1話:亡霊令嬢森を出る1
暗く重なる梢、うっすらと霧がかったような木立。
人が通わないことを示すように繁茂する下草や苔が、より影を濃くする。
そんな深い森の中に、一軒の館があった。
かつては狩り小屋として貴族が作った壮麗な屋敷。
長く狩りが行われることなく忘れ去られたような佇まいだが、しかしその館の煙突からは、甘く香る煙が立ち上っていた。
「ふふん、タルトはいい焼き具合ね。新鮮な卵が手に入って良かったわ」
十代半ばかどうかの少女が、金色の真っ直ぐな髪を三角巾で包み、ドレスの上にエプロンを着て台所に立っている。
猫のような緑の目でしっかりと見据えながら、タルトにカスタードを盛りつけ始めた。
カスタードを丸いタルトの生地に注ぎ、温めたオーブンの鉄の扉を開いて入れる。
火掻き棒で火の具合を調整して、満足げに鉄の扉の閉めた。
「全く、酔狂だな。そんなことに手間かけて、洗い物も掃除もしなくていいことを増やす」
森の中、一人お菓子作りをする少女に、梁の上から声が降る。
そこには黒猫が尻尾を垂らして座り込んでいた。
見下ろす緑の目は少女とよく似ている。
喋る黒猫に驚くこともなく、少女は使ったボウルやヘラの片づけ始めた。
「やることがないんだもの、趣味よ。あなたも趣味を見つけたらどう、ゲイル?」
「それはこんな所に引きこもってるからだろう。もう二百年は経つぞ、引きこもり」
口の悪い猫のゲイルは、突然耳をそばだてる。
そんなゲイル目がけて、うるさいほどの羽根の音が室内に響いた。
次の瞬間、黒猫のゲイルは梁から飛び降り、少女の肩に着地。
そして威嚇音を上げて牙を剥くと、梁を見上げた。
「ラーズ! その羽根全部引き抜くぞ」
「クカカカ! 気の短い奴め。それより面白いものを見つけたぞ」
梁の上には白い鴉のラーズ。
こちらも当たり前のように喋るが誰も気にしない。
「人間だ! ここの結界を抜けて庭に人間が入り込んだぞ!」
「えぇ!? どれくらいぶり? 生きてる人間? 男? 女?」
少女も興味を示して声を弾ませた。
ラーズを見上げる目は赤く怪しく光る。
そして口元の笑みは、外見年齢に似合わない臈長けたものに変わった。
軽く床を蹴ると、少女の体は浮き上がり、梁の上にいるラーズに顔を寄せる。
「ちょうどタルトが焼けるまで時間があるわ。どうやっていじめようかしら? 驚かせようかしら? あ、その前に名前を考えましょう。恰好よく名乗って、ビビり散らかさせてやるんだから!」
「暇すぎるだろ、お前たち。森の深奥の結界を越えられたんだぞ」
無意味に意気を上げる少女に、ゲイルが肩の上から梁に戻って呆れる。
ラーズは気にせず上機嫌で応じた。
「それなら確かめてきたぞ。結界の一部が綻んでたな。前に点検したの二百年くらい前だから、放置しすぎたんだろ」
「ねぇ、二人とも。今の時代の名前ってどんな感じ? 流行りの名前とかある?」
少女も気にせず名前に関して悩み、空中で足を組み顎に指をかける。
生まれながらなお名前ではなく、今この場で名前を考えようとしていた。
「昔名乗ってたムーアは、確実に古いぞ」
「二百年前のハンリエーネも古いな」
「うーん、うーん、うーん…………よし、アンドリエイラ。アンドリエイラにするわ!」
少女は悩んで空中をくるくる回りつつ、手を使わずエプロンを脱ぎ三角巾を外す。
((それも響きが古いな))
ゲイルとラーズは思っても言わず、お互いに顔を見合わせてアンドリエイラに言った。
「新しい森の魔女アンドリエイラの誕生だ」
「新たな森の賢女アンドリエイラの誕生だ」
魔女でも賢女でも、呼び方が違うのは、相手の出方次第。
アンドリエイラは森がまだ浅い頃から住んでいる。
それは百年を優に超える時間を過ごした証左。
引きこもった二百年を倍しても足りない時間だ。
死はもはやアンドリエイラと名乗る少女にとっては置き捨てた過去。
アンドリエイラは死んで起き上がり、死にながら生きるリビングデッドだった。
「さて、次の犠牲者はどんな奴だ?」
