62話:馬と鹿のお遊戯2
天界の端で、アンドリエイラは防壁の上に乗ってしまった神鹿を見ていた。
飛び跳ねるように走る神鹿を、サリアンたちが大慌てで追う。
しかしあちこちで押し合いへし合い、その余波で追うサリアンたちも巻き込まれ動けなくもなっていた。
神鹿はひたすらに人間を避けて飛び跳ね、振るわれる無粋な武器は遠慮なく蹄で粉砕している。
「まぁ、何をしているのかしら。でもちょうど良さそうね」
「あ、あの、その人、は…………?」
勇者が恐々アンドリエイラに声をかけた。
宙に浮いていて身動きが取れず、強制送還の途中ということもわかっていない。
下手に動けば次元の裂け目に体が引き裂かれる危機的状況だ。
ただ勇者は自分の置かれた状況を知らないが、基本従順なため動かず話かけるという正解を引き当てる。
そして気にするのは赤い羽根の男神が氷漬けにされたこと。
「これ人ではないわ、神と呼ばれる者よ」
「か、神さま氷漬け!?」
「なぁに? 今さらあなたを失敗だと言って追い返そうとした薄情者に同情するの?」
「あ、それは、そうか」
嘲笑って聞けば、勇者は素直に納得する。
悩みもしないことが面白くない様子で、アンドリエイラは手を振った。
「まぁ、いいわ。せいぜい魔王でも倒して、その功績を他の神に訴えなさい。元の世界に返してもらうか、老後の安全を保障するかしてもらえるでしょう」
「え、そう言うのできるの?」
「教会がなんのためにあると思っているの?」
「え、さぁ? あんまり宗教って興味ないし」
神によって呼び出された勇者のあまりに不信心な言葉に、アンドリエイラは失笑する。
しかし先ほどよりも好意的な笑みを向けた。
「神に召喚されておいて言うじゃない。適当に記憶を消して放り出そうと思っていたけれど、これは覚えておきなさい」
言って、アンドリエイラは勇者に指を突きつける。
「一からこの世界を知りなさい。戦い方を学びなさい。知恵を蓄えなさい。そうすれば、いずれ拾う神もあるでしょう」
額に指を置かれて、勇者は戸惑う。
ただアンドリエイラが指を放しても、勇者は瞬きすらせず硬直していた。
アンドリエイラはこの神の空間で起きたことの記憶を消したのだ。
ウォーラスに戻って騒がれるのが嫌なだけの、身勝手な処置。
それでも助言を残して、今以上に墓穴を掘ることは防止した。
「ねぇ、これどうやって元の場所に戻すのかしら?」
黙って見ているだけだった黒猫と白鴉に、アンドリエイラは聞く。
「まだ元の場所と繋がってるから、送り返すだけならできるだろう」
「だがそこに馬の足でもあったら即ぺしゃんこだけどな、クカカカ」
「あらあら、怖いこと」
心にもない様子で相槌を打つアンドリエイラは、ウォーラスを見下ろす。
「そうなるとちゃんと見て戻さないと…………どこだったかしら?」
「「さぁ?」」
沈黙が広がった。
目を見交わしても、アンドリエイラはもちろん、黒猫も白鴉も答えがない。
戻すにしても、勇者がいた場所がわからない。
そもそもほぼ物のない防壁の外側。
さらには巨馬の蹄で踏み荒らされ、刻一刻と形を変えている。
仲間の聖女と王女も動き回っていて、目印さえない。
「さすがに適当に戻すのはちょっと…………」
「なんだ、気に入ったのか?」
黒猫のゲイルが聞けば、アンドリエイラは首を横に振る。
「いいえ、悪くはないと言うだけ。面白味もなさそうだわ」
「お前と趣味違いそうだからな、そこの女神は」
白鴉のラーズが、老いた女神にくちばしを向けた。
「そうね、もっと遊びがいのあるほうがいいわ」
「あれか」
「あれだな」
黒猫と白鴉が見るのはウォーラス。
防壁の上に来てしまった神鹿を追い払おうと、奮闘するサリアンの姿。
その上で何かと神鹿を庇う動きもしているので、大変さは二倍。
「あれは何をしてるの? さっさと外に落とせばいいのに。ふふ、慌てすぎだわ。間抜けな顔」
「いや、下手に誘導すると町のほうに行くと思ってる奴らが邪魔なんだ」
首を傾げるアンドリエイラに、ラーズは白い羽根を開いて指差すように教える。
