七つの軌跡
僕は一人ぼっちになった。
父さんも、母さんも、兄さんもいなくなった。
今朝早く、公安の警察官が家にやってきた。そして、「明日、孤児院に連れて行くから、今日中に荷物をまとめておけ」と言い捨てて立ち去った。
これまで通っていた小学校は、ずっと休んでいる。もう二度と行くことも無いのだろう。
(また、あそこへ逆戻り……)
リビングの床に座り込んだまま、両腕で膝を抱えた。
僕は孤児院で育った。
それでも時々、父さんや母さん、そして兄さんがこっそり会いに来てくれた。僕には本当の家族がいる。そのことが、ずっと心の支えだった。
そして、政府の一人っ子政策が無くなった五年前、家に呼び戻された。それからは家族四人で仲良く暮らしてきた。
(もう、父さんも母さんも兄さんも、この世にいない……)
既に涙も枯れ果てた僕は、虚な瞳で部屋の天井を見上げた。
(このまま……消えてしまいたい……)
いつの間にか日が暮れていた。
電気も止められて、部屋の中は真っ暗だった。
僕は意識もないままに、ヨロヨロと立ち上がると、暗闇の中を手探りで玄関に向かった。裸足のままで玄関から外に出ると、夢遊病者のようにフラフラと左右に揺れながら、団地の階段を一歩ずつ登った。
階段を登り詰めた先に、鉄製の扉があった。ふと上を見上げると、蛍光灯がパチパチと点滅している。ドアノブを回して体重をかけると、扉が開いた。そこは集合団地の屋上だった。
人気のない屋上には、黄砂混じりの強い風が吹き渡っていた。その風で髪が逆立つのも構わず、僕は屋上の四方を囲う転落防止用のフェンスをよじ登った。
フェンスの先端を乗り越えたところで、指先が痺れて力が入らなくなった。そのままフェンスの外側に転げ落ち、ドンと音を立てながら屋上の縁のコンクリートに背中を打ちつけた。思わず、「ううっ」と呻き声を上げると、しばらくの間、瞼を閉じたままじっと横たわっていた。
(そういえば、一週間、何も食べてなかった……)
もはや僕は、空腹も喉の渇きも感じなくなっていた。
(こんなになっても、なかなか死ねないんだな……)
誰もいない屋上で大の字になっている自分が滑稽に思えて、フッと捨て鉢に笑いながら瞼を開いた。そして、屋上の縁のコンクリートに手を突きながら体を起こすと、首を伸ばして下を覗き込んだ。街灯に照らされたアスファルトの道路がぼんやりと見えて、道向かいには〈七・十一便利店〉という外資系のコンビニの看板が煌々と輝いていた。
(ここから飛び降りれば……楽になれる……)
もう、こんな世界に生きていたくなかった。一週間前に兄さんが、そして昨日、父さんと母さんが死んだ。僕にはもう何も残っていなかった。
屋上の縁の先端につま先を揃えて直立すると、フーッと大きく息を吐き出した。そして、(あとは足を踏み出すだけでいい……)と心に念じながら顔を上げた。
黄砂が舞う夜空には、淡い輝きを放つ星々が瞬いていた。すると、ちょうど真正面で輝いていた星の一つが、突然、明るさを増しながら、こちらへ近づいてきた。
(いったい、なんだ?)
眉根を寄せながらその星を見つめていると、とうとう最後には巨大な光の玉となって、僕の目の前で動きを止めた。あまりの眩しさに、僕は顔を俯けながら額に手を翳した。
「どうしたのですか?」
光の玉から僕に向かって呼びかける声が聞こえてきた。男性とも女性ともつかない不思議な声だった。既に生きる望みを無くしていた僕は、怖いとも思わなかった。
「もう生きていてもしょうがない……」
まるで抜け殻のように立ち尽くしたまま、僕は、か細い声で呟いた。
「そうですか。では、この世を旅立つ最期に、あなたに見せてあげましょう。この世界で起きたことを。それはさまざまな人びとの姿、いわば、この世界に刻まれた軌跡です」
僕は首を傾げながら、「軌跡?」と眉間に皺を寄せた。
「では一つ目の軌跡です。ウイグルの少年の身に起こったことです」
すると、目の前の光の玉が更に輝きを増して、僕の全身を真っ白い光が包み込んだ。次の瞬間、その光の中にどこまでも果てしなく広がる黄色い砂丘が見えてきた。
タクラマカン砂漠の傍にあるウイグルの小さな村で、イマムは、お母さんと二人で暮らしていました。
村のモスクの司祭だったイマムのお父さんは、二年前に突然家に押しかけてきた警察に連れていかれたのです。それ以来どこにいるのか、ぜんぜん分かりません。生きてるのか、死んでいるのかも。
イマムが十歳になった日、イマムのお母さんがペチーネを焼いてくれました。それはクッキーのような焼き菓子で、お母さんが作るバター味のペチーネはイマムの大好物でした。
食卓でペチーネを頬張るイマムに向かって、お母さんが頬を強張らせながら重い口を開きました。
「あのね、イマム。実を言うとね。あなたの名前を変えなきゃいけないの」
「なっ……なんで?」
「そう通達されたって、村長さんが知らせに来たの。ムスリムに関わる名前は禁じられて、変えなきゃいけない。そうしないと警察に連行されるって」
「僕の名前は父さんがつけた……ムスリムの指導者という意味だって教えてくれた……」
「仕方がないことなのよ……お願い、分かって……」
お母さんが悲しげに瞼を伏せました。
「名前を変えたら、父さんが戻ってくるのかい!そんなことないだろう!絶対、嫌だ!」
思わず頭に血が上ったイマムに、お母さんは唇を震わせながら、「我儘を言うんじゃない、イマム!」と声を荒げました。
「母さんのバカ!」
手に握っていたペチーネを母さんに投げつけると、イマムはそのまま家を飛び出しました。
「ちょっと待ちなさい、イマム!」
悲鳴のような母さんの声がイマムの背中に浴びせられました。
ひとりでに瞳から涙が溢れ、イマムの頬をつたっていました。涙を拭うこともせず、イマムは走り続けました。
もしかしたらいつか父さんは戻ってくるかもしれない。それはイマムの心の中にある、か細い糸のような一縷の望みでした。名前を変えることは、それを断ち切られるみたいで、胸が押し潰されるように苦しかったのです。
あてどもなく走り続けていると、イマムは、いつの間にか黄色い砂丘の上にいました。大きく波打つような砂丘の遥か彼方に、空に向かって黄色い柱が聳え立っているのが目に映りました。
