金曜日のお供に
取り留めのない、日常を、ほんの少し変えてくれるかも知れない。
そんな二人の話。
2018/11/16 文章体裁を整えました。
金曜日の夕方四時半を回り、周囲の奴らは明日からの休日の過ごし方について話し始めたり、退社時間を気にして時計を見たりし始める。毎週この時間特有の、緩んだ空気が職場に漂い始めた。
「かーしーやーまーさん、今日、暇ですかぁ?」
緩んだ空気にお似合いの、間延びした声。しかし、こいつの話し方はいつでもこうなので、時間帯や空気は関係ない。
俺はパソコンのディスプレイに向かったまま、後方から話しかけてきた後輩に返事をした。
「今の仕事が進捗悪いから、残ってやっていく」
「うわぁ、相変わらず仕事熱心ですね。何時くらいまで残業するんですか?」
「そうだな、無理に遅くまでやっても終わらんだろうから、区切りのいいところまでだと……七時過ぎくらいには帰るつもりだ」
「やった。それなら、終わってから飲みに行けますよね? 終わるまで待ってますから、飲みに行きましょう」
「何でわざわざ。飲みに行きたいなら、他の奴に声かけて行ったらいいだろう」
「何言ってるんですか。私は、樫山さんと飲みに行きたいから、同期の誘いも課の先輩の誘いも泣く泣く断って来たんじゃないですか。私の愚痴を聞いてくれるのは、樫山さんしか居ませんから」
「いや、俺の都合聞く前から何やってんだよ、琴浦」
はあ、と深いため息を吐く。対して、無暗に得意げな顔をしている琴浦に、ここで初めて目を向けた。
「俺が午前様の予定だったり、他の奴らと飲みに行く予定だったら、どうするつもりだったんだ?」
「そんなの、樫山さんが午前様でも待ってるつもりでしたし、他の人達と飲み会なら、混ぜてもらうつもりに決まってるじゃないですか」
「お前なぁ……」
「実際にはそうじゃなかったんだから、いいじゃないですか。じゃあ、私、帰り支度したらまたこっちに来ますね」
「あっ、おい」
制止する間もなく、琴浦は、顔見知りに軽く挨拶しながら、部屋を出て行ってしまった。
今の会話の中で、俺は琴浦と今日飲みに行くことを了承していないのに、断るタイミングを完全に逃してしまった。
「樫山、すっかり紗季ちゃんの尻に敷かれちゃってるわね」
琴浦が居なくなったのを見計らって、隣の席の同期、柴田が言う。
「琴浦が、俺の話と都合を聞かねえだけだろうが」
「あれは、聞かないんじゃなくて、わざとそうしてるのよ。樫山以外だったら、紗季ちゃんはちゃんと相手の都合とかちゃんと考えられる子よ」
「余計に質が悪いだろうが」
「私は、紗季ちゃんの味方だから。いいじゃない、樫山みたいなオッサンのこと相手してくれる若い子なんて、紗季ちゃんしか居ないわよ」
「何で柴田が琴浦の肩持つんだよ」
「それは自分で考えなさい。あ、もう時間ね。私、今日は旦那と子供と外食だから、先に帰るわ。樫山も、紗季ちゃん待たせたら可哀想だから、さっさと切り上げなさいよ。じゃあね、お疲れ様」
就業時間のチャイムが鳴り、柴田は手際よく帰り支度を済ませて、帰路に着いた。
「おう、お疲れ」
柴田の背中を出入り口まで見送ると、入れ違いに琴浦が入って来た。柴田と琴浦が立ち止まって会話をしながら、揃ってこちらを見るので、何となくディスプレイの影に隠れてしまう。そのまま作業を進めていると、宣言通り、帰り支度を済ませた琴浦が、空席の柴田の席に座った。
「樫山さん、何かお手伝いできることありませんか」
「気持ちだけ貰っとく。つーか、帰れ」
「い、や、で、す。意地でも待ちます。そして、樫山さんと飲みに行きます。柴田さんにはOK貰いましたし」
「俺の都合を、柴田が許可出すのがおかしいだろうが」
「柴田さん、私の目標なんです。仕事では他の部署からも一目置かれてますし、プライベートでは二人のお子さんを育て、旦那さんもカッコいいですし。もう、人生勝ち組って感じですよね」
「会話が成り立たねぇ……」
「あ、すいません、仕事の邪魔はしませんので、終わったら声かけてくださいね」
琴浦はスマートフォンを取り出すと、ゲームを始めた。本当にこいつは俺の話を聞かない。
とは言え、こうやって隣で人を待たせていると思うと、少しでも早く終わらせようという気持ちになるのだから不思議なものだ。決して、柴田に言われたからではない。
仕事を進めながら、自分で言うのもおかしいが、琴浦がこうやって慕ってくれていることが最初から不思議だったことを思い返す。
所属部署が異なるために、接点なんて皆無だった琴浦と、二年前の合同企画で顔を合わたのが始まりだった。入社一年目のひよっこだったが、先輩の持つ知識や技術を学ぼうとする姿勢に好感を覚えたものだった。合同企画の陣頭指揮を担っていた俺のところに、見積書を持って来たり、相手部署へ書類を届けたりするために頻繁に来ていた琴浦ではあったが、会話らしい会話はしなかった。精々、持って来た書類の不備を指摘して訂正方法を教えたり、配布資料や企画内容の質問を琴浦から受けていた程度で、何か劇的なイベントがあった訳でもない。
合同企画は無事に終わり、祝賀会が終われば、また接点のない関係に戻ることが当然だと考えていたのだが、琴浦がそれを許さなかった。何故か、足繁く俺の所に来るようになり、他愛のない世間話をするようになり、その延長線上で飲みに行くことも多くなった。二人の時もあれば、柴田や他の同僚を交えて賑やかな時もあり、俺としては飲み仲間が増えて悪い気はしなかった。
上司と馬が合わないらしく、二人の時の話題は、琴浦の愚痴を俺が聞くことが恒例になりつつある。他部署だが、琴浦の上司とは面識があり、優秀な人物である一方、気難しい性格であることを知っている。琴浦は、言いたいことは上司が相手だろうが遠慮なく言う性格なので、意見の対立が頻繁に起きるらしい。若さ故のものであり、仕事上の人付き合いの経験値を積めば、馬の合わない上司との付き合い方も上手になると思っている。
部外者の俺ができることは少なく、琴浦の部署の同期や後輩にフォローアップを頼み、都合が付けば琴浦の愚痴に付き合うようにしている。
今年で三十八歳になるオッサンが、十も年の離れた、しかも他部署の若手の世話焼きをしていることが、おかしな事だというのは自覚している。
そんな下らない事を考えながら仕事を進め、区切りの良いところまで仕上がったのが、午後七時ジャストだった。素早くデータを保存し、パソコンの電源を落とした。
年のせいか、疲労が蓄積されている目を、目頭を押さえて少し揉み解す。両腕を挙げて背伸びをすると、背骨が乾いた音を発した。
不意に、隣の席の琴浦が、本当に邪魔してこなかったことを思い出す。いつもなら、邪魔をしないと言いつつ、ずっと話しかけてくるのだが、今日は本当に大人しく待っていた。
珍しいこともあるもんだな、と横を見れば、
「……ガキか、お前は」
柴田の机に突っ伏して、小さな寝息を立てていた。一瞬、このまま置いて帰ろうかと考えたが、来週の月曜日に琴浦と柴田から猛攻撃を食らいそうