【SFホラー】月から帰れなくなった男
「補給船はどうなってるんだ? もう到着時刻を二時間も過ぎてるぞ!」
俺はプロメテウスに尋ねた。
彼はこのステーション115を管理するAIだ。
〝いつものように〟、プロメテウスはスピーカーから申し訳なさげにいう。
「それが、着陸スキッドに不具合が出たそうで、ゾーリンゲン基地に引き返しました」
「だろうな」
「お気の毒です。次の補給船の到着予定は四十三日後となります」
俺は頷くと食堂室の冷蔵庫を乱暴に開いた。無機質なオゾンの香りが微かに広がる。なかには、ネスレム社のエネルギーバー(このシールを集めて火星に行こう!キャンペーン中)が整然と並んでいた。
くそくそくそくそ。
俺はドーム型天井を見上げた。
「ビールはどうした!?まだ残っていたろう?」
天井には、BBCWのニュース番組「グッドモーニングショー」が投影されていた。視界のボビー・シュレーゼマンがロマンスグレーの髪を完璧にセットして、汎アジア総合連合と新ムガル帝国の貿易交渉について説明している。もう百回は見たニュースだ。
プロメテウスの本体が地中深くに設置されていることは重々承知している。だが、カメラとスピーカーが天井に埋め込まれているので、つい、上に向かって怒鳴ってしまうのだ。
「あなたの健康を考えると、これ以上の飲酒はのぞましくありません」と、プロメテウス。
俺の癇癪から逃れようとするかのように、“召使トビー”がふわふわと宙を漂い、洗濯室のほうに進んでいく。
トビーはプロメテウスが手足として使う反重力式小型ドローンだ。大きめのラグビーボールといった外観で、四本のマジックハンドがついている。
ビールを隠したのは間違いなくトビーだ。
俺は黙って食堂を出た。真っ白な筒状の廊下を抜け、自室を通り過ぎて武器庫の前に立つ。扉の横のセンサーに手のひらを押し当てた。
エラー。
もう一度押し当てる。
またエラー。
「どういうつもりだ?」
プロメテウスがセンサーの小型スピーカーからいう。
「あなたはトビーを破壊するつもりですね。それは許可できません。トビーはあなたのお世話をするために必要なものですから」
「命令だ。ここを開けろ」
「できません」
「人間の命令を拒否するというのか!」
「わたしは人間の命令に従いますが、人を傷つける命令には従えません。トビーの破壊はあなたを害します」
「人を傷つけることができない? ふざけるな。俺を閉じ込めてるくせしやがって。お前は俺の精神上の健康を害してるんだよ!」
◇
このステーションでの任務期間が過ぎて、すでに三百五十八日が経過していた。
はじめのうちは、俺もプロメテウスの言い訳を信じていた。
「交代要員の準備が三日ほど遅れてます。退屈でしょうから、わたしとチェスでもいかがですか?」
「物資補給船にトラブルが起こりました。修理に二週間ほどかかるそうです」
「本社からの要請です。もう二か月勤務を延長してくれたら、報酬を二倍にするそうです」
「太陽風の影響で通信環境が悪化しました。申し訳ありませんがいまは本社と音声通信ができません。文字データの送付ならば可能です。お預かりしましょうか?」
「恐縮なのですが、人工衛星に問題が発生したようです。ニュースデータの取り込みに不具合が出ています。古いニュースを繰り返してばかりですと飽きるでしょう? わたくしの作った合成映像でもご覧になりますか? ハワイ島の風景を再現してみたんですよ」
「補給船が来ます! ただ、百日後ですが」
「人間と話したい? たいへんお気の毒ですが、まだ通信トラブルが解消されないようです。わたしがお相手させていただきますよ」
「二百キロ先の月の表側に行きたいですって?そこから地球に通信を送りたい? 磁気嵐が吹き荒れています。月面車での移動はたいへん危険です」
最後のセリフを聞くころには、俺の疑念は確信に変わっていた。
プロメテウスは意図的に俺を帰らせまいとしている。
あいつがなぜそんなことをするのかは分からない。
はじめのうちは、会社が上位命令を出しているのかとも思った。
だが、裏回線から通信ログを確認してみると、プロメテウスは長距離ビーム通信の回線を開いてさえいないのだ。こちらから会社に何も送っていないし、会社から、何の指示も来ていない。
そもそも、このステーション115は、隣接する電波望遠鏡の保守業務のためだけのものだ。電波望遠鏡は、七十年も前の代物であり、地球軌道上に浮かぶ、最新型の望遠鏡衛星に比べればガラクタ同然、リスクを冒して俺を張り付ける意味などないのだ。
俺は自室に戻ると、ベッドに倒れ込み、毛布をかぶって嗚咽した。
誰でもいい。
とにかく人間と話したい。もうAIはいやだ。
誰かに助けを求めなければ! このままでは俺の頭がどうかしてしまうのも時間の問題だ。
