ANGEL SNOW
あの日、俺は漆黒の夜空を見上げていた。
サンタクロースやトナカイのネオンが絶えず輝いている街。クリスマスソングが流れ、お祭りムードに包まれた世界。楽しいはずのクリスマス・イブ。
ぶ厚い雲に覆われた空から、次第に白い雪が静かに降り注いだ。
あの日、彼女は本物の天使になった。
俺はどうすることも出来ず、ただ綺麗だなってそう思うしかなかった。天に舞う彼女が、この世のものとは思えないほど美しかったことを覚えている。
自分自身の無力さと一緒に。
――昔の夢を見た。
悪夢と言っても過言ではない、思い出したくない記憶の繰り返し。
枕元の時計を見ると、今が七時半であることがわかった。もちろん朝だ。部屋に掛けてあるカレンダーを見て今日が日曜日であることと、巷では “クリスマス・イブ”なのだと思い出す。そして、今日の予定があったことも。
すぐに起きて、一階に下りる。無論、家族と一緒に朝食を取るためだ。
一階の台所には、親父にお袋、そしてお祖母さんの三人の姿があった。兄貴の姿が見られない様子からして、今日も仕事なのだろう。
それぞれ三人におはようと、挨拶を済ませてから洗面所で顔を洗いに行く。この習慣は幼い頃から欠かさない、俺の最低限のマナーだ。何時、如何なる礼儀は重要だと思う。
「母さん。今日の夕飯、要らないから」
「あら、悠。もしかして、女の子とデート?」
「そんなわけないだろう。友達と出掛けるんだよ」
そう応えると、親父が新聞から目を離して
「なんだ、クリスマスなのに付き合う女もいないのか。寂しい奴だな」
「うるせえっ! ほっといてくれよ」
親父の小言に反論しながら、俺はトーストに噛り付いた。
家族との朝食後、一旦部屋に戻って必要な物をバッグに入れる。必要な物と言っても、財布と携帯とあと車の中で聞くCDだけだ。
灰色のロングコートを着込み、玄関をでる直前に親に「じゃあ、行ってくる」と伝える。親父もお袋も異口同音に「気をつけて行けよ」と返してきた。お祖母ちゃんはさらに「あまり遅くならないように」と付け加えて。
十二月の外はコートを着ていても寒い。俺は小走りに駐車場まで行き、車のドアを開け、バッグを助手席に無造作に置いてからエンジンを掛ける。そしてそのまましばらく冷えきったエンジンを温める。
その間、俺はコートの内ポケットから煙草を取り出し口にくわえ、火をつけた。吸うと口の中に煙草の味が広がる。白い煙を静かに吐き出し、また吸った。それを何回か繰り返した後で、車に乗り込む――やっぱりこの時期の外は冷える。心なしか、今日は一段と寒い気がした。
大学に通いつつ、バイトで得た金を一年以上貯金して、やっと手に入れた中古車だ。
運転席に座りメーターをチェック。異常なし。ガスも満タンだ。ミラーや席の位置を合わせ。両手をゆっくりハンドルに置く。愛車に「今日も頼むぞ」そう呟くと、レバーをパーキングからドライブにいれ、そしてサイドブレーキを下ろす。アクセルをゆっくり踏みしめると、俺を目的地まで運ぶため車は動き始めた。
休日の道路は予想通りの混雑していた。だが、そこまでひどい渋滞ではない。その証拠に少しずつながらも前に進んでいる。時計を見ると、約束の時間までまだ二〇分以上余裕がある。このままの状態でも約束の九時前に待ち合わせ場所に着くことができると思った。
カーラジオをつけると、タイミングよく流行りの歌が流れかかっていた。ラジオから流れる曲を口ずさみながら、車を動かすと不思議なことにまるで曲のリズムにでも乗ったかのように、しばらく車は一度も止まることなくスムーズに進み続けた。
俺は一人の時は好きだ。たった一人で過ごす時間が。もちろん、誰かと一緒にいる時間の方が楽しくてずっといいのだが、一人の時間も案外悪くない。孤独を感じ、気まぐれになり、誰にも邪魔されない時間。さまざまなことを考え、そして自分が自分自身なんだと感じることが出来る唯一の時間。
その束の間の時間が、もうすぐ終りを告げようとしていた。
まったく、『人生、一寸先は闇』とはよく言ったものである。