「竜巻だ……」
時折、砂漠では大きな竜巻が現れます。襲われたら人も家畜もたちまち空高く巻き上げられて命はないのです。遠目にでも竜巻を見た時は、すぐに逃げろと言われていました。
でもイマムは、頬をつたう涙もそのままに、竜巻に向かって足を踏み出していました。こんな世界に、もういたくなかったのです。
あっという間に竜巻が目の前へ迫ってきました。
横殴りの激しい突風に煽られ、イマムは、とっさに瞼を閉じました。風に混じる砂が全身に叩きつけられ、次の瞬間、フワッと体が浮き上がりました。ゴウゴウと風が唸りを上げるなかで、足先が上、頭が下の逆さまの格好になり、そのまま目が回るほどの凄まじい勢いで体が回転しました。
息もできずに、たちまち意識が遠くなって、遂には深い海の底のような静寂に包まれました。
その時でした。
「イマム、父さんの名を貰ってくれないか?」
それは紛れもなく、お父さんの声でした。
「トルディという我が名は、この世に留まるという意味だ。お前に貰って欲しいんだ」
穏やかな口調で優しげに語りかけてくる、その声がイマムの心に染み渡ってきました。
「うん……分かった……」
「ありがとう、イマム。いや、トルディ」
お父さんの声が消え、イマムは気を失いました。
「イマム!いったいどうしたの!」
布を切り裂くようなお母さんの声に、イマムは目を覚ましました。
家の戸口の前で手足を投げ出したまま、イマムは地面の上に倒れていました。全身に黄色い砂をまぶしたような姿で、体中が強張ったまま身動きができません。
「かっ……母さん……」
イマムは、喘ぐように声を絞り出しました。
「なんで……こんなことに?」
小刻みに唇を震わせながら、お母さんが地面に膝を突いて、イマムの顔を覗き込みました。
「ぼっ……僕……名前を変える……父さんの名前にするよ……」
途端にお母さんが、抱き竦めるようにイマムの体に覆い被さりました。そして涙を流しながら、「うっうっ」と苦しげに嗚咽を漏らしていました。
イマムは強張った腕をなんとか伸ばすと、お母さんが泣き止むまで、その背中をそっと撫で続けました。
僕を包み込んでいた光が消えた。
イマムは僕と同じ十歳だ。いつしか僕は、こんな世界にいたくない、とまで思い詰めたイマムに自分の姿を重ねていた。そして、イマムの家族を襲った残酷な運命に怒りが込み上げた。
(僕の兄さんだって、なぜ死ななければならなかったのか……)
僕には五歳年上の兄さんがいた。
孤児院で育った僕は、学校の勉強についていくのも大変だった。分からないことがある度に、兄さんに質問した。兄さんは嫌な顔一つせず、「いいかい、天佑。ここはね、こうすんだよ」と、いつも優しく説明してくれた。
ある日、小学校でクラスメイトにバカにされ、僕は自分の部屋でこっそり泣いていた。すると、その様子に気づいた兄さんが、「お前の名前、天佑とはね、いつも天の助けに恵まれるようにという願いが込めてあるんだ」と教えてくれた。その時、僕に向けられた瞳の中に、凛とした白銀の光が宿されているように思えた。兄さんの瞳に宿る、その光は、いつも僕に勇気を与えてくれた。
僕にとって、たった一人の大切な兄さんだった。
そんな兄さんが、一週間前に死んだ。
兄さんは、第一志望の高級中学に入学したばかりだった。学校の校内で、兄さんの遺体が発見された。
その背中には大きなナイフが突き刺さっていた。あまりにも無惨な姿だった。
それなのに地元の公安警察は事故死として処理した。それは、とうてい納得できることではなかった。
そこで父さんが、教官の一人からこっそりと真実を聞き出した。犯人は、同じ学校に通う政府高官の息子たちで、金銭の要求を断った兄さんを、見せしめにリンチし、その挙句に殺したということだった。
僕は、ゆっくりと瞼を開くと、目の前に浮かぶ光の玉に目をやった。
「イマム、いや、トルディは今どうしていますか?」
「彼は母親を助けながら暮らしています。そして毎朝ベッドの中でこっそりと、アラーと父親に祈りを捧げています」
「そうですか……」
「では二つ目の軌跡です。今度は、日本の青年が南モンゴルで経験したことです」
再び僕を真っ白い光が包み込むと、緑の草原が目に映った。
耕作には忘れられない風景があります。それは、真っ青な空と緑の草原、そして……。
一年前の夏、耕作は中国の内モンゴルへ一人旅に出かけました。日本の都会で、会社と自宅を往復するだけの日常に辟易していた耕作は、旅行雑誌でふと目にした雄大な草原の写真に魅せられたのです。
成田から北京経由の空路で内モンゴルのフフホトに着くと、耕作はリュックを担いで街に出ました。
耕作が、地元の食べ物を物色するためにスーパーに入ると、出入口で荷物をロッカーに預けろと言われました。どうやら万引き防止のためらしいのです。
出入口の横に目をやると、十メールほどの奥行きにロッカーが並べられていました。
その前には、見たところ十歳ぐらいと思われる女の子がぼんやりと立っています。
どうやらロッカーの番をしているようで、おかっぱの黒髪が可愛らしく、赤い頬が艶々と輝いていました。その風貌から、地元のモンゴル人に違いない、と耕作は思いました。
耕作がリュックを手渡すと、その女の子は一番奥にあるロッカーの前に進んでいきました。そして、リュックをロッカーの中に丁寧に押し込むと、扉を閉めて鍵をかけました。
目の前まで戻ってきた女の子に向かって、耕作は、「ありがとう」と片言のモンゴル語でお礼を言いました。
女の子は瞼を大きく見開きながら、つぶらな黒い瞳でじっと耕作を見つめました。そして鍵を摘んだ指先を震わせながら、ゆっくりと手を差し伸ばしました。
耕作は、その子の視線に合わせるように膝を曲げながら鍵を受け取ると、ニッコリと微笑みました。すると女の子は、ポロンと大粒の涙を零して、そのままクルリと背を向けたのです。
いったいどうしたのだろう、と眉根を寄せながら、耕作は店内に入りました。買物を終えて出入口に戻ると、既に女の子の姿は見えず、代わりに中年のおばさんがいました。
耕作は特に気にすることも無く、一番奥のロッカーの前まで進み、鍵を開けて扉を開いたのです。
すると、リュックの上に小さな紙切れがありました。
(なんだ、これ?)