ゲイルは興味なさそうに聞くが、アンドリエイラは気になってまた寄って来る。
「森に入って来る冒険者だな。獲物を深追いして踏み込んだらしいぜ」
「ラーズはそれを見てたの? ラーズの白い羽根に気づかないならよほど目が悪いのね」
アンドリエイラは残念そうに言うのは、張り合いがない相手ではつまらないから。
「いや、ぶつくさ文句言ってて聞こえた。結界に入り込んだの気づいて見に行ったんだ」
「それには気づいたのか? 冒険者なら魔物相手だ。お前も落とされろ」
心配ではなく憎まれ口をたたくゲイルに、ラーズは羽根を広げて笑う。
「クカカカ! 奴が持ってたのは剣だ。俺に届きやしねぇよ」
「あら、でも魔法も使えるみたいよ。今、私の庭で魔法を使ったわ」
アンドリエイラは自身の縄張りでの魔法行使に感づく。
先ほどまではタルトに集中していて、気づかなかったのだが。
ゲイルは黒い尻尾を一振りした。
「魔法剣士か。凡人なら器用貧乏だが、才能があれば厄介だな」
「あら、この程度の寒さに震えて火をつける程度よ」
アンドリエイラが手を広げると、白く煙る冷気が広がる。
死者であり、死霊であり、死体であるアンドリエイラ。
生者には嫌われる寒冷を操る能力を持つ故に、その力の残滓でしかない寒さに耐えられない人間を敵だとは思っていない。
そんな余裕に満ちたアンドリエイラを横目に、ゲイルは忠告する。
「あまりやるとタルトが生焼けになるぞ」
「それは駄目ね」
すぐさま冷気を引っ込めるアンドリエイラは、気を取り直して床に足をつける。
「うっふふ。せっかくいいお茶の話題が来たんだもの。散々こけにして乙女の住まいに入り込んだことを後悔させて放り出すの。終わってからカスタードタルトでお茶をしましょう。あ、二人はミルクにする? 卵と一緒に新鮮なミルクもあるんだもの。今日中に飲んでしまわないと」
「それよりも酒はねぇのか? ワインでもいい」
ラーズの要望は無視という形で却下。
アンドリエイラは上機嫌にお湯を沸かす準備を始める。
まだ梁の上の一匹と一羽は、上からアンドリエイラを見下ろした。
「しかし、死を運ぶ鳥に見つけられた冒険者は不運だな」
「死の予兆の獣の下に進んでる時点で運命かもしれねぇだろ」
ゲイルもラーズも死に関連した存在だった。
動物ではなく、ひとによっては魔物と呼ぶ存在。
それは、アンドリエイラも同じこと。
まだ見ぬ冒険者は、魔物たちの住まいへと足を踏み入れていたために、目をつけられた。
「お湯は温め直しすればいいようにして。茶葉はどれを使おうか…………」
アンドリエイラは茶葉の缶が並んだ棚に手を伸ばして硬直。
その視界の端を黒い影が走った。
すぐに身を引いて確認するが、黒い影が走った場所にはもう何もない。
けれどいると確信したアンドリエイラは、緑の瞳をせわしなく動かす。
そう思って見れば、台所の足元に、別の棚の陰に。
黒く不吉なそれはいた。
「い、いる…………!」
アンドリエイラは声を裏返らせて総毛立つ。
落ち着きを失くし身を固くして挙動不審になるアンドリエイラは、怯えるように縮こまるほど狼狽した。
梁の上からもその変化は見て取れる。
そして物陰を密かに走る黒い影もまた、目についた。
「そうか、結界にほつれがあれば入っても来るか」
「あちゃー、簡単に塞いだが入り込んじまったか」
アンドリエイラの住まいを守る結界は、招かれざる客を拒絶する。
それは野生動物でも野鳥でも、昆虫でも同じ。
そして、黒いそれは人外の住まいであることなどかまわず、姿を現した。
ぬらぬらしたテカリのある丸いフォルムを、破壊するように背面が割れ、翅を広げる。
そして節足に突起のある足を大きく開き、長い触覚二本をなびかせるようにそれは飛ぶ。
「あ、あ…………ああぁぁあああ!」
無軌道に飛び回る黒い害虫。
アンドリエイラの口からは言語にならない叫びが力の限り放たれたのだった。
明日更新
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