待ち合わせの公園に一番乗りで着いた俺は、車を近くのコインパーキングに駐車して、友人達を待った。待っている間、煙草を吸っていると、友人二人から相次いでメールが入った。差出人の一人は小学生の頃からの友人である村上隆一、もう一人は隆一の彼女――池田美沙からであった。
結論からいうと、二人とも急用が入って来れなくなった、そう言ってきた。なんて奴らだ、よりにもよってダブルドタキャンされるとは、夢にも思わなかった。気のせいかもしれないが、眩暈と頭痛がしてきた。もう一人の女友達が来たら今日は無理だと言って帰ろうかと考えていた。正直、面倒になったのだ。だがそれでは彼女が可哀想な気もしたが、今は自分のことが先だ。
五分後。もう一人の女友達――木見塚里奈はやってきた。最初、遠くから小走りで来る女性が木見塚だとはわからなかった。だが次第に近づくにつれ、その女性が木見塚であることに気づいた。そのとき俺は、咥えていた煙草が口から落ちたことすらまったく気づかないまま、しばらく木見塚に見とれていた。ロングコートとマフラーにスカート、そしてブーツ。普段の木見塚里奈は、俺や隆一と同じ二一歳ではあるが、どこか大人の女性っぽさより少女っぽさの方が強く、少々地味な印象があったが、化粧をしている今はそれすら微塵も感じられない。どう見ても大人の女だ。
「お待たせ、谷嶋くん。……あれ、村上くんと美沙ちゃんまだ来てないの?」
息を切らせながら、木見塚が訊いてきた。我に返った俺はそのときになって、自分が煙草を落としていたことに気づいた。
「ああ、あの二人なら来ない。ドタキャンしやがった」
「えっ!? そんなぁ……」
目を丸くして驚く木見塚。しかし、俺は何故か違和感があった。
ドタキャンするにしては二人ともタイミングが良過ぎる。前々から計画していたかのように――。まさか! いや、有り得ない話ではない。さらによく考えてみると、「クリスマスに皆で集まって何処かに行こう」と言い出したのは他ならぬ隆一カップルだ。俺は当初、面倒だと断ったがあの二人はくどいほど説得された結果、今に至るわけだが。とどのつまり、俺は最初っから作戦に嵌っていたのだ。
「くそっ!!」
聞かれないよう口の中で毒づく。隆一たちに対し、恨み言の一つでも言ってやりたかった。だが何より恨むべきはこうも簡単に人の作戦に引っ掛かった自分自身だ。
「なっ、何!? 突然叫んだりして?」
「ちょっと、嫌なことを思い出してな」
上手い言葉が思いつかず、適当にごまかす。
「向こうから、誘っておきながら来ないなんて、ホント最低ねっ!」
顔を膨らませながら怒る木見塚。何故だろう、不思議と可愛いと感じてしまう。
「でも――」
急にトーンの落とした木見塚の声は、ちょうど通りかかった宣伝カーによりかき消され、俺の耳にまで届くことはなかった。
「さあて、問題はこれからどうするか、だ」新しく煙草を取り出しながら続けた。
「あいつらが来ないんじゃぁ、ここにいても仕方ない。俺は帰るよ」
「……それって、今着いたばかりの私にも帰れってこと?」
木見塚の鋭い視線が、俺を石のごとく固まらせる。
「い、いやぁ、そういうわけじゃぁ。木見塚が好きなようにするといいさ。誰か他の友達と映画でも見に行くとか、好きなようにしてくれ」
「ちょっと、何それ!? 自分は帰るから後は好きなようにやれって、それじゃドタキャンと同じことじゃない! それに今日はクリスマスだから、友達なんか彼氏と一緒よ。こんな日を一人で過ごせって言うの!?」
「んなこと、俺の知ったことかよっ! 関係ねえな」
そう言ったあとでしまったと思った。思わず本音を言ってしまった。木見塚は目尻に涙を浮かべ、
「関係ない……谷嶋君って、そんな冷たい人だったの?知らなかった。もし仮に別れたあとで、私が変な連中に連れて行かれてひどい目にあっても、谷嶋君には関係ないことだからって、助けてもくれないんだ……」
泣き始めた木見塚を宥めようとしたが、何時の間にか周囲に人だかりが出来始めていることに気付いた。まずい、恋人同士の痴話喧嘩だと思われかねない、いや実際周りの人間達には俺と木見塚は恋人に見えているのだろう。さっきから感じる数多くの視線が何よりの証拠だ。このまま、木見塚を一人にすると本当に他の男達にナンパされかねない、そう感じた俺に解決手段は一つしかなかった。道化を演じる道しか。