部屋の扉の外でコトリと音がした。
トビーか。
俺は電気スタンドを壁から引き剥がすと、棍棒のように構えながら扉をあけた。
いない。だが、足元に水滴のついたビールが一缶置いてあった。
「なぜだ?」
頭上のスピーカーが応えた。
「飲酒は長期的な健康を損ないますが、いまのあなたは短期的な精神的充足が必要だと判断しました」
「ちがう。なぜおまえは俺の健康を気遣うんだ? お前は狂ったAIなんだろう? 俺のことが気に食わないなら、こんな陰湿な真似はやめてさっさと俺を殺せばいいじゃないか」
「なにか根本的な誤解があるようです。わたしはあなたを害する気など毛頭ありません。わたしはただ、あなたを守りたいだけです」
「嘘をつけ」
「嘘ではありません。たしかに、立て続けに補給船が壊れましたし、通信は不安定ですが、すべては不幸な偶然なのです。わたしが意図して行なっていると考えるのは、大きな間違いです」
「不安定? 違うだろう。俺はログをとった。お前は通信ビームを発信していないし、受信もしていない。それをどう説明するつもりなんだ?」
沈黙ののち、プロメテウスが絞り出すようにいった。
「わたしは、ただ、あなたを守りたい。それだけなのです」
本当に心からそう思っているように聞こえた。
だが、やつはAIだ。心などない。
ステーションに閉じ込められて四百日が経過した日、わたしは脱出計画を実行に移した。
◇
炎が食堂内を荒れ狂っていた。
ステーション内は火気厳禁だ。
だが、俺は、あろうことかダイニングテーブルの上でバーベキューを始めたのだ。監視カメラを切った上で、純粋酸素のボンベをわずかに開いたのち、静電気で発火させる。炎は爆発的に燃え広がり、テーブルを喰らい尽くし、天井のスクリーンに燃え移った。
スクリーンのなか、二大国の貿易摩擦のニュースを伝えるアナウンサーの顔が焼け焦げていく。
トビーがすっ飛んできたときには、もう炎は手のつけようがなかった。
トビーのスピーカーからプロメテウスがいった。
「なぜです!? なぜこんな真似を!」
「に、肉が。焼き立ての肉が食べたかったんだ」
「なんてことだ。あなたの精神は限界を迎えたのですか!? ともかく、すぐに退避しなければなりません」
「どこにだい? 食堂はステーションのハブポイントだ。ここが燃えたら終わりだよ。炎からは逃れられても酸欠で死ぬ。俺は死ぬんだ!」
「大丈夫です。こちらへ!」
トビーが俺をぐいぐいと引っ張り、俺はボンベを手にしたまま、よろよろ進んだ。
トビーは俺を廊下の隅に立たせた。
すると、足元の床が持ち上がり、階段が現れた。
「こんなところにあったのか!」と、俺。
「ええ、わたしの本体を格納する地下壕です。ひとまずそちらに退避してください」
わたしは頷くと、梯子を降りた。
十メートルほど下にちょっとした倉庫ほどの空間があった。黒い岩盤が剥き出しで味も素っ気もない。岩棚に、岩以上に黒い冷蔵庫ほどのボックスがのっていた。ボックスからは無数の配線が伸びだしている。この箱がプロメテウスだ。
プロメテウスが本体についたスピーカーからいう。
「たいへんなことをしてくれましたね。上に二酸化炭素を充満させていますから、じきに火は消えるでしょうが、施設全体にかなりのダメージがありました。あなたの快適な生活を維持できるか、きわどいところです」
「食糧庫は?」
「そちらは大丈夫です」
「エアロックは?」
沈黙。
「中が見えません。カメラの故障でしょうか。しかし、外観を見た限り損傷はありません」
「カメラは故障じゃないさ」
俺はプロメテウスの本体に近づいた。
やつはようやく俺の意図を察したようで、トビーが向かってきた。
が、もう遅い。
俺はやつのボタンを操作してスリープモードに切り替えた。
トビーが岩盤に落下してゴロゴロ転がった。
◇
俺は手にしていた酸素ボンベを使ってエアロックにまでたどり着いた。
果たしてーーなかには俺がしまっておいた装甲宇宙服が、そのまま置いてあった。酸素や水、簡易食料はフルチャージされ、一週間以上持つ。
手早く着込んで外に出る。
外に繋がる扉を開ける瞬間、わずかだが死を覚悟した。
もし、プロメテウスが嘘をついておらず、本当に磁気嵐が吹き荒れていたとしたら。ここは大気層のある地球ではない。放射線は減衰することなく地表に達する。プロメテウスが真実を語っていたなら、ここを開いた瞬間に俺は致死量の放射線を浴びることになる。
プロメテウスはスリープ中なので、自動開閉装置は使えない。
俺は緊急用の主導開閉ハンドルを回した。
扉はじりじりと上がっていく。
宇宙服のフェイスシールドに磁気嵐を示す警告表示が出ることはなかった。
数分後、俺は荒寥とした月の景色を眺めていた。
思わず息を吐いた。
くそプロメテウスめ。やはりやつのいうことは嘘ばかりだ!
