7
東の空に陽が昇ってくる。その光が雨に濡れた大地を照らしていた。
ヴィルヘルム・アガラードは小高い丘にある騎士団の野営地の東端に立ち、昇る朝日の光を浴びていた。その後ろに五人用のテントが十棟、整然と建ち並んでいる。この日は訓練の休息日ということもあり、団員達はまだ静かに眠っているようだ。
北に目を向ければザレグの森が小さく見える。ここ数ヵ月の間、盗賊が現れて荷馬車を襲っているらしい。この場所に訓練と称して野営しているのは森の様子を窺うためだった。
ヴィルヘルムは民の為に動くべきだと思っていたが、荷馬車の護衛をするのは騎士団のするようなことではない。何より森の盗賊による被害は実質的に無いようなものだった。ほとんどの場合、積み荷に手をつけていないのだ。奪っているものは食糧だけらしい。食糧だけを狙う盗賊とは奇妙なものだ。本当の目的が何かあるような気がした。殺しでもしていれば騎士団を動かす動機も作れたのだが、それもなかった。
しかし二日前にマルケイの町で殺人事件がおきた。詳細は分からないが、森の盗賊と何か関係があるのかもしれない。
後ろから誰かが近づいてくるのを感じ振り向いた。
「おはようございます、ヴィルヘルム様」
ヴィルヘルムの従者をしている少年騎士だ。
「おはよう、ルドウィルド」
「休息日なのに早いですね」
「目が冴えてな」
ルドウィルドが眉をひそめる。
「マルケイの殺人ですか?」
「お前はどう思う?」
「どう? と言われましても」
「森の盗賊と関係があるとは思わないか?」
「思ったとしても、確証はありません」
ヴィルヘルムは口の端を持ち上げた。
「では、確証を得に行くとするか」
ヴィルヘルムとルドウィルドは殺害現場のベルガ・アルターの屋敷に来ていた。被害者のベルガの息子は騎士団員とはいえ二人を地下室に入れるのを拒んだが、ヴィルヘルムが丹念に説得して案内させた。
二人の目に入ったのは使い込まれた拷問部屋だった。壁や床におびただしい血痕が残っている。壁にかけてある拷問器具がどれだけの人間の血を吸ったのか考えるだけで気分が悪くなるほどだ。
部屋の奥の壁に鎖がついている。ヴィルヘルムはその鎖の枷の近くに鍵が落ちていることに気づいた。枷の鍵穴に差し込むとぴったりと合う。おそらく囚われていた奴隷を誰かが解放したのだろう。ベルガ・アルターはその時に殺害された。そう見て間違いはない。
「嗜虐目的で奴隷を買うなんて……」
ルドウィルドが苦々しく呟く。
「気分が悪くなることだが、法に反している訳ではない」
ハウストン王国の法律では奴隷の扱いに関して何も規制されてはいなかった。そのことに疑問を持つ者は多い。ヴィルヘルムもその一人だ。
「奴隷の買い取り証明書を見せていただけるかな?」
ヴィルヘルムはばつが悪そうに入口に立っているベルガの息子に声をかけた。証明書を見れば奴隷が誰なのか分かる。そこから何かが分かるかもしれない。
証明書にはラズ・フェンダルというジルグード人の詳細な記録が書いてある。そこには幼い少年の顔写真が添付されていた。
ヴィルヘルムはこの少年が拷問されていたのかと思い、暗い気持ちになりながらも、おそらくジルグード人の仲間が少年を解放しに来たのだろうと考えた。
「お役に立つか分かりませんが、バーバラ亭の娘さんが何か知っていると、雇った賞金稼ぎが言っていました」
「バーバラ亭? それはどこに?」
「町の西のはずれにあります」
ヴィルヘルムはルドウィルドをマルケイの南にある城塞都市サーダインに向かわせ、騎士団の支部でラズ・フェンダルに関する情報収集を命じ、自身はバーバラ亭に向かった。
開店前のドアをノックすると、主人らしき老人がおそるおそる顔を出した。
老人はヴィルヘルムの姿を見て騎士と気づくと、安堵の表情を浮かべ店内に招き入れた。
老人の話では養女の娘が賞金稼ぎに脅されて盗賊のことを喋らされたらしい。少女にはジルグード人の血が混ざっているという。
カウンターの裏から赤い瞳の少女がヴィルヘルムを見ている。ヴィルヘルムは声をかけてみたが、少女は何も言わずに二階にかけ上がっていった。
老人が言うには、盗賊は森の中を通っている川沿いの洞窟を根城にしているらしい。
行ってみるしかない。時間が惜しかった。
夜が明ける前に山に入れた。ハンザ達は山裾で脚に限界がきていた馬を野に放ち山道を歩いていた。