それはスーパーのチラシをちぎった切れ端で、〈救命〉という文字と、住所と思しき漢字と数字の羅列が書き殴られていました。
首を傾げながら紙切れをジーンズのポケットに押し込むと、耕作はスーパーを後にしました。
スマホで調べると、〈救命〉とは中国語で〈助けて!〉という意味でした。ロッカーの番をしていた少女の涙が頭に浮かび、すぐに紙切れに書いてある住所を検索しました。
スマホのナビに従って三十分ほど歩くと、木造の粗末な家屋が建ち並ぶ通りに入りました。そこはモンゴル人達が暮らすスラムで、路上にはゴミが散乱して粉塵が舞っていました。耕作はハンカチで口元を覆うと、更に通りの奥へと進みました。
ナビが示す地点には今にも崩れそうな小屋があり、戸口にあの子が立っていました。チラシの切れ端を見せると、コックリと頷き返したのです。
小屋の中に入ると、床の上に痩せ細った男の子が寝ていました。瞳がドロリと濁っていて、もはや視力も失っているようでした。
瞳を潤ませながら、その女の子が必死に語りかけてきました。その言葉をスマホで翻訳すると、女の子の名前はアリマ、床に寝ている男の子は弟のナランで、まだ五歳だというのです。
スマホで「お父さんとお母さんは?」と尋ねると、アリマは悲しそうに瞼を伏せました。
両親は半年前に警察に連行され、それ以来、二人きりでなんとか暮らしていました。でも、弟のナランが病気になり、病院に連れていくにもお金がなかったのです。これがアリマの話でした。
目の前に横たわるナランが死の淵にあることは明らかでした。
「アリマ、分かったよ。すぐに救急車を呼んで。お金はなんとかするから」
耕作からスマホを受け取ると、アリマは救急センターへ電話をかけました。最初は冷静に喋っていましたが、だんだん語気が荒くなり、最後には涙ながらに弟の名前を叫んでいました。
不意に通話が切れたらしく、アリマがうなだれながら耕作にスマホを差し出しました。そして、「反乱分子は病院で治療を受けることができないと言われた」と大声で泣き出したのです。
その夜、ナランは息を引き取りました。
次の日、スラム地区の一角にある火葬場にナランの遺骸を運びました。痩せ細った体が炎に包まれ、見る見るうちに骨だけとなりました。
アリマは、ゴミの山からペンキ缶を拾ってきて、弟の遺骨を詰めました。
耕作が、「何か出来ることはないか?」と尋ねると、アリマは「ナランの骨を草原に埋めてやりたい」と目に涙を浮かべました。
すぐに耕作はレンタカーを借りると、アリマを乗せて出発し、三時間ほどで草原に着きました。
車を降りたアリマがフラフラと歩き始め、周りに人影が見えなくなると、草原にしゃがみ込みました。
そして、小さな指で引っ掻くように土を掘り始めたのです。耕作は向い合うように腰を下して、アリマと一緒に土を掘りました。
小さな窪みができたところで、アリマはペンキ缶を取り出して、ナランの骨をゆっくりと注ぎ入れました。その上に土を被せると、地面が僅かに盛り上がりました。
アリマは琥珀色の土の膨らみに両手の掌を当てると、祈るように頭を垂れて瞼を閉じました。
真っ赤な頬には零れ落ちる涙の筋がつたっています。
突き抜けるような青い空には綿菓子のような白い雲が浮かび、見渡す限り広がる緑の草原には涼やかな風が吹き渡っていました。
途方もなく美しい、この大地が深い悲しみに満ちていたのです。
その風景を、耕作は忘れることができません、
僕を包む光が消えた。
たった一人の大切な弟を失ったアリマの深い悲しみに、思わず涙が込み上げてきた。
僕の脳裏に、兄さんの無惨な遺骸を抱き締めていた瞬間が蘇った。
公安警察は、嘆き悲しむ僕たち家族を、兄さんの遺骸から無理やり引き剥がした。そして、司法解剖もすることなく、すぐに火葬した。
遺骨となった兄さんの変わり果てた姿に、母さんは気が狂ったように泣き叫んでいた。
そして、憤りのあまり、父さんと母さんは警察署に乗り込むと、猛抗議を三日も続けた。その間、僕は正気を失って立ち上がることもできず、ずっと寝込んでいた。
公安警察は有無を言わさず、父さんと母さんを逮捕して、そのまま刑務所へ送った。そして、ろくに裁判もないまま、昨日、死刑が執行されたのだった。
(こんなムチャクチャがまかり通るなんて、この世界は地獄だ……)
奈落の底のような深い絶望に囚われた僕は、生きていく気力も失い、今まさに団地の屋上の縁に立っているのだ。
僕は、目に涙を浮かべながら、空中に浮かんでいる光の玉に視線を向けた。
「アリマは?今、あの子は、どうして?」
「なんとか南モンゴルの田舎で暮らしています。日本の青年が助けているんです。今では青年は南モンゴルの独立を支援する団体の若きリーダーとなっています」
「そうなんですね。それなら良かった……」
「青年は、難民申請をして日本に来るようにと、アリマへ言っています。でも、アリマは弟が葬られている草原から日本は遠すぎると断っているんです」
「そう……ですか……」
「では三つ目は、ヒマラヤの山々が目にした、ある少女の物語です」
「はっ……はい」
光の玉が輝きを増し、再び真っ白い光が僕を包み込んだ。その光の中に白銀の雪に覆われた山脈が現れた。
アデは、チベットの小さな田舎町で、町外れの粗末な小屋にお爺さんと二人で暮らしていました。
アデがまだ幼い頃、アデの両親は兵隊さんに連れ去られ、二度と戻ってくることはなかったのでした。
そんな孫娘を不憫に思ったお爺さんは、アデのことを、とりわけ愛しんでいました。
