プラスマイナスゼロ(±0分)、もしくは中つ森の魔女(Ⅲ)
レステリーゼ・グライフが上級五等に認定されたちょうどその頃。
グライフ旧子爵領の遙か北部、北の暗黒大陸とを隔てる海。そこに突如空を劈く閃光と轟音、そして複数の火の手が立ち上った。海上に炎が、である。遠眼鏡を手にした者なら、その炎が海そのものではなく、その上を揺蕩う構造物、すなわち複数の木造船を焼くものだと分かっただろう。が、ただでさえ二大国家の何れもから危険視され、辺境となった北の海だ。そんなところに都合良く、物見遊山に訪れる者など居はしない。
だからその船の乗組員が複数の、しかしタイプこそ違えどほぼ亜人種を満載した船舶群であったことや。
その盛大な漁火が特定個人の用いた魔術でも、まして自然現象でもなかったこと。
そして、その炎に飲み込まれるようにゆっくりと、砂粒ほどにしか見えないが……何者かが炎に巻き込まれんとしている様子。誰も見咎められることもなく、ボロキレのように放置されたその人型実体は波に浚われ、西の大陸へ向けて流れ消えていった。
◇
(かなり分の悪い賭けに挑んだ気がしますが、案外なんとかなるものですね……しかし、魔王軍の動きが思ったよりも早い。やはり《千里眼》では役者不足ということですか)
神罰による意識消失からおおよそ二時間ほど。なんとか海上を漂っていた状態から中つ森の自宅へ転移した私は、湯浴みをして冴えた頭で先程の状況を思い返し、頭が重くなりました。相当な無茶をしでかして、それでも死ねない体になっている自分にうんざりしますが、それはそれとして。どちらかといえば、神授に依らない《千里眼》では遍く世界を見渡すなど無理な話ではあります。
異種族の王――魔王が亜人種達を束ねて立ち上がる未来は《未来視》で半ば確定していますが、王の誕生を待たずして、過激派は徐々に大陸へと浸透工作を始めているのでしょう。少なくとも百数十年かそれくらい前、東西国家の断交工作を積極的に進めていた西の政治家にその血が混じっていたことからも明らかです。にしたって、露骨に夜闇に隠れて、粗末な船団でもって密航とは。あれだけの数をなんとかすれば、神罰の対象になるのは明白。だから発想を逆転させました。
すなわち、「神罰を受ける私を密航船団にぶつける自爆戦法」。
ちょうど西の国沿岸に現れた海獣もまた、《終末時計》を巻き戻しうる……つまりは私に依らぬ人々が打倒すべき対象でした。それを先んじて大海渦で撃破し、その余波で隊列を崩した船団ごと神罰の直撃へ巻き込む。改めて考えても頭が可笑しいとしか思えない戦法だったと我ながら思います。追撃が来たときは流石に、これで生かされるのは何かの冗談かと思いました。密航船団を立案した異種族の『将軍』級はいずれとっちめましょう……。
北の大地から。
密航。
『将軍』級――。
「……?」
断片的な言葉を並べたとき、脳裏にチリ、と迸った違和感。
私の知識ではない、というか「この世界の知識」ではないそれの流入にあわせ、私の脳を過った直感。咄嗟に視線を向けたのは、西の国に先日発生したと言われているダンジョンの方角。両手指をこめかみに押し当てた私が観た光景は、クリス君を追放したビル君に起きたあからさまな変化。アレは明らかに異種族のそれだが、彼にそんな血が混じっていないことは《血統観測》で確認していた。なら何で。
『大儀でございましたなぁ、剣士殿』
「――は?」
姿が見えない。《千里眼》に帳を閉ざすような不快感は、間違いなくなにかの干渉を受けている。
だが、だが、だがだがだがっ、私はこの声を知っている! この嗄れた果実を思わせる、ゴミ溜めを固めた中から発生した有機物と呼ぶのも烏滸がましいクソ野郎の声を知っている!!
「生きて――生きてやがったか、あのクソ野郎ォ!」
普通だったら絶対に口にしない暴言が口をついて出たが、気にしていられる精神状態ではなかった。
そして、今の『あいつ』に直接の干渉が出来ない、してはならない現状に歯噛みした。
何より、あの場所!
ダンジョン最奥部、その四方に飛び散った赤い塗装の正体など知らぬはずもなく。これから起きるであろう事態、その未来を見る勇気は今の私にはありませんでした。