リズ、ラズ、セドルは疲れが溜まってきているようで足取りが重くなり始めていた。特にラズはすでに足を引きずっている。数ヶ月の間監禁生活だったのだから仕方がない。逆にここまで歩けているのが不思議なくらいだ。
明るくなり始めると少なからず人の往来はある。商人達が北と南を往き来していた。ここは山脈に数ある山道の中でもきちんと整備されていて、道幅も荷馬車が通れるほど広く、穏やかな道なのだ。
たまにすれ違う商人はハンザ達ジルグード人を物珍しげに見ていたが、そんなことを気にしている場合ではない。ハンザはなるべくラズに負担をかけないようにこの道を選んだ。本当は山道を外れて道なき道を行きたかったが、ラズだけではなく、リズとセドルにも無理なのは明白だった。
子供達三人の限界がきたところでハンザは山道から茂みに入って休息を取ることにした。
木々の間に平坦な部分があり、四人で寝転がって空を見上げた。
あと少しだ。あと少しで北に出る。はやる気持ちを抑え、ハンザは北に出てからの計画を頭に描いた。
向こうの山道を出て北西へ向かうと大きな湖がある。そこを渡りさらに北へ行くと、ジルグード人達が谷の間に小さな村を作っていると聞いたことがあった。まずはそこを目指すべきだ。
リズ達はいつの間にか眠りに落ちていた。その穏やかな寝息を聞いているとハンザの心も安らいだ。
ヴィルヘルムは森の中を馬で駆けた。老人の話通り、川沿いに洞窟がある。その近くには死体が四つ転がっていた。昨日パブで見た賞金稼ぎ達だ。洞窟に入ると誰かが生活していた形跡がある。急いで出ていったのか物が乱雑に散らばっていた。外に出たヴィルヘルムはまだぬかるんだ地面を見つめた。三頭の馬の蹄の跡が北に向かって続いている。
北の山道か。向こう側は盟を結んでいるとはいえ、他国なのだ。山の中で捕らえてしまいたい。ヴィルヘルムは馬に飛び乗り南の騎士団の野営地に向かった。ルドウィルドが情報を持ち帰っているはずだ。
気づくと辺りは闇に包まれていた。リズ達は火を通しておいた木の実を布袋から取り出して食べている。
「やっと起きた」
リズが目覚めたハンザの顔を覗きこんだ。
「起こしてくれてもよかったんだぞ」
「凄い気持ち良さそうに寝てたし、寝顔が可愛いから起こしにくかったよ」
ハンザは可愛いと言われて少し嬉しくなった自分が可笑しかった。そんなことで喜ぶ人間ではなかったはずなのに。だが悪い気はしない。不思議な気持ちになった。
「三人とも足は大丈夫か?」
「けっこうマシになったよ。ラズもゆっくりだったら歩けると思う。木の枝で杖も作ってみたし」
「そうか。ならすぐに出発しよう。夜のうちに峠を越してしまいたい」
ラズは何も反応しなかったが、リズとセドルは頷いた。
山道は夜の冷たさで満ちていた。峠に近づくにつれ樹木が減り、月明かりがハンザ達に暗い影を作っている。
やがて峠が見えてきた。ゴツゴツとした岩が至るところから突き出している。ハンザはそのうちの一つから二つの気配を感じた。誰かがいる。その気配が岩から離れた。待ち伏せだ。そう理解するのに時間はかからなかった。剣を抜き、近づいてくる影に刃を向けた。
月明かりに少しずつ照らし出された影はヴィルヘルムとルドウィルドだった。
「ハンザ・ベルナか?」
ヴィルヘルムが言った。気圧されるような低い声だ。羽織ったマントが風で揺らいでいる。ハンザは革鎧をつけた二人の姿を見て、ハウストン王国の騎士だとすぐに気づいた。
「よくここを通ると分かったな」
「色々と調べればすぐに分かることだ」
騎士団の情報網は広大で強力なものだった。この大陸のみならず別大陸の情報も常に取り入れているのだ。ハンザ達が逃亡中の奴隷であることは知られていた。
「騎士団直々に盗賊の捕物か?」
「どちらかというと、ベルガ・アルターの殺害だ」
「あれは事故だ」
「たしかに死んで当然の人間かもしれないな」
ハンザは剣の切っ先を下ろした。
「ならば見逃してもらえないか? 無益な殺しはしたくない」
「それは無理だ。ベルガ・アルターも森で死んでいた賞金稼ぎも褒められた人物ではないが、我が国の民なのだ。その命を奪ったのなら相応の報いは受けてもらう」
リズがハンザの服の裾を強く握りしめた。
「大丈夫だ。お前達は下がっていろ」