そして、アデがちょうど十歳の誕生日を迎えた日のことです。
夜明けとともに、小屋の戸口を乱暴に開けて、突然、兵隊さんが入ってきました。
「昨日の夜、ティンシャの音が聞こえたと通報があった。勝手に自宅で仏教の祈りを捧げることは禁じられている。もし証拠が出れば即座に連行するぞ」
兵隊さんは眉を吊り上げながら、鋭い目つきでアデとお爺さんを睨みつけました。
ティンシャは、二枚で一組の小さなシンバルで、表面にお経の文字が刻まれています。アデが持っているティンシャは、たった一つ残されたお母さんの形見でした。それを赤茶けた陶磁器の小さな壺の中に大事に隠していたのです。
でも、誕生日を迎える前の晩、ふいに胸を押し潰すような寂しさが込み上げてきて、アデはティンシャを壺から取り出し、そっと擦り合わせたのです。チーンと甲高い音色が響くと、ほんのりと胸の内が暖かくなって、アデは頬に小さなエクボを寄せたのでした。
兵隊さんは小屋の中にあるものを全てひっくり返すようにして隈なく探しました。そして、遂にアデの壺を手に取ったのです。
その瞬間、アデは、「ダメ!やめて!」と叫びました。
兵隊さんはニヤリと笑うと、壺の中を覗き込みました。しかし、その中は空っぽで、何も入っていません。
「この小娘が!儂をからかいおって!」
兵隊さんは怒りに駆られて、アデの壺を床に叩きつけると、戸口から出て行きました。
壺は粉々に砕け散り、そのカケラの一つがアデの足下に転がりました。
アデは、指先を震わせながら赤茶けた陶磁器のカケラを拾うと、ポロポロと大粒の涙を零しました。兵隊さんに捕まらなかった安堵感よりも、ティンシャが跡形も無く消えてしまったことが途方もなく悲しかったのです。
その日を境に、アデは食事も喉を通らなくなり、どんどん衰弱していきました。
そんなアデを見兼ねたお爺さんは、遂にはチベットを後にして隣の国へ行くことを決断しました。
雪が舞い散る晩に、お爺さんはアデを背負ってヒマラヤ越えに出発しました。国境までの警備は厳しく、雪が降りしきる深夜しかチャンスはなかったのです。
ヒマラヤの山々は万年雪に覆われ、寒さはとても厳しいものでした。それでもお爺さんは、僅かな仮眠を取るだけでほとんど休むことなく、二十日間も大切な孫娘のために必死に歩き続けたのです。
ところが、二十一日目に天候が急変し、猛吹雪となりました。激しく吹き荒ぶ雪は真っ白い壁のようで、自分の手足さえ見ることができません。
進むべき方向を見失ったお爺さんは、とうとう力尽きて雪の中に倒れこみました。
お爺さんとアデの上には、見る見るうちに雪が降り積もっていきます。
アデは、朦朧とする意識の中で、掌の中に赤茶けた壺のカケラを握り締めていました。
すると、その時、チーンと甲高い音がアデの耳に聞こえました。同時に壺のカケラが共鳴するように小刻みに震えたのです。
「母さんのティンシャだ!」
思わずアデが声を弾ませると、お爺さんが意識を取り戻しました。
「どっ……どうしたんだ、アデ?」
「母さんのティンシャが鳴ったの!あっちだよ、あっち!」
アデは人差し指を伸ばして、音の聞こえた方角を指差しました。
お爺さんは残った力を振り絞るようにして立ち上がると、アデが指し示す方角へ向かって歩き出しました。
猛吹雪の中では何も見えません。
それでも、アデの耳には、ティンシャが奏でる甲高い音がずっと聞こえていました。
お爺さんは、アデが教える通りに、猛吹雪の中を無我夢中で歩き続けました。
それからどれくらい経ったのでしょう。
ふいに吹雪が止みました。それと同時に、ティンシャの音も消えました。
目の前には一面の銀世界が広がっています。
そして、遥か遠くに町並みが見えたのです。
「アデ、町だ!」
「うん!」
アデは、お爺さんの背中で、コックリと大きく頷きました。そして、いつまでもいつまでも、赤茶けた陶磁器の壺のカケラを小さな掌で握り締めていました。
僕を包んでいた光が消えた。
すぐさま僕は目の前の光の玉に向かって、「アデは?この子は今?」と尋ねた。
「インドのダラムサラで、お爺さんと暮らしています。毎日欠かさずお父さんとお母さんのために寺院で祈りを捧げているんですよ」
「よっ……良かった……」
安堵した僕は、フッと小さくため息を吐いた。
今の僕には、もう両親はいない。アデと同じだ。
僕の父さんと母さんは優しい人だった。政府の一人っ子のせいで、僕は孤児院に預けられたが、そのことを恨みに思ったことは一度もない。
僕がまだ幼い頃、一週間も高熱が続き、命を失いかけたことがあった。医者にも見離され、孤児院のベッドで横たわっていると、父さんと母さんがやってきた。仏教の信徒だった二人は、僕の枕元で一睡もすることなく、懸命にお経を唱えていた。そして、まる一日過ぎたところで、まるで奇跡のように熱が下がった。父さんと母さんの祈りが天に届き、僕の命を救ってくれたとしか思えない。
政府の方針が変わって家に戻り、家族揃って一緒に暮らした日々は本当に幸せだった。
僕は、目の前の光の玉のほうに目をやった。
「では、四つ目の軌跡です。香港の年若い女性に起こったことです」
再び僕を真っ白い光が包むと、緑深い木立が現れ、一本の樹木の根元に女性が倒れているのが見えてきた。
木漏れ日が瞼をくすぐるように感じて、庭は、ゆっくりと目を開けました。
(ここは?……)
木立に囲まれた草地の上に手足を投げ出して、庭は横たわっていたのです。青草の匂いが鼻の奥に染み込んできます。
(えっと……なんで倒れてたんだっけ?)
