ただの徒然なる詩集
小さな頃から、何かが足りなかった。それが愛なのか幸福なのか、はたまた裕福なのか、今になっても分からない。
しかし私は幸か不幸か、こうして考えていることを文字で、文章で表現することに長けていた。
もちろん、本を読むことは好きだ。今ではその時間ですらめっきり減ってしまっているけれど、本を読んでいる時間だけは何も余計なことを考えずに時間を潰すことが出来る。
私は、自分が生きたという証が欲しかった。
なので、ここに私が生きた証を遺したいと思う。
万人受けしなくてもいい。
誰かに「お前の作品は作品とも呼べない」と、罵られてもいい。
これは、いつも何かが足りてていない、私の叫びなのだから。
「先人は何故、腸詰めを作ったのだろうか」
目の前の知人が、上質な純白の皿の上に乗せられたその腸詰めをフォークの先で踊らせながらそう云った。
豆から挽いたと云う珈琲をひと口啜り、少しばかり思考を巡らせることにする。
この腸詰めは、今はソーセージと云う名でこの世に出回っているが、これを生み出した者は『どうかしている』と思う。
何事にも知識や常識、手順と云うものが在る。
つまりこれを生み出した者は、その知識や常識が無いままにこれを作ったのだ。
調味料で味が付けられた肉を包み込んでいる、動物の腸が有毒かもしれないのに、だ。
そう思うと、今目の前に有る腸詰めも何故だか愛おしく感じてくるのは、気の所為だろうか。
『死んでしまうかもしれない』と云う恐れを退け、その勇気と根気で生み出された物に、我々は生かされていると感じずにはいられなかった。
「きっと好奇心が勝ったのだろうね」
そう云えば知人は、『そう云うものなのか?』と。
「我々物書きと、そう変わらないだろう?」
と、云いながらその腸詰めにフォークを突き刺し、口に放り込む。咀嚼をすれば、口内に溢れ出したのは生の味だった。
嗚呼、今日も我々は先人の勇気と知恵に生かされている。
いずれ、我々はこの生に終止符を打つ時が来るのだろう。
それは何時になるのかは、誰にも分からない。何十年も先かもしれないし、明日や今この時かもしれない。
もし、私がこの生を終えたその時。
後世に遺された私の作品が、誰かの生きるための礎になることができた時。
その時が私が生きた証になれるのだろう、と未だに生ぬるい珈琲を飲み干した。