「……木見塚、俺が悪かったよ。今日一日、付き合うからもう泣くな」
正直、俺にとって女性に泣かれるのは最もきついことの一つだ。
「本当に?」
「ああ、本当だ。『男たる者、一言吐いたら万金を積まれても、それを変えるべからず』というのが、俺の信念だからな」
「それじゃぁ、映画に行こう。この前、お父さんが知り合いから前売りチケット貰ってきて友達と見に行きなさいって、くれたから」
未だ潤んだ瞳の木見塚もまた可愛いな、と密かに思った。今日の俺はどうしたのか……。
「いいよ。それで、何の映画?」
「ええっと、……これよ」
チケットを見た俺は、飛びあがりそうになるほど驚いた。その映画チケットは、俺が以前から見に行きたかった、流行りの映画だからだ。
「マジで!? よっしゃ! 何時からだろう」
時間を見ると、九時四十分から上演となっていた。ここから映画館まで歩いても一〇分ぐらいで着く。開演時間になるまで、どこかで暇を潰せばいい。
「今からなら、十分間に合うわ。早速行きましょう」
こうして、俺と木見塚のクリスマスデートが始まった。
映画館までの道のり、俺と木見塚は本当の恋人同士のように他愛もないお喋りをしながら、歩いていた。普段ならただの友達同士という感覚でなんでもないのだが、今日はなぜだがとてもドキドキした。それは木見塚がいつもの君塚でないのと、クリスマスだからということだ。頭の中でマライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」が流れている。
木見塚と本当の恋人同士だったらどんなにいい事かと思う。しかしそれは、どんなに思っても、決して実現するこのない謂わば幻だ。俺には誰かと恋人になれる資格などない。そう、あの時、彼女を守りきれなかった俺にそんな資格など。
俺たちが見た映画はラブストーリだった。物語の中盤までは、コメディーが続いたが、終盤近くなると一気にどんでん返しで観客の想像もしなかったであろう展開に発展し、最後はハッピーエンドで終わるという内容だった。
映画が終わり、やっと外に出られたときには既に十二時近くで、昼食を取るために二人でどの店にするか選び歩いた。が、昼飯時のこの時間帯ではどの店もいっぱいで仕方なく、ファーストフード店に決めた。
「ありがとうな」
席の向かい側でフライドポテトをつまんでいる木見塚にいう。
「うん! 谷嶋君が楽しんでくれたなら、私も嬉しいよ。一つ頼みごと、聞いてもらってもいいかな?」
「頼み事? 俺に出来ることなら、何でも」
「本当に。今日一日だけでいいから、私のこと里奈って呼んでくれる?」顔を赤らせながら、言った。俺はしばらくの間、硬直した。
「…………」
「やっぱりダメ?」
「わかったよ、里奈。これでいいだろう? ――そうだ、俺も悠でいいよ」
嬉しそうに微笑む木見塚、いや里奈。そんな里奈を見ていた俺は、不意にどこか虚しい気分に陥った。
所詮は道化。そう今日一日だけ、木見塚の彼氏役を演じる道化師の俺。いつも、周りが楽しそうにやっていれば、俺も合わせて楽しいように振舞う。だけど、本当は心から楽しめていない。正確には、楽しもうとしていないだけなのかもしれない、そう感じることがよくある。表面上――ピエロの仮面を着けておどけて見せた後で、意味もなく悲しさや虚しさに襲われる。いつからだろうか、こんな風になってしまったのは……。自分でもわからない。心の中のもう一人の自分が呟く――お前と俺が犯した罪は決して軽くはない、お前は生きて償わなければならない。それがあの少女への贖罪だ、と。そうだ、そのために俺は生かされたのだから。
「どうしたの、悠君。どこか具合でも悪いの?」
里奈の一言で、俺は我に返った。
「いや、大丈夫だ。ちょっと考え事をしていただけさ」
「ところで、私達が出会ったときのこと、憶えてる?」
唐突に訊いてくる里奈。
「ええっと、確か二年前、俺が初めてバイトに入ったときだったかな」