必死に記憶を辿りましたが、どうしても思い出せません。
(どっ……どうすればいいの?)
うろたえながら草地の上に手を突いて上半身を起こしました。
周りの木立に目をやると、幹の太さはゆうに二メートルを超え、その梢は空に霞んで見えないほどでした。
木立の間を爽やかなそよ風が吹き通り、庭のショートボブの黒髪をサラサラと靡かせていました。
庭は、よろめきながら立ち上がりました。
(とにかく歩こう……ここにいてもどうしょうもないし……)
庭が草地の上に足を踏み出すと、スニーカーの底で、サクッと軽やかに下草が鳴りました。
しばらくの間、あてどもなく歩き続けていると、不意に木立を抜けました。
そこはゴルフ場のティーグラウンドほどの空間で、一面が丈の短い草に覆われ、四方を木々に囲まれていました。その真ん中に長さ十メートルほどの細長い箱が置かれています。そして、その箱の両側に沿うように、それぞれ線路が敷かれていました。その四本のレールは左右の木立の中へと伸びて、先が見通せないほどでした。
(これって駅のホームってこと?)
庭は細長い箱に目をやりました。どうやらビールケースほど大きさの木箱を幾つも繋げてあるようです。
すると突然、ポッポーと鳴り響く汽笛の音が遙か遠くに聞こえました。
(汽笛?……列車が来るの?)
庭は慌てて木箱のホームに駆け上がりました。
次の瞬間、左右それぞれの木立の間から向かい合わせで二両の蒸気機関車が現れたのです。
左側からは銀色の機関車、右側からは金色の機関車。まるで遊園地の模型列車ほどの大きさで、ダンボール箱ぐらいの屋根のない小さな客車を繋げていました。
二つの機関車は木箱のホームで停車しました。
ホームの上で金色と銀色の列車に挟まれたまま、庭は呆然と立ち竦んでいました。
(どっちに乗ればいいの?)
その時でした。
『金色の列車に乗るんだ。さあ、早く』
どこからともなく、囁くような男性の声が聞こえてきました。不思議なことに、どこかで耳にしたことがあるようで、庭は懐かしい心持ちになったのです。
庭は金色の客車にピョンと飛び乗りました。
その途端、ポッポーと甲高い汽笛を鳴らしながら、金色と銀色の蒸気機関車が同時に動き始めました。
その揺れによろめいて、庭は、ドンと客車の底に尻餅をつきました。
機関車は、木立の間を吹き抜ける風のように猛スピードで走り続けていきました。
「庭、目を覚まして!お願い!」
その声に意識を呼び覚まされて、庭はゆっくりと瞼を開きました。
「庭……ほんとに……良かった……」
目の前には、涙ぐんでいるお母さんの顔がありました。
庭はベッドに横たわっていたのです。頭に違和感を覚えて、指先で触ると包帯が巻かれていました。
「母さん……どうして……」
「あなたは、父さんとデモに参加するために香港中文大学へ行ったの。でも、突然現れた警官隊に、あなたは後頭部を殴られて意識を失ったのよ」
「父さんは?……」
「倒れたあなたを庇うように覆い被さったって。そして、警官隊に警棒でメッタ打ちにされて……」
「そんな……」
「家に担ぎ込まれた時……もう父さんは……」
庭の瞳からどっと涙が湧き上がり、目尻から枕の上に零れ落ちました。
その時、ベッドの脇に無造作に置かれているキャンバスが目に入りました。その瞬間、庭は、思わず息を呑んだのです。
「あっ……あれって……」
庭は震える指先でキャンバスを差しました。
「なに、庭?……ああ、あれはお父さんがデモへ出かける前の晩に描きあげた絵よ」
そこには木立に囲まれた広場に木箱のホームと線路が描かれていました。ホームの上にショートボブの黒髪を風に靡かせた女性が立っています。その姿は庭にそっくりでした。
(金色の列車に乗れ、という声は父さんに違いない。生きろ、とわたしに言ったのだ)
止めどもなく、大粒の涙が庭の頬をつたっていました。
「とっ……父さん……」
涙声で呟いた瞬間、遙か遠くでコダマのように鳴り響く、汽笛の音が微かに聞こえました。
僕を包んでいた白い光が消えた。
一月ほど前の出来事が、ふいに記憶に蘇ってきた。僕は、父さん、兄さんと一緒にリビングで寛いでいた。テレビのニュースでは香港の映像が流れていた。
すると突然、兄さんが父さんへ話しかけた。
「父さん、香港のこと、どう思う?」
「なにか暴動が起こってるんだろう。物騒なことだな」
父さんの答えに、兄さんは悲しげな表情を浮かべた。そして、「暴動じゃない……抵抗だよ……」と小さな声で呟くと、がっくりと肩を落としながら、自分の部屋へ戻っていった。
あの時、兄さんは既に気づいていた。この世界の真実に。
(兄さんは、相手が政府高官の息子達だからこそ、命をかけて抵抗したのかもしれない…そうだ、そうに違いない……)
いつしか僕は両手の拳をギュッと握り締めていた。
目の前にはまだ巨大な光の玉が空中に浮いていた。
僕は、ハッと我に返ると、「この女の人は、今は?」と光の玉に向かって問いかけた。
「怪我が完治した彼女は、今、香港の民主化運動に身を投じていますよ」
「そう……ですか……」
僕はぎこちなく頷いた。
「では五つ目の軌跡です。台湾の青年と中国からの留学生の女性、愛し合う二人の物語です」
僕の全身を真っ白い光が包むと、小さな川にかかる歩道橋が見えてきた。
台湾大学に通っていた志明は、いつしか、中国からの留学生の雨桐に思いを寄せるようになっていました。
純朴で飾らない彼女は、いつも凛とした空気を纏っているように、志明は感じていたのです。
彼女への思いを抑えきれなくなった志明は、遂に、大学構内にある湖の畔で雨桐へ告白しました。