ハンザは二人に歩み寄った。そして胸の前で剣を垂直に立てる。
「我が偉大なる神にこの命を捧げよう」
そう言うと、剣の切っ先をヴィルヘルムに向けた。騎士団に古くから伝わる一騎討ちの儀礼である。
「私が勝てば見逃してもらう」
ハンザの賭けだった。見えていないだけでおそらく周囲には他にも騎士がいるだろう。正式な一騎討ちで勝てば、儀礼を重んじる騎士達は手が出せないはずなのだ。
ヴィルヘルムは少し笑みを見せたが、ルドウィルドが声を荒げる。
「ふざけるな。人殺しが騎士に一騎討ちを申し込むなど無礼だぞ」
ヴィルヘルムがルドウィルドを手で制する。
「受けて立とう」
「ヴィルヘルム様! お止めください!」
「勇猛な戦士に挑まれたのだ。光栄なことだろう?」
ヴィルヘルム達はハンザが歴戦の戦士であることを知っていた。
「だからこそです! 危険です!」
「お前は私が敗れると思っているのか?」
ヴィルヘルムの眼差しが冷たいものになる。ルドウィルドはこうなった時のヴィルヘルムの恐ろしさを知っていた。何者も寄せ付けない凄味があるのだ。
「……油断なさらないでください」
ルドウィルドは仕方なく後ろに下がり頭をさげた。
ハンザとヴィルヘルム、二人が対峙する。
「名を聞かせてもらえるか?」
「ヴィルヘルム・アガラードだ」
「ヴィルヘルム殿、礼を言う」
ヴィルヘルムが腰の剣を抜く。
「私に傷一つでも付けられれば、そちらの勝ちでいいが」
ヴィルヘルムにそう言われハンザは柄を握る右手に力を込めた。女だから見くびられているのかもしれない。それが気に食わなかった。
「では、すぐにここを通してもらう」
ハンザは右腕をだらりと伸ばし地面に切っ先を向けている。対するヴィルヘルムは剣を両手で握り、体の真正面に構えている。その微動だにしない構えからとてつもない威圧感が発せられている。それに当てられたハンザの全身から汗が噴き出した。
ヴィルヘルムが言った「傷一つでも付けられれば」というのは口だけではない。二人の力関係は歴然としている。ハンザは勇猛な戦士だ。だがヴィルヘルムの強さは質が違う。ハンザもそれを今、全身で感じていた。
踏み込んだ。というより堪らず引き寄せられたと言った方が正しいか、ハンザの剣先が地を這いながら切り上げられる。ヴィルヘルムはその斬撃を柄の先端を使って少しだけ逸らせた。ハンザの刃が空を切り、ヴィルヘルムは自身の剣を鋭く振り下ろした。交錯したあと、二人の間には剣が握られたハンザの右腕が落ちていた。
ハンザの右肘辺りの切断面から血がボトボトと落ち始める。切り離された右腕を見たハンザの顔にはどういうわけか喜色が浮かんでいる。
ハンザ自身にも不思議だったが体の奥底から喜びが沸き上がってきたのだ。それは幼いころから育まれた戦士の本能なのかもしれないし、小さなころ剣の稽古で全く敵わなかった父の姿を、目の前のヴィルヘルムに重ねているからかもしれない。いずれにしろ、ここまで強い男と戦えることが戦士として誇らしいことなのだ。
「誰か、腕を縛ってくれ!」
身をすくませていたリズとセドルは顔を見合わせてハンザに駆け寄った。セドルが腰の布袋から蔓の縄を取りだし、それをハンザの右上腕に巻いた。セドルの手が震え、きつく縛れない。涙を流しているリズが縄の片方を持ち、二人で強く縛り上げた。
ハンザは残った左手で二人の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。これが私の最期の戦いだ。しっかりと見ていてくれ」
落ちている自分の右手から剣を取り上げたハンザはヴィルヘルムに向き直った。
「私が勝ったら見逃してもらう約束だったが、あれは無しにしよう」
「どういうことだ?」
「あの子達の面倒をみてもらいたい」
「なぜだ?」
「あの子達だけではこの先生きてはいけないだろう。だから貴方に頼みたい」
「そうする理由が私にはないのだが?」
「だから、私が勝てばだ」
ハンザが深く腰を落とし顔の横で剣を水平に構えた。その打突の構えには凄まじい気がこもっている。全てを捨てた最後の一撃。その覚悟を汲み、ヴィルヘルムは深く頷いた。
風がやみ、月が雲に隠れる。