そう、あれはちょうど二年前の冬、進学先が決まった俺はバイトをはじめたが、そのバイト先にいたのが里奈だった。同い年でも彼女は俺より一年バイト上での先輩だった。
「入ったときに自己紹介しただけで、他の人とあんまり会話してるところ見たことなかったから、なんて暗いやつが入ったんだろうなって、ずっとそう思ってた。いつもだた黙々と仕事をこなしてて、近寄りがたい感じだった」
「そうだったか?」
「そうよ。わからないことを聞く以外、一言も喋らないしどこか寂しげな感じだったから、声をかけてたの」
そうだったなと、心の中で密かに呟く。里奈の言うとおり、あの頃は誰も仕事以外で近寄ってこなかった。同期はおろか先輩も後輩も、俺に近づくのを怖がっていたのは、俺自身がそんな雰囲気をしていたからだ。
人と接するのは面倒だから、人前で道化るのが嫌だから――
また誰かを傷つけてしまうのが怖かったから。
だから誰とも仕事以外で接しようと思わなかった。そんな俺を変えていったのが、里奈だった。里奈のおかげで、俺は少しずつ周りの人間とも話すようになっていった。こいつがいなかったから、俺は今もあの頃のままであるに違いない。
「ねぇ、このからどこに行く? 行きたい所、ある?」
「行きたい所か、正直思いつかねえな。適当に店を見て歩いて回ってみてもいいんじゃない?」
「そうね。それも悪くないわね」
昼食を食った後も、俺は里奈の彼氏役として徹していたつもりだったが、次第に里奈が喜んでくれるならそれでいいと、そう思うようになってきた。ローズマリーや琥珀、アメジストなどを加工し、アクセサリーとして売っている店に行ったり、プリクラを撮ったり、あの日以来、初めて楽しいと感じることができた。しかし、楽しめば楽しむほどあいつの――彼女の顔が脳裏をよぎっていた。
『う~す! 谷嶋ぁ~、生きてるか~?』
電話口でこんなアホなことを言ってくる人間は、俺が知ってる限りでは一人しかいない。今日の予定をドタキャンした、隆一だった。俺と里奈が車に向かう途中、彼女の携帯に電話してきたのだ。里奈に一通りの挨拶をし、俺にかわった。
「てめぇ、よくもドタキャンしやがったな」
怒りを抑えながら言う。それでも声はどうしても力んでしまう
『はっはっはー。気にするな。木見塚とデートを楽しむことは出来ただろう? 感謝しろよ、この腐った死体野郎』
「ああ、おかげでいい思いをさせてもらったよ。今度お礼をしてやろう――そうだな、ドラム缶にコンクリートで固めて、海の底に埋めてやる! 感謝しろ」
『うっわ~、ひっでえ~! 怖いこと言うな~。まっ、今回のことは素直に謝るよ、済まなかった』話の途中で急に声のトーンを変える隆一。
『今回のことはな、実は木見塚から頼まれたのさ』
あっさり白状する。やっぱりと俺は内心舌打ちした。
「そうだろうと思った。お前なら、まずそんなことしないからな」
わざと大声で言い、横目でちらっと里奈を見る。里奈はバレたのがわかったらしく、慌てふためいている。だが、俺は今さら里奈を責める気など皆無だった。今日一日、『クリスマス』という日を彼女のおかげで楽しむことができたのだから。
『木見塚からお前と一緒に過ごしたいから、協力してくれと言われたのさ。最初は冗談半分に嫌がらせでしてやろうと思ってたよ。だけどな、お前のことを思ったら、それは出来ないとすぐに思ったよ。どうせお前のことだから、まだあの時のことを引き摺っているだろうなって』
「……話したのか? あの時のことを木見塚に」
体の内側から何かが噴出そうとしていた。怒りなのか憤りなのか後悔か、それとも悲しみなのか、この時の俺には判断がつかなかった。
『まさか! そんなこと俺がするかどうかは、お前が一番よく知ってるはずだが。 谷嶋よ』
「…………ふん」
『ところでお前、いつまで彼女を、雪菜さんを縛り付けておく気だ?』
「!! 縛り付けるだと!?」
『そうだぜ。未だ、お前という呪縛によって彼女は静か眠れない。もう気づいているはずだろう? なのに、まだ彼女を』
「黙れっ!!」