雨桐は、驚いた様子でしたが、普段から志明の誠実さに好感を抱いていました。雨桐は、志明の思いを受け入れたのです。
そうして二人が付き合い始め、ちょうど一年が過ぎた初夏のある日、人混みが苦手な志明と雨桐は、台北市郊外の公園に出かけました。
中国にいる家族のことが心配で、最近は夜もあまり眠れないという雨桐の気晴らしになればと、志明が誘ったのでした。
公園に着くと、珍しいことに園内にランタンを売る屋台が出ていました。
雨桐はつぶらな瞳を輝かせながら、「わあ!なに、あれ?」と、その屋台に駆け寄りました。屋台の中には色とりどりのランタンが並べられています。
雨桐は、売り子のおばさんから詳しい説明を聞くと、オレンジ色のランタンを買いました。
そして志明に向かって、「願い事を書いて空に飛ばすのよ」と、雨桐は頬に小さなエクボを寄せました。
志明が、「色に意味はあるの?」と尋ねると、「オレンジは恋愛や結婚運だって」と、雨桐はちょっと照れくさそうに頬を赤く染めました。
それから雨桐は、屋台のおばさんに黒マジックを借りて、志明と雨桐の名前をランタンに書き込みました。そして志明に向き直ると、「行ってみたいところがあるの!」と歩き出しました。
三十分ほど歩き続けたところで、幅十メートルほどの川を跨ぐ小さな歩道橋に辿り着き、その橋の真ん中で、雨桐が足を止めました。
初夏の爽やかな風が吹き渡り、雨桐のショートボブの黒髪がサラサラと靡いていました。優しく頬を撫でる風の中に白桃のような甘い香りが混じっています。
それは雨桐の匂いでした。
「ここでランタンを飛ばしたいな」
雨桐が微笑みながら志明の瞳を覗き込みました。
「なんでここなの?」
「あのね、この橋の上で願い事をすると叶うんだって。だから、この橋は〈願い橋〉って言われてるのよ」
台湾南部で生まれ育った志明には初耳でした。
「へぇー、そうなんだ……」
「なんか反応が薄いなあ。張り合いがないじゃん、もう」
雨桐はプッと頬を膨らましていました。そんなふうに、ちょっと機嫌を損ねている雨桐の様子さえ、志明は愛おしく感じていました。
「ごめんよ。じゃあランタンを飛ばそう」
ランタンの下部にはワイヤーが十字に張られていて、志明は、その交差部分に白い可燃材を取り付けました。
そして、雨桐と向かい合わせになってランタンを持ち上げると、可燃材に火をつけました。たちまちランタンが丸く膨らみ、二人が同時に手を離すと、スーッと滑るように空へ向かって一直線に昇っていきました。
志明がふと目をやると、雨桐は祈るように両手の指を組みながら、じっと目を閉じていました。
志明が「何をお願いしてるの?」と問いかけると、雨桐はパッと瞼を開きました。
そして、「これから先、大切な瞬間を二人が共有できますようにってね」と、雨桐が笑うと、その頬に愛くるしいエクボが見えました。
それから数日後のことでした。
突然、雨桐から志明に電話がかかってきたのです。その声は苦しげに喘いで、嗚咽まで混じっていました。
「いったいどうしたの?」
「今から中国行きの飛行機に乗る……」
「なっ、なんでそんな突然?」
「さっき、妹から電話がかかってきたの。父さんと母さんが公安に連行されたって。妹が、助けてって泣いてた。だから……」
「ダメだ。行っちゃいけない。君の命が!」
「あの子は一人っ子政策のせいで、孤児院で育ったの。ずっと寂しい思いをしてきたの。だから妹を見捨てることは、絶対にできない。ごめん……」
そこで通話が切れました。
志明は慌てて飛行場に向かいましたが、着いた時には既に、雨桐が乗った飛行機は離陸していたのです。
その日の夜、ある中国企業の幹部たちが一斉に公安に逮捕されたというニュースが流れました。
それは雨桐の父さんが働いていると聞いていた会社でした。テレビのキャスターは政府内の権力闘争の結果だと解説していました。
その日以来、雨桐とは連絡が一切取れなくなってしまいました。
それから一月経った頃、雨桐に会いたい気持ちが抑えられず、志明はあの歩道橋を訪れました。
夕日が西の地平線に半分沈み、赤く染められた夕焼け空には一番星が瞬いていました。
志明は歩道橋の上で万華鏡のように刻々と輝きを変えていく水面をじっと見つめていました。
すると突然、吹き通る風に白桃のような甘い香りを感じたのです。
ハッとして顔を上げると、水面の上にオレンジ色のランタンが浮かんでいました。その表面には志明と雨桐の名前が書いてありました。
ランタンは、空に向かってゆっくりと上昇し、遂には真っ赤な夕焼けに溶けるように消えていきました。
その瞬間、雨桐があの世に旅立ったことを、志明は悟りました。溢れ出した涙が志明の頬をつたい、その雫は水面に小さな波紋を作りました。
願い橋は、一目会いたいという、志明と雨桐の最期の願いを叶えてくれたのです。
僕を包む光が消えた。
愛し合う恋人たちを引き裂く、あまりに不条理な運命に涙が込み上げてきた。
僕の兄さん、父さん、母さんを襲った運命も、まさに不条理だった。
(一目だけでいい。もう一度、兄さんたちに会いたい……声だけでも聞きたい……)
僕の胸の内に、そんな思いが湧き上がった。
僕は目の前に浮かぶ光の玉に向かって、「この男の人は、今はどうしているんですか?」と問いかけた。
「今は台湾の独立運動に頑張っていますよ」
「でも……なぜ……この人の恋人は命を失ったのですか?」
「では六つ目に、彼女がなぜ死んだのか、ご覧に入れましょう。今度は、空に浮かぶ雨雲が目にした軌跡です」
再び真っ白い光が僕の全身を包み込むと、恋人の女性と女の子が手を繋いで歩いている姿が見えてきた。
十歳の雨萱は、お姉さんの雨桐に手を引かれながら、疲れ切った足取りで歩道を歩いていました。