ゲイルも黒い片耳を立てて、サリアンの動きを推測した。
「その上で攻撃が利かないさまを露呈させても、士気が下がるだけだからな」
攻撃が当たらないようにもするサリアンは、神鹿をただ庇っているわけではない。
それはウォーラスの人々の戦意維持のためであり、狭い防壁の上で混乱が起これば事故死する者が出る。
同じ場にいれば巻き込まれるというだけの、保身だった。
ただそうしてバタバタされるせいで神鹿も下手に動けず、降りられない。
「だが、ちょうどいいな。馬のほうがどうすべきか迷って足を止めたぞ」
「戻すなら今じゃないか? たぶん馬の足元は違うだろ」
「それもそうね」
ゲイルに言われて、ラーズが勧め、アンドリエイラは残っていた神の術を乗っ取り送り返すことにした。
「…………この術、使えそうだし覚えようかしら?」
「固定した奴を動かすだけだぞ。覚えても汎用性は低い」
「そうそう、同じ場所と同じ場所を結ぶだけの割に縛りがきついんだ」
ゲイルとラーズは、そのまま覚えても大して使えないという。
アンドリエイラは唇を尖らせて、視線を横に向けた。
「じゃあ、この神から知識を吸いだしてみましょうか」
そう言って、勇者をこの場に呼び出した赤い羽根の男神を見る。
しかし、アンドリエイラは目を瞠った。
「あら、ひびが入ってしまっているわ。これはもう駄目ね」
そう言って、アンドリエイラは氷を指先で弾く。
瞬間、入っていた罅が広がり、氷がずれた。
そのまま中で氷漬けにされていた男神の上半身が、泣き別れ。
さらにバランスを崩したために下半身の氷も倒れ、赤い羽根の男神は凍ったまま全身がバラバラに砕け散ってしまった。
「神なのだから、凍らされた程度で死を受け入れないと思ったけれど」
「クカカカ! 確かに、こいつらは若く軟弱が過ぎたんだろうな」
ラーズは白い羽根を広げて嘲笑う。
ゲイルは黒い尻尾を振って、同じようにアンドリエイラに負けた者のことを口にした。
「それで言えば、二百年もかかったとはいえ復活した魔王はなかなか根性がある」
氷漬けでも復活の目はあったのだ。
けれど赤い羽根の男神はアンドリエイラに殺されたことを認識し、受け入れた。
そのせいで本当に死んでしまったのだ。
神は上位存在のため、そう簡単には殺せない。
けれどこの神々は若かったため、死が存在する地上の感覚もまだ残っていた。
死を超越して天界に昇ったはずが、死ぬということを意識してしまったのだ。
「あの女神も駄目だな」
「こっちはまだギリいけそう」
ゲイルが赤い花を纏った女神に近づく。
猫の手で押されただけで倒れ、女神はもう起き上がらない。
それどころかぱりぱりと枯葉のように体が砕けて行く。
女神もまた死んでいた。
ラーズは黄色い肌だった男神へと舞い降りる。
頭にとまった途端、男神は倒れるが、手で体を支えようと動く程度には生きていた。
「それじゃあ」
近づいたアンドリエイラは、勇者と同じように、神の額に指を突きつける。
「有益な知識をできるだけ思い浮かべてちょうだい」
表面だけは笑うアンドリエイラに、ただ一人残った神は唇をわななかせる。
幼い見た目や、無害そうな少女の姿など意味もない、命令。
「そうしたら、苦しまずに死なせてあげる」
「ひぃ…………」
「あら、駄目よ。恐怖なんて余計なことは考えないで。まずは勇者を移動させた術式について。さぁ、見せて」
アンドリエイラは人を超越したアンデッドだが、上位存在である神よりもできることは少ない。
その上今いるのは天界に近い場所であり、地上の理よりも天上の理のほうが強い場所であるため、本来ならアンドリエイラが主導権を握ることは難しい。
ただ男神は拒否できないほど弱っており、従わないなら今以上の苦しみを与えるという圧に屈した。
ただ、存在の位階が違う者同士での差異は埋めがたい。
最後に残った男神も、知識を吸い取られる負担に耐えられず命を落としたのだった。
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