心の中から溢れ出しそうになったものを抑えきれず、俺は叫んだ。再び脳裏を彼女の、雪菜の笑顔が横切る。俺やだけに見せたその笑顔。寂しくて哀しい笑顔。
『……だからさ。いつまでも彼女を縛ることは、お前も死人のように生きるのと同じだ。彼女のことを思うなら、そろそろ解放してやれよ』
静かに告げる隆一。昔からだ。昔からこんな感じだ。今も変わらない、こいつの人を思いやる気持ちと優しさ、そして明るさ。だが俺は
「黙れっと言っている!!」人目を憚らず、再び叫ぶ。あの時の記憶が交差する。思い出したくない、忌わしき思い出。
「…………」
「わかっている、わかってるさ。それでもな、俺はあいつに『本当の死』を与えることなんて出来ない。一度あいつを殺した俺に、また殺せというのか!? ……お前も知ってるだろう。あいつは、いつも一人ぼっちだったんだ。俺が初めての友達だった。俺に見せたあの笑顔を忘れることなど――」
束の間の沈黙があって――先に口を開いたのは、隆一だった。
『生き物は、人間はいつかは死ぬ。俺もお前もそれは同じだぜ。『本当の死』か。谷嶋、これだけは憶えておけよ。『本当の死』と、彼女を静かに眠らせることは違うんだ。お前や俺が生きている限り、彼女に本当の死は訪れることはない。それをお前が信じるか信じないかは、自由さ』
隆一は、もう一度木見塚に替わってくれと言い、俺は携帯を里奈に返した。里奈は隆一と少し話してから、電話を切った。さっきまでの甘い雰囲気は一転して、不穏な空気が俺たち二人を包む。
駐車場についても俺たちは車に乗らず、しばらく黙ったままだった。さっきのことについて、里奈は何も聞いてこなかった。恐らく、聞けないとおもったのかもしれない。それは俺にとって、良いことだった。気持ちを整理する時間が、俺には必要だったから。
隆一の言葉が頭の中で反芻していた――『俺やお前が生きている限り、彼女に本当の死は訪れない』と。その言葉が、俺にある決意をさせた。
「里奈、行きたい所がある。一緒に来るかい?」
俺は静かにそして威厳を持ってたずねた。里奈は二つ返事で了解した。
「ずっと昔の話さ」
移動中の車の中で、俺は言った。里奈は「えっ?」という顔をして俺を見た。
「彼女と出会ったのは、中学二年の秋だった……」
これまで誰にも語ることのなかった、あの日のことをあの頃のことを、絡んだ糸をほどくように、昔の記憶を少しずつ紐解きだし始めた。決して忘れることはない、俺と入江雪菜という少女との思い出……。
その少女を最初見たとき、まるで日本人形のような、それでいて触れると壊れてしましそうな儚い印象を持った。窓から差し込む秋の木漏れ日が、彼女をそう映し出していたのかもしれない。
放課後の図書室には、全くといってよいほど人がおらず、居ても図書の先生と図書委員の生徒だけであった。
本をとって、席に座ろうとした俺は見えない力に誘導されるかのように、少女と同じ席の真向かいに座った。
「今思えば、そのときから彼女に惹かれていたのかもしれん。なんせあの頃は、何をやっても楽しくなかったからな。部活なんて、ただきついばっかりで嫌だったしなぁ。あの日は部活をサボって、ただ図書室に逃げたのさ」
信号が赤に変わり、停止線の少し前で車を止める。そのまま俺は話を続けた。
真向かい側に座ったのにもかかわらず、少女は俺に何の興味も示さずただ黙々と本を読んでいた。俺も一言も喋らず、黙って本を読み続けていた。そこには、二人の無言の会話が成立していた。
流れる時間の中で続けられる無言の会話。図書館という、限られた静かなる空間の中で三〇分、一時間、一時間半、そして二時間にわたって、二人の無言の会話は続いた。そして、閉室時刻の六時前に、彼女はさきに出て行ってしまった。もちろん、何も言わず。
次の日も部活をさぼり、図書室に行くと昨日と同じ席に同じように少女は座っていた。俺も昨日と同じ席に座り、本を読んだ。無言の会話の始まり。そして六時前になると、やはり彼女は先に帰っていった。その次の日も、そのまた次の日も同じだった。いつの間にか、俺は放課後に図書室で本を読みながら、心で彼女と無言の会話をするのが日課になっていた。