百メートルほど先にある三叉路の突き当たりにアメリカ領事館が見えて、その門扉は左右に大きく開け放たれています。
雨桐が、「もうちょっとだからね」と微笑むと、雨萱は、「うん」と頷き返しました。
でも、二人が三叉路に差し掛かったところで、突然、左右の道から大勢の公安官が現れました。手にはそれぞれ拳銃を握り、その銃口を二人に向けています。
とっさに雨桐が、「逃げて!」と叫びながら、雨萱を庇うように両手を広げて足を踏み出しました。次の瞬間、パンと乾いた銃声が響き渡り、雨桐が仰向けに倒れました。
「お姉ちゃん!」
雨萱が駆け寄ると、雨桐の胸元が真っ赤な鮮血に染まっています。
「にっ……逃げて……雨萱……」
擦れ声で呟いた雨桐の瞳の光が消えました。
「お姉ちゃん!」
雨萱は、まだ温もりが残るその遺骸に縋り付きました。
「動くな!」
雨萱の背後で公安官たちの怒声が響き渡りました。
異変の始まりは一月前のことでした。
突然、夜遅くに大勢の公安官が家に押し入ってきたのです。
お父さんとお母さんはすぐに連行され、一人残された雨萱は、台湾の大学に留学中のお姉さんに電話をかけるよう強要されました。
雨萱が「助けて!」と泣きながら受話器に向かって叫ぶと、満足したように公安官は電話を切りました。
その日から二人の公安官が家に常駐し、小学校の行き帰りも自動車で後をつけて、昼夜の別なく雨萱を見張っていました。公安官たちは、雨萱の父を政府の反乱分子だと罵り、国外にいる姉も必ず捕まえると息巻いていました。
そんな辛い状況でも、雨萱は、お姉さんが助けに来てくれることを信じて、じっと耐え続けていたのです。
そして一月が経った日の昼過ぎ、雨萱は小学校の帰り道で細い路地に差し掛かりました。
その時、不意をつくように家屋の戸口からお姉さんの雨桐が現れ、そのまま雨萱の手を引いて駆け出したのです。二人は何度も路地を曲がり、やっとのことで公安官をまきました。それから歩き続けて、ようやく夕方にアメリカ領事館の前まで辿り着いたのでした。
雨萱がお姉さんの遺骸を涙ながらに抱き締めていると、白桃のような甘い香りに包まれました。それは幼い頃から慣れ親しんだお姉さんの香りでした。
「立て!」
公安官が雨萱の腕を掴んで、無理やり姉の遺骸から引き剥がしました。
その時、俄かに真っ黒い雲が頭上に湧き、ゴロゴロと地鳴りのような雷鳴が響き始めたのです。そして、バンという天地を引き裂くような轟音とともに、目も眩むほどの稲妻がお姉さんの遺骸に直撃しました。
あまりの衝撃に地面が震え、肝を潰した公安官が雨萱の腕から手を離しました。
とっさに雨萱がお姉さんの遺骸のほうに駆け寄ると、不思議なことに跡形もなく消えています。
訳が分からず、雨萱はヘナヘナと黒焦げの地面の上に座り込みました。空には、どす黒い雨雲が分厚く立ち込めています。
「面倒だ。ここで始末してやる」
公安官が銃口を雨萱に向けました。
その瞬間、ドンという轟音とともに、その拳銃に稲妻が落ちたのです。その衝撃で公安官は十メートルほど吹っ飛び、そのまま地面の上で大の字になって伸びていました。
それを目にした他の公安官達は、慌てて手に握っていた拳銃を放り出すと、首を縮めながら空を見上げました。その時、頭上の雨雲が叩きつけるような夕立を降らせ始めたのです。滝のような雨粒がすっぽりと雨萱を包み込みました。
すると、地面に両手を突いてうなだれていた雨萱の胸の内に、「立ちなさい、雨萱!」と、雨桐の声が響いたのです。
降り注ぐ雨で既にずぶ濡れとなっていた雨萱は、ハッと顔を上げました。口の中に入った雨粒がまるで白桃の雫のように甘く感じられました。
「さあ、立ち上がって走るのよ」
胸の内に響いてくる雨桐の声に導かれるように、雨萱は立ち上がると、アメリカ領事館の門に向かって駈け出しました。
「おい、待て!」
周囲の公安官達が動こうとしたその時、ドンという轟音とともに、彼らの目の前に眩い稲妻が落ちました。泡を食った公安官達は地面に身を伏せました。
天地を引き裂くような雷鳴と激しい夕立の中を駆け抜けて、雨萱は領事館の門に飛び込みました。すると、たちまち夕立がピタリと止み、雨雲が空に溶けるように掻き消えたのです。
雨萱が空を見上げると、夕日が西の地平線に半分沈み、赤く染められた夕焼け空には一番星が瞬いていました。そして、雨萱の周りには白桃の香りが微かに漂っていました。
僕を包んでいた真っ白い光が消えた。目の前には、巨大な光の玉が空中に漂っていた。
僕は光の玉に向かって、「あの子は?雨萱は?」と声を張り上げた。
「難民申請が認められ、今はアメリカにいます。学校に通っている彼女の夢は、弁護士になって祖国で虐げられている人々を救うことだそうですよ」
「そうですか……」
僕は小さな声で呟いた。
「お姉さんに助けられた命を、あの子は他の人々のために使おうと頑張っているのです」
「……」
僕には返す言葉も無かった。今、自分は何をやっているんだろうと、しょんぼりと肩を落とした。
「では最後の七つ目の軌跡です」
再び僕の体を白い光が包んだ。
その光の中に映し出されたのは、天佑のお兄さんの姿でした。学校の運動服を着ています。
五人の上級生に囲まれて、お兄さんは校舎の壁に押しつけられていました。
「お前、俺たちの言うことが聞けないっていうのか」
「ああ、そうだ」
「ふざけんな、お前」
上級生の一人がお兄さんの胸ぐらを掴みました。
「いいから金を持ってこい。俺たちの親は政府の幹部だぞ」
「だからなんだ」
上級生を睨み返しながら、お兄さんが凄みました。
「てめえ!」
