機体で結露したのか膜のように薄い氷が開放と共に割れながら地上へと落ちて行きそこから黒光りする徹甲爆弾が姿を現した。
重量五トンを誇るそれは機体乗務員からの誘導により狙い通り的確に落とされるべく照準器を通じて機体が誘導されている。
戦略線路を眼下に直線飛行で整備場へと落とせるコースだ。
その間にも機関車総合指揮室直下にある電算室では真空管を下に高速演算が行われ最適格が算出される。
そこから発信された電気信号が各車両に搭載されている偏差検出装置を通じて最適角を導き出し機関車の方向へと指向している主砲に仰角が掛かった。
一連の機械動作が節目節目で達成されたことを意味する緑のランプが次々と灯ると発射準備完了を告げる最後のランプが灯った。
「算出完了!」
「ってぇえ!」
次の瞬間、対空用の改三式砲弾が大気圧の三三〇〇倍の圧力で発射され駐退機が一・四三メートル後退し整備場のコンクリート屋根が次々と吹っ飛んで行く。
細切れにされ崩れ落ちた破片が車両に落下していく最中でも砲弾は航空機へと向かって行きその初速は秒速七八〇メートルを行き投爆態勢を整えた『ガルダ』を目指して計算通りの弾道を描いて行った。
時間にすれば僅かだが葵にとってその間は永遠にも等しい時間の如く感じ、誰も喋らぬ指揮室内は針の一本も落ちれば大音響として聞こえてしまうのではと思えるほどの静寂であった。
その静寂を雛森が突き破る。
「敵機撃墜を確認!」
「ボイラー圧力、発進規定値を突破!」
「機関車シリンダー内、圧力上昇!いつでも出れます!」
「進線!『王道』号、発進!」
砲声を思わせる重低音の汽笛が鼓膜を破らんばかりに轟き轟音が空気を振動させた。
灯火管制フードを被った単眼を連想させる前照灯が灯りシリンダーから蒸気を通じてピストン弁が動くとクロスヘッドが動きその主連棒を通じて回転運動へと変換、動輪が回り始めた。
進行するとそこには見たことも無い景色が目に入る。
(なにこれ…)
表面を銀色に鈍く輝かせる錯綜した線路、緑を灯す出発信号機、足元の線路で光り輝く入れ替え信号機、機械油によって可動部分を黒く汚している分岐点、そして光を鈍く反射しながら足元を照らし進むべき進路へと開かれた線路の大迷宮。
桐栄は見たことも無い光景に茫然とする、その後ろには幾十両も車両を連ねた巨大な戦闘車両が編成をくねらせながら機関車によって導かれている。
1941年7月20日、楓市に対して砲撃を行う敵を討つべく『王道』号が出撃した。