ハンザが最後の力をふりしぼり地を蹴った。近づくヴィルヘルムの顔めがけて思いきり左腕を伸ばす。ヴィルヘルムの不動の構えが一歩遅れて動いた。二人の剣が重なり火花をあげる。位置が入れ替わり、一撃目を捌かれたハンザが振り返った。すぐ目の前にヴィルヘルムがいる。胸の中を何かが通るのを感じた。力が抜けていく。崩れるようにヴィルヘルムの胸に倒れたハンザは消え入りそうな声で言った。
「約束は守ってもらうぞ」
ヴィルヘルムの頬にほんの小さな一筋の切り傷ができていた。ハンザの突きが届いていたのだ。
「見事な一撃だった」
ヴィルヘルムはハンザの胸を貫いた剣を静かに引き抜くと、彼女の体をそっと横たえた。
ハンザの顔には何かをやり遂げたかのような満足感が浮かび上がっていた。誰にも分からないことだが、ハンザは最期に失っていたものを取り戻せたのかもしれない。
夢を見た。
ラズとセドル、そしてハンザと幸せにのんびりと暮らしている夢だ。
目が覚めるとハンナの潤んだ赤い瞳がリズの視界に入ってきた。ハンナがリズをぎゅっと強く抱きしめる。
「ハンナ?」
「ごめん、ごめんね、リズ。私が悪いの。ごめんね」
リズは状況がうまく飲みこめなかった。
峠で待ち伏せしていた男の剣がハンザの胸を貫いたところまでは覚えている。そのあとの記憶がない。
「ここは?」
「私のお部屋だよ」
ハンナが両手で涙を拭う。
「朝に騎士のおじちゃんが連れてきてくれたの」
「騎士……」
あの男か?
「そいつはどこにいる?」
急に大声を出したリズに驚き、ハンナはリズから離れた。
「私ならここにいる」
部屋の入口にヴィルヘルムが立っている。
ヴィルヘルムに気づいた瞬間、リズの頭の中は真っ白になった。無意識でハンナを押しのけヴィルヘルムに飛びかかるが、体を掴まれベッドに押し倒された。
「大人しくしていろ」
ヴィルヘルムはリズの全身を押さえつけるように馬乗りになった。
ハンナが部屋の隅に立ってオロオロとしている。どうすればいいのか分からないのだ。
「お前は絶対に許さない! 絶対、許さないからな!」
リズが大声で喚いていると、セドルが部屋に入ってきた。
「何やってんだよ?」
セドルが呆れた顔で面倒くさそうに言う。
「セドル、大丈夫? ラズはどこ?」
「ちょっと落ち着け。ラズは下で飯食ってるよ。お前も起きたんなら食おうぜ」
それだけ言い、セドルは軽快な足取りで階段を下りていった。おいしい食べ物が待っているのだ。
「何、暢気に言ってるの! こいつがハンザを……」
声を詰まらせているリズを見下ろすヴィルヘルムは優しく語りかけた。
「リズ・フェンダル。たしかにハンザ・ベルナを手にかけたのは私だが、勝負では負けた。君が私をどう思おうとかまわないが、彼女との約束は果たさなければならない。無理強いはしないが、君達には私の故郷へ行ってもらうことにする。立場上、私のもとに置いておくことはできないのでね」
「お前の世話になるつもりなんてない」
「そうだろうな。君の弟は何も言わないが、セドル・ラマーは承諾してくれた。君の弟のことも連れていくと言っている。君もよく考えろ。ハンザ・ベルナの命をかけた願いだ」
ヴィルヘルムを睨みつけるリズの赤い瞳から涙が一筋流れる。ポロポロと涙が溢れ出て、やがて泣き声に変わった。ハンザは死んだ。もういない。それはいくら泣き叫んでも変わらない事実なのだ。
リズに同調するように部屋の隅のハンナも両手で顔を覆って泣いていた。
二日後、リズ達はマルケイの町から東に行った海岸沿いに来ていた。
ヴィルヘルムの故郷は、ここからさらに東に行った島にあるらしい。
白い砂浜の波打ち際をとぼとぼと歩くラズにセドルが水をかけている。リズはその様子をヴィルヘルムの横に立って眺めていた。
しばらくすると朝靄の海の向こうから八挺櫓の船が姿を現した。船が浜から少し離れた所に泊まると、艫に立っていた男が降りてきて、ヴィルヘルムの前にかしずいた。
「あとはこの男に任せてある。私も年に一度は帰れると思う。といっても私の顔など見たくないのだろうがな」
ラズとセドルが船に乗り込んでいる。
「ありがとう」
リズはヴィルヘルムに対して言ったわけではなかった。ハンザに対して言ったのだ。ハンザの為にも生きなければならない。何があっても強く生きる。今はそう思うしかないのだ。
波をかき分け勢いよく進む船の舳に立ち、遠くに広がる黒い雲塊を見つめるリズの赤い瞳には強い光が宿っていた。
読んでいたたき、ありがとーございました。