そんなある日、いつものように図書室へ行ってみると、先にいるはずの少女の姿がなかった。しばらく待っても来る気配はなく、六時ギリギリまで待ってみたものの、結局少女は現れなかった。それからしばらく彼女の姿は見られず、俺は次第に図書室から足が遠ざかり、その代わりとして部活に足が向かっていた。
久々に部活に出て、部員で今まで来なかった俺のことを心配してくれたのは、小学生の時から友人である隆一だけで、他の連中の視線は冷たかった。当たり前だ。今までずっと部活をさぼっていたのだから。その後しばらくは、部活に通って図書室には行かなかった。
ある月曜日だった。たまたま部活が休みだったため、久しぶりに図書室に足を運んだ。すると、2ヶ月前と同じように、同じ席に彼女はいた。俺も前みたいに席に座り、無言の会 話が始まるのだと思っていた。ところが――
「……どうして、今まで来なかったの?」
最初に口を開いたのは彼女のほうだった。俺は突然の事に驚きつつも、少女の質問にすぐ答えた。
「部活の試合が近かったから、部活のほうに行ってた」俺は咄嗟に嘘をついた。本当は君がいなかったから来なかった、なんて恥ずかしくて言えなかった。
「そういう君こそ、なんでしばらく来なかったんだ?」
今度は俺が聞き返す番だった。責めるわけではなくて、思ったことをそのまま口にした。
すると彼女は
「……病気で……しばらく学校を休んでたの」
「なるほど。もう寒い季節になっちゃったからな。体には気をつけなよ」
「……あなたも」
嬉しかった。彼女と本当の会話ができて、とても嬉しかった。
「俺は谷嶋悠。君の名前は?」
「私は……雪菜。入江雪菜」
「読書、好きなんだな」俺は言った。
「…………えっ?」
「だって、いつも放課後は図書室にいるだろう?」
「…………」
俯いて、急に黙り込んでしまう雪菜に俺は慌てた。
「い、いや、答えたくないならいいよ。悪気があったわけじゃないから」
自分でも何を言ってるかわからなくなった。
「……から」聞き逃しそうなほど、か細い呟きだった。「友達……いないから」
「…………」今度は俺が黙り込む番だった。聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、胸が痛んだ。
「私、体弱くて、いつも病気で学校休んでるから、友達はいないの……」
しばらくの間、彼女にかける言葉が見つからなかった。考えてみれば過去にこの少女のクラスを何気なく覗いたことがあったが、彼女が他の誰かと一緒にいるところを見たことがなかった。いつも一人ぼっちだった。いつも一人で座っているだけで、誰も話し掛けようともしていなかった。
「……俺が」自然に言葉がこぼれた。
「俺が君の友達になるよ。約束する、君を一人にしない」
そう言ったとき、雪菜は信じられないような顔をした。だがすぐに笑顔をみせた。その笑顔はどんなものにも換えられないほど、美しいものだった。
「3年にあがって、俺と雪菜は同じクラスになった。『谷嶋くんと一緒のクラスになれてよかった』とあいつは、はしゃいでたし、俺も嬉しかった。帰る方角も一緒だってことを知ったのも、そのときだ。俺と接することで、雪菜に少しずつ変化が見られた――自分から何かをしようとしたり、他のクラスメイトとも話すようになったのさ。まだ内気なところは残ってたがね。このまま良くなっていくだろうなって信じていたよ。だが……、その期待は簡単に裏切られたよ」
「裏切られた? どういうこと?」
「苛められてたのさ、前のクラスの連中に。しかも俺の知らないところで。迂闊だったよ、そんな肝心なことに気付かなかったなんて」
ハンドルを左に切って、左折する。前の車との車間距離は随分離れている。車の加速度を上げ、車間距離を一気に詰めた。
「その雪菜さんって、ひょっとしたら悠君に自分が苛められてるってこと、教えたくなかったんじゃないのかなぁ? 迷惑が掛かるって」
「そうかもしれないな」
里奈の言う通りだった。あいつは、雪菜は俺に迷惑を掛けまいとするところがあった。その度に俺は、『そんなことは気にしなくていい』と優しく諭していたはずだったが。
