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距離の表記で「里」を使ったんですけど、一里は約4キロメートルだと思ってください。
日が落ち、マルケイの町に明かりが灯り始める。
マルケイはザレグの森から東に一里ほど離れた所にある果物酒の製造が盛んな小さな町だ。町の中央に位置する大通りに大きな酒蔵があるが、他に大きな特徴はない。
町の西端のバーバラ亭という看板を掲げてある食堂に人が集まり始めている。十席しかない小さな店を老夫婦と赤い瞳の十歳の少女が切り盛りしていた。
少女は出来上がった料理をてきぱきとテーブルに運んでいる。
元々孤児院にいた少女が老夫婦に引き取られたのは半年ほど前だった。すぐに店の仕事を手伝うようになったが、はじめの頃は失敗もよくしていた。その度に客に嫌な顔をされていた。なにより赤い瞳からジルグード人との混血ではないのかと白い目で見られることが多かった。
ジルグード人の特徴は黒髪、赤目、褐色の肌だ。ハウストン王国では自分達の白い肌と違う褐色な肌を持つジルグード人を野蛮な人種だと思う風潮が強かった。その中にはジルグード人を同じ人間だとすら思っていない者もいる。
実際に少女の父はジルグード人で母はハウストンの人間だった。少女の白い肌とプラチナブロンドのふんわりとした髪は母譲りのものだ。
老夫婦はその事を気にしなくていいよと少女を慰めるように言っていたが、当の本人はさして気にしていなかった。というより、物心がついた頃から好奇の目で見られることが多かったのだ。自分はそういう風に見られるのが普通の事だと思っている節がある。
店に立つようになって一月もすると、のみこみの早い少女はある程度の事は器用にこなすようになっていった。そしてその愛くるしい笑顔に魅了された客たちは、ジルグード人との混血などということは些細な事だと思うようになっていった。
そして今ではバーバラ亭の立派な看板娘になっている。
店に中年の男が入ってきた。町にあるアルター酒造という商店で酒の運搬を行っている男だ。
カウンター席についた男に調理をしている老主人が声をかける。
「ベンサムさん、こないだは大変な目にあったってねぇ?」
ベンサムは少女が出した水をぐっと飲み干した。
少女が水を継ぎ足す。
ありがとう、という風に片手を軽くあげたベンサムは落胆するように肩を落とした。
「アルターさんにこっぴどく叱られたよ。でもさあ、賊の事は俺にはどうしようもねえよ」
「物騒だよねぇ、こんな近くに出るんじゃ」
マルケイではザレグの森で盗賊が出ることが問題になっていた。森を挟んだ向こう側にあるルベンという町との最短ルートが森の中を通るからだ。森を迂回すると余計に時間がかかる。物資の行き来が盛んな両町からすると森の盗賊には頭が痛くなるのだ。
「殺されると思ったけどな。まあ、こうして生きて旨い飯食えてるだけで運が良いのかもしれんが」
「殺しはしないらしいねぇ」
「だな。護衛の奴等も痺れ毒か何かで動けなくされてただけみたいだしな。酒も一本取られただけだから、何がしたいんだかわからねえよ」
二人の会話を聞いていた老女が口をはさむ。
「ハンナの前で物騒な話はおやめよ」
ベンサムは苦笑いし、目の前に置かれた肉汁たっぷりのステーキに食らいついた。
「ハンナ、すこし休んできていいよ」
店は客がひきはじめて落ち着いた雰囲気になっている。
ハンナはカウンターの内側から店に併設してある家に入り、二階の自室に上がった。
部屋に入ったハンナは窓を開け放って空を見上げた。鼻唄を歌いながら星を眺める。自分もあんな風に輝けるのかな、と物思いに更けっていると、ふと目の端で影が動いたことに気づいた。店の裏の向かいにある木陰に何かが隠れた気がする。目を凝らせてその辺りを見るが何もいない。階段を駆けおりて裏口から外に出た。何かがいたと思われる木の裏側をのぞいてみたが、やはり何もいない。
次の瞬間、口を何かで覆われた。あまりに突然のことでハンナは身動ぎひとつできなかった。