上級生が右手の拳を振り上げると、お兄さんの頬を殴りつけました。ゴンと鈍い音が響き、お兄さんが地面に倒れ込みました。
「俺たちに逆らうと、こうなるんだよ」
上級生たちが地面に突っ伏したお兄さんを見下ろしています。
お兄さんは地面に手を突きながら、ヨロヨロと立ち上がりました。そして、周りを囲む上級生たちに鋭い視線を投げると、「お前たちに渡す金はない」と毅然と言い放ったのです。
「ほおー、まだ分からんのか」
お兄さんの正面にいた上級生が、再び拳を振り上げました。
その瞬間、お兄さんは腰を落としてグンと踏み込むと、両腕を伸ばしながら、開いた掌で上級生の胸元を突きました。すると、体をくの字に曲げながら上級生が真後ろに吹っ飛みました。そのまま背中から地面に落ちると、「うーっ」と苦しげな唸り声を上げています。
それを目にした残りの上級生たちが目を剥きながら後退りしました。
お兄さんはフーッと大きく息を吐きながら、青くなっている上級生たちの顔を見回していました。
実はお兄さんはカンフーの達人だったのです。初級中学の大会では地区大会で何度も優勝していました。
一番背の低い上級生がお兄さんを指先しながら、「いっ……いい気になってんじゃねぇ」と声を震わせました。
お兄さんがその上級生を睨みつけました。その視線に堪え切れず、その上級生は更に一歩、後退りすると、「お前のことは知ってる。地元が一緒だからな」と強がるように声を張り上げました。
「それがどうした」
お兄さんがその上級生に向かって、ドンと足を踏み出しました。
背の低い上級生は頬を強張らせながら、「孤児院出の弟がいるだろう。どうせゴミ溜めから拾ってきたゴミだ。お前の代わりにあいつをボコボコにしてやる」と毒づいたのです。
その言葉に、お兄さんの瞳が稲光のようにギラリと光りました。
次の瞬間、お兄さんは鋭くダッシュすると、そのまま飛び上がり、その上級生の顔の真ん中に蹴りを入れたのです。
ドウと鈍い音を立てながら、上級生がもんどり打って地面に倒れました。
お兄さんは「弟に手を出すな!」と叫ぶと、地面に仰向けに倒れている上級生に馬乗りになって、その顔面に向けて続けざまに左右の拳を叩き込みました。
その時でした。
ドンと、お兄さんの背中に、残りの上級生の一人が体をぶつけてきました。
お兄さんの動きがピタリと止まり、そのまま横倒しに倒れました。その背中には、大きなサバイバルナイフの柄が突き立っていたのです。
お兄さんに顔面を殴られて気を失っている仲間を抱き抱えながら、上級生たちはその場を逃げるように走り去りました。
お兄さんの口元から滴った真っ赤な血が、その頬を伝っていました。
「天佑……」
呻くように小さく囁くと、その瞬間、お兄さんの瞳の光が消えました。
僕を包んでいた白い光が消えた。
(兄さんは……僕のために……命を……)
崩れ落ちるように、僕はがっくりと膝を突いた。
(そんな……そんな……)
唇を震わせながら、僕は両手で頭を抱えながらうずくまった。両目からどっと涙が溢れ出し、その雫が屋上の縁のコンクリートを濡らした。
『天佑、聞いてくれ。俺が死んだのはお前のせいじゃない』
ハッとして顔を上げると、目の前に浮かぶ光の玉から、四方に向かって白銀の閃光が放たれていた。それは、兄さんの瞳の中に宿されていた光と同じだった。
「にっ……兄さん?」
光の玉から放たれる白銀の閃光が、眩ゆいほどに輝きを増した。
『お前に見せた七つの軌跡は、どれ一つとして終わってはいない。まだ続いているんだ。目を閉じてごらん』
兄さんの声に導かれるまま、僕はゆっくりと瞼を閉じた。
ウイグルのトルディ、南モンゴルのアリマと日本人の耕作、チベットのアデ、香港の庭、台湾の志明と恋人の雨桐、その妹の雨萱、そして兄さん。
それぞれの姿が、頭の中で走馬灯のように次々と浮かんでは消えていった。
(悲しんでいるのは……苦しんでいるのは……僕だけじゃなかった……)
僕は瞳を大きく見開いた。
『そうだよ、やっと気づいてくれたかい。天佑、お前にはまだやることがあるんだ』
「やること?」
『七つの軌跡を一つの輪に繋いで欲しい。そうすれば、きっと未来を変えることができる』
「兄さん……」
『人には生き通しの生命がある。誰の魂も決して消えることのない光なんだ。その光は、必ず他の誰かを照らすことができる。今の俺だってそうだ』
「他の誰かを照らす……光……」
僕の頬には途切れることなく涙の筋がつたっていた。
『お前に見せた軌跡は、これからお前が照らすべき人々の姿だよ』
「照らすべき人々……」
『そうだよ。これからお前自身が、新たな軌跡を刻んでいくんだ。みんなの悲しみを束ねて、未来を変える力にしてくれ。お願いだ』
僕は零れ落ちる涙もそのままに、「ああ、きっとそうするよ……みんなの悲しみを繋ぎ合わせて、この世界を変えてみせる……兄さんのためにも……」と深々と頷いた。
すると、目の前で輝いていた光の玉が、ロウソクの炎を吹き消すようにフッと消え去った。
その時、ふいにゴウゴウと唸りを上げるように轟く竜巻の音が耳に聞こえ、続いて、草原を覆う夏草の匂いが辺りに立ち込めるのを感じた。
それから、チーンというティンシャの甲高い音が鳴り響き、さらに耳を澄ませていると、ポッポーという汽笛の音が遠くに聞こえた。
そして最後に、マンションの屋上を吹き通る風のなかに、白桃のような甘い香りが混じっているのに気づいた。
「みんな……ありがとう……」
そう呟いた僕は、再びフェンスをよじ登って越えると、階段口に向かって、力強く足を踏み出した。
ふと顔を上げて夜空に目をやると、星の一つが眩ゆいばかりに輝きながら、キラキラと白銀の光を放っていた。