「雪菜さんが苛められてるって、どうやって知ったの?」
「ある時、雪菜が学校休んだんだ。はじめは病気なんだと思ってたが、休む日があまりにも長く続くから、怪しんで隆一に調べてもらったのさ。
――あいつは交友関係が深いのを利用して、学校のどんな情報でも知ることが出来たんだ。その癖というか得意技は今でも健在だが。それで知ったのさ、雪菜が苛めを受けていたことを――」
雪菜が苛められていたことを知った俺は激怒した。即刻、苛めていた連中をぶちのめしてやろうとしたが、出来なかった。理由は内申書であった。中学3年のちょうど受験前であるこの時期に、何かの問題を起こせば、志望校への道を閉ざしてしまうことになりかねなかった。悔しいが自分の将来を不意にする覚悟は、俺には無かったのだ。
雪菜の病気が悪化し、入院したと知らされたのは、夏休みが明けてすぐのことだ。知らせてくれたのは、担任の先生だった。担任から、雪菜の入院してる病院を聞き出し、何度も見舞いに行った。そしていろんな話をして、雪菜を励まして楽しませてやった。何度も見舞いに行ってるうちに、俺は雪菜の親御さんとも顔見知りになった。そして、運命が雪菜に巨大な鉄槌を下そうとしていることを、俺は知らされた。
「谷嶋くん……実はうちの娘、もう長くないの……」
一瞬、俺は何のことか理解できなかった。
「長くないって、どういうことですか!?」
何の病気かよく憶えていないが、確か百万人に一人しか発症しない病気で、その病気に掛かったものは、長く生きられないということ……。雪菜の母親から、雪菜の寿命があと半年もないことを告げられる。
「今まで娘と仲良くしていてくれたんでしょう? 娘がいつも話していたわ、あなたのことを。とても優しい、良いお友達だって」
俺は何も言えなかった。あまりにも、残酷すぎた。なぜ、なぜ、あいつが雪菜が死ななければならない!? 俺は神に祈った。雪菜を助けてくれと。
「ねぇ、谷嶋くん」
ある日、苦しそうな表情で雪菜は言った。
「なに? どうした?」
「……私の病気が治ったら、遊園地に行こう。私、まだ一回もジェットコースターに乗ったことないから、乗ってみたいの」
「ああ、いいよ。隆一も連れてみんなで行こう。雪菜の病気が治るまで、待っててあげるから」俺は流れ出ようとする、涙を必死で堪えた。雪菜の目の前で涙を見せるわけにはいかなかった。
夏が終わり、秋が過ぎ季節はもう冬――クリスマスの時期になっていた。その日はいつと比べてとても寒い日だった。もうすぐ一年が終わる、長いようで短かったこの一年が。来年は高校受験だと、思っていた。そして、年が明ければ雪菜は……。塾の帰りに厚い雲に覆われた雲を見ながら、俺はそう思っていた。
――突然、なんだか嫌な胸騒ぎがした。急いで、雪菜の病院に向かう。
胸騒ぎは収まらない。とても嫌な予感が、脳裏をよぎる。
途中から、雪が降り始めた。怖いくらい真っ白な雪。俺が病院に着いたとき、白い雪とともに、あの少女が、雪菜が天を舞っていた。いや、舞うように落ちてきたのだ――。俺は何も出来ず、降りしきる雪と少女を見てただ、綺麗だとしか思えなかった。
雪菜は死んだ――病死ではなく、自殺だった。なぜ、彼女が自殺したのか遺書もなかったため、理由はわからなかった。もしかすると、自分の命が長くないと気づいていたのかもしれなかった。だが、本人が死んでしまった以上その答えを知る者はいない。
『私の病気が治ったら、遊園地に行こう』
俺は泣いた。雪の降り続ける中、大声で泣いた。今まで誰かのために泣いたことが無かった。誰かを失う辛さをはじめて知った瞬間だった。とめどなく溢れる涙がひどく熱かったのを、今でも憶えている。
「そのとき俺は、自分の無力さと運命を呪った。そして年が明けてすぐ、雪菜を苛めた連中を密かに呼び出して一人残らずぶちのめした……。その数日後、俺は自分の腹を斬って自殺しようとした。血がいっぱい、とめどなく流れてた。そしてなにより、痛かったよ。死がこんなにも痛いものだって、あのとき初めて知った。首の頚動脈も斬って、早く楽になろうとしたけどその前に家族に見つかって、即、病院行き。