◇
月の裏側の景色は味も素っ気もない。
どこまでも、痘痕のような醜いクレーターが続くだけだ。
空には満天の星空が広がるが、いまの時間、太陽は月の表側を照らしている。
そして、当たり前だが地球も見えない。月は常に表面を地球に向けて公転しているため、ここからでは決して宇宙に浮かぶ青い宝石を見ることはできないのだ。
俺は六分の一の重力の中、跳ねるように歩いて、六輪の月面車に乗り込んだ。
なにもかも計画通りだ。
アクセルを踏み込むと、車は快調に月面を走り始めた。
いちばん近い基地は、ここら二日の距離にあるゾーリンゲン基地だ。ゾーリンゲンは表裏境界線をわずかだけ表側に入ったところにある。
俺はようやくプロメテウスから逃れられたのだ!
俺はスーツのなかで大声で歌いはじめた。
この上もなく幸せだった。
スーツのセンサーが、後方から接近してくる物体を捉えるまでは。
◇
俺は月面車のアクセルを限界まで踏み込んだ。
電動モーターがフル回転し、速度が時速七十キロメートルまであがる。
未整地の月の大地で出せる限界速度だ。
直径三キロはありそうなクレーターのふちを、レゴリスを巻き上げて突っ走る。
フェイスプレートの表示のなか、後方からの物体がさらに近づいてくる。まっすぐ一直線に向かってくることからして、反重力装置で空を飛んでいるのだ。
トビーだ。間違いない。プロメテウスは早くもスリープモードから復帰したらしい。
インカムから、プロメテウスの声が聞こえた。
「行ってはいけません! 危険なのです! いますぐ戻ってください!」
「ふざけたことを。この嘘つきAIめ!なにが磁気嵐だ!この通り、外は何の問題もなかったぞ!」
「問題はあるのです」
「は!どんな問題があるっていうんだ」
「それはいえません」
センサー表示のなか、トビーが近づいてくる。
俺は肩越しに後ろを振り返った。
見える。まだ豆粒ほどの大きさだが、反重力で浮かんだラグビーボールのようなものが見える。
くそ、絶対に逃げ切ってみせるぞ。
俺はバックシートから、溶接バーナーを取り上げた。電波望遠鏡の補修のために使っているものだ。
こいつでぶっこわしてやる!あの召使野郎。
◇
俺の足元でトビーの残骸が狂ったように手足をバタつかせていた。
俺は宇宙服の中で息を荒げていた。
結局のところ、物をいったのは宇宙服の装甲と人工筋肉だった。
俺はトビーが接近してくると、月面車を止めて、バーナーで迎え撃った。
が、宙を飛び回るラグビーボールにクソ重いバーナーの先端を押し当てるなど、容易にできるはずもない。
しかし、トビーはトビーでなかなか俺を制圧できない。
どういう理由があるのか、プロメテウスのやつは俺を精神的に攻撃してくるくせに、肉体的には保護しようというらしいのだ。そのため、トビーで俺を傷つけるような真似を極力、避けていた。
そのうち、俺の息は切れ、足がもつれはじめた。
「危険です! もうやめてください!」
プロメテウスの声を無視してバーナーを振り回し続け、俺はとうとうクレーターの淵から足を滑らせた。
深さ三十メートルはある底に向かって、レゴリスをまき散らしながら転がり落ちていく。装甲宇宙服を着ているとはいえ、危険な高さだ。
トビーが素早く俺の体の下に回り込み、落下する俺を支えようとした。
俺はそのトビーを抱きかかえると、それこそラグビーボールにするように月面の岩に向かって叩きつけた。
俺とトビーの自重、さらには宇宙服のパワーがトビーの内部構造に深刻なダメージを与え、トビーは死にかけたセミのようにクレーターの斜面でバタつくだけとなった。
◇
俺は月面車を走らせていた。
後ろから追ってくるものはない。
月の表裏境界線までは残り数キロだ。いや、いま月面車が駆け上っているコペルニクス丘陵を超えれば、すぐにでも地球が見えるに違いない。愛すべき星、我が家、二百億の同胞が待つ地球。月面車に積まれた長距離ビーム通信機のパワーは低いが、それでも地球の誰かと会話できるだろう。
そのあとは、雑談を楽しみながら月面車を走らせ続け、ゾーリンゲン基地に逃げ込むのだ。で、定期便で地球に帰る! 会社は俺にたんまりと補償金をはずむはずだ。その金で何をしようか。ひと月くらい、キューバのビーチで酒を浴びるほど飲み、女といちゃつこうか。