「動かないで。今から手を離すけど声も出さないで」
耳元でささやく女の声はどこか幼く優しい感じがしてハンナは冷静になった。こくりと頷く。
ゆっくりと手が離されると体から緊張がとける。ハンナはくるりと後ろを振り向いた。
そこには月明かりに照らされた布を顔に巻いた少女がいた。ハンナより少しだけ背が高い。
「私を見たことは誰にも言わないで」
「なんで?」
「……言ったら駄目だから」
「なんで駄目なの?」
「駄目なものは駄目なの」
ハンナはしばらく考えた。
「盗賊さん?」
少女の体が微かに反応した。返答に困る少女を見るとすこし申し訳ない気持ちになったハンナはとびきりの笑顔を作った。
「大丈夫! 誰にも言わないよ」
そう言われた少女の腹の虫がなる。
ハンナは少女の手をとり引っ張った。
「食べ物ならあるよ」
最初は抵抗していた少女もハンナがグイグイと引っ張るのに負けて裏口からハンナの部屋に上がった。
ハンナは食堂からこっそり持ってきたパンを少女に差し出した。
それをおそるおそる受け取った少女が顔に巻いてある黒い布をとる。そこに現れた褐色の肌と赤い瞳を見たハンナの目が輝いた。
「ジルグードの人?」
ハンナは頭の隅にぼんやりとある父と同じような風体のする少女にどこか懐かしいものを感じた。
「そうだけど」
パンを美味しそうに頬張る少女の顔をまじまじと見つめるハンナ。
「なんなの?」
「私、ハンナ。あなたは?」
「……リズ、だけど」
「リズ。リズ、あのね、私もジルグード人だよ……ちょっとだけど」
ハンナの赤い瞳を見たリズが感心なさそうに言う。
「混血でしょ。珍しくもないよ」
「そうなの?」
「私の村にはけっこう居たけど」
「そうなんだ」
物珍しげに扱われることを気にしていなかったとはいえ、混血を普通のことのように言われたハンナの心が弾んだ。
「ねえ、森の中に住んでるの? 何で悪いことしてるの?」
ハンナは軽い気持ちで聞いただけだったが、リズの顔色が変わった。
「悪いこと? 悪いことなんてしてない」
「でも、みんな困ってるよ」
「そんなこと知らない。だいたい私は手伝ってるだけだから」
「無理やりやらされてるの? それならやめなきゃ」
「……うるさい。あんたには関係ないでしょ」
明らかに雰囲気の変わったリズにハンナの表情が硬くなる。どうやら言ってはいけないことを言ってしまったようだ。
部屋の中に気まずい沈黙が宿る。その時、ドアがコンコンとなった。
「ハンナ、そろそろ戻ってもらっていいかい?」
老女の声だ。
リズが身構えたのを制して、ハンナは立ち上がった。
「はぁい。すぐ行きます」
ハンナはリズに向かって小さく手をふり階下に下りていった。
一人残されたリズはため息をつき、窓の外の月を見上げた。
夜が更け、マルケイの町が寝静まったころ、リズは人気のない大通りを一人歩いていた。
あの後ハンナとは口をきかなかったが、ハンナは何も言わずに部屋に居させてくれた。それは助かった。
今回この町に来たのは弟のラズを助け出すためだ。ハンザを当てにするのはやめた。何も行動しない人間を待っていても仕方がない。
ナゼルにいた奴隷商人から手に入れた売買リストには、この町に住むベルガ・アルターという人物が購入したと記されていた。
今、リズの目の前にはアルター酒造の大きな看板が掲げてある商店がある。大きな店だ。その裏手には立派な屋敷が構えてある。
リストに間違いがなければラズはここにいるはずだ。
リズは息をのんだ。いざ行動しようとすると一歩が踏み出せない。鼓動が早くなり、足が震える。いや、全身がだ。本当は自分一人で乗り込んで弟を助け出す自信がなかった。もしここに押し入って捕まったら? もしかしたら弟はもういないかもしれない。あのリストが間違っている可能性だってある。色々な考えが頭の中をぐるぐると回っていた。
ハンザに臆病者と言ったが、臆病なのは自分の方なのかもしれない。その事実にリズは肩を落とし、店に背を向けて歩き出した。
とぼとぼと歩くリズの背中に青白い月明かりが重くのしかかっていた。