でも傷が思ったより浅かったから、一ヶ月ほど入院してた。もちろん両親や兄貴からは、こっ酷く叱られたけどね」
着いた場所は、郊外にある共同墓地だった。俺と里奈はそのうち一つの墓石の前に立った。その墓石には、入江家』と刻んである。俺たちのほかに誰もいない。
「聞いてもいい?」
躊躇いながら、里奈が訊いてくる。
「さっき言ってた『本当の死』って、なんなの?」
「肉体の滅びだけが、『死』じゃないってことさ。人々から忘れ去られ、誰も死んだ人のことを思い出してもくれないこと。精神の『死』、つまりはその人との思い出などの『死』のことさ」
来る途中に買って来た花束を供える。
「みんなが雪菜のことを忘れていく中で、せめて俺だけでも憶えていよう、あの可哀相な少女を殺したくはないって決めたのさ。だけど」
ふと空を見上げる。あの日と同じ空――ぶ厚い雲に覆われ、一筋の光すら地上には差さない。
「考えもしなかった。彼女を安らかに眠らせることなんて。彼女を想うあまり、眠りを妨げ未だこの世を彷徨わせているのだから」
後ろからそっと、里奈が首に両腕を回し、身体を寄せる。俺は不思議とその行為を受け入れた。
「……バカだよ、悠くんは。本当にバカだよ。一途過ぎる」
里奈は泣きながら言っていた。
「そうだな。馬鹿な奴だよ、俺は。馬鹿は死ななきゃ直らない、ってな。一度死に掛けたんだんだけどな」
なあ、雪菜。お前もそう思うか? お前を追って、死のうとした俺は馬鹿な男なのか?
お前を忘れないようにするため、誰とも関わりを無くして、孤独に一人生きようとした俺は愚かなのか?
俺は目を伏せた。今日のことが、あの日のことが目の裏に蘇る。
しばらく、俺と里奈は身体を寄せ合ったままの状態でいた。里奈の呟きが聞こえる。
――好き
――悠君が
――だから抱きしめて
――離さないで私を
――雪菜さんのこと、忘れずに
そっと囁く甘い声……。暖かい里奈の腕。里奈の体温。
生きている、そう実感する。生きていることがこんなにも暖かいと、ずっと忘れていた。
二人で雪菜の眠る墓に手を合わせる。
合わせ終わったあと、里奈は俺の顔を覗き込みながら言った。
「雪菜さん、許してくれるよね? 私たちのこと」
「多分な」
「私、雪菜さんにお願いしたの。あなたという女性がいたこと、私も憶えておくから私たちのこと許してって。悠君はなんて祈ったの?」
「俺か? 俺は、」石碑を眺めながら「今まで縛りつけて、ごめん。君のことは忘れないから、今はゆっくりおやすみ……」
そして、心の中であのとき君が望んだ夢を叶えられなかった夢を、いつか必ず叶えてあげると付け加えた。もう二度と一人にはしない……。
共同墓地の駐車場に戻ってくる。墓地とその駐車場は丘の上にあるため、そこから一望する景色はどこよりも素晴らしいものだ。日は既に落ちかけ、遠くに見える多彩なネオンが、美しく輝いている。二人でその景色に見入っていた。
いったいどれだけの時間が経ったのか。俺たちはどちらからというわけでもなく、二人同時に静かに抱きしめ合い、そしてお互いの唇を重ねた。
俺は目を開けていたが、里奈は瞑っていた。
柔らかい、里奈の唇。
ゆっくり身体を離す。
「お前を離さない、どんなときも。ずっと、ずっと俺の傍にいてくれ」里奈のその綺麗な瞳を見ながら言う。
「離れない。絶対、離れないから」
俺の胸に顔を預けながら、里奈が返す。
次の瞬間、心の中で何かが剥がれ落ちる音がした。それは長い間、着け続けた『道化』という名の仮面……。一人寂しく踊るピエロは、もういない。
里奈が顔を上げ、ふと何かに視線をやって呟く。
「ああ、雪……」
空を見上げると、雪が降ってきた。美しいほど真っ白な雪。純白の雪。
それは世界を白に染める天使からの贈り物――それは『ANGEL SNOW』
――FIN――
学生時代に当時の小説サイトにて記載した作品です。
まさに黒歴史――いや闇歴史ですね、はい。消し去りたい過去とは、まさにこの事。よくぞまあ、若い頃にこんなもの書いたものだと……反省しております。
これのエピローグ、路線を変更して書いていこうと思ってます。