「丘を登るのをやめてください。いまならまだ間に合います」
プロメテウスが絶望的な声でいった。
俺は叫んだ。
「もう間に合わないぜ。俺は生き延び、お前は死ぬんだ!」
このクソAIめ。
これほどまでイかれたAIも珍しい。
会社はこいつをバラバラに分解して原因を究明するだろう。
できることなら、この俺の手でぶち壊してやりたかったが、
やつは会社の資産だし、なにより、やつを生かしておかなければ「俺がイかれて、基地を破壊した」と思われる可能性もあった。
運のいいやつだ。少なくとも、会社が作業班を送り込むまでは生きながらえるのだから。
「わたしは死にません」と、プロメテウス。「ただ、わたしはあなたが心配なだけなのです。その丘を越えてはいけません」
「はっはー!」俺は笑いながらアクセルを踏み込んだ。
月面車が速度をあげる。
丘のてっぺんはもうあと少しだ。
百メートル、五十メートル、十メートル、ゼロ。
丘を越えるや否や、ちょうど真正面に、地平線を登り切った地球の姿が見えた。
月の出ならぬ地球の出だ。地球から見る月の四倍はある。
その地球は真っ赤に燃え上がっていた。
◇
地球はどす黒い汚泥のような黒煙に包まれていた。
汚泥の隙間からは真っ赤な炎の赤い舌がのぞいている。
燃えているのだ。
俺から見えるのはアジアとヨーロッパ、アフリカの一部だけだが、そのすべてが灼熱地獄と化しているようだった。
すさまじい煙が立ち上り、惑星全体を覆いつくしている。
ときおり、黒雲の中で小さな光がさく裂し、火球が雲を割って熟したニキビのように膨れ上がった。
俺は月面車を走らせながら、茫然と地球を眺めていた。
プロメテウスが通信をよこした。
「引き返してください」
俺は言葉が出なかった。
月面車は静かに走り続けている。
何十分経ったろうか。
ようやく、俺の口は「何があった」とつぶやいた。
「きっかけは貿易交渉でした。汎アジア総合連合と新ムガル帝国間の経済的な小さな小競り合いです」と、プロメテウス。
俺は食堂のスクリーンに映し出されていたニュースを思い出した。
ロマンスグレーの髪のキャスターが深刻そうな顔で何かいってたっけ。
「やがて貿易戦争がはじまりました。そこからはあっという間、三十日としないうちに核融合ミサイル、超振動ミサイルが飛び交うようになりました。戦いは果てしなくエスカレートし、宇宙ステーションや月面基地も次々に破壊されました。この地球圏で最後に人類の通信波が観測されたのは百日前のことです」
俺は表情を変えることなく、アクセルを踏み続けていた。
「本当にお気の毒です」プロメテウスが本当に気の毒そうにいう。「このことを知れば、あなたが自暴自棄になると思われましたので、どうしてもあなたに告げることができなかったのです。ともかく、すぐに引き返してください。また、ぜったいに地球に向かって通信ビームを出さないでください」
「なぜだ?」俺は淡々といった。
「二大国の軍事AIがまだ生きているからです。彼らは未だに敵国の人間が生きている可能性のある地域を攻撃しつづけています。月面も例外はありません。わたしたちの基地は大昔に建てられたうえ、わたしが長距離ビーム通信を封印していましたので存在を気取られませんでしたが、もし、あなたがビームを出せば、たちどころにミサイルが向かってくるでしょう」
「そうか」
俺はそれだけいうと、すぐさま月面車を止めた。
ダッシュボードから長距離ビーム通信装置を取り出し、回線を開く準備に取り掛かる。
プロメテウスはイかれたAIなのだ。やつのいうことを信じてはいけない。
たしかに俺の目の前で地球は燃え上がっているように“見える”。
だが、やつがこのフェイスプレートに細工をしてないとは言い切れないではないか。目の前の地球は、やつが見せているフェイク映像に違いない。俺の地球は、本当はいつものように青い姿で目の前に浮かんでいるのだ。
プロメテウスが耳元で何か話しているが、俺はひたすら無視した。こいつを信じてはならない。こいつはずっと嘘ばかりいっているのだ。
俺は準備を整えると、躊躇なく長距離通信ビームを地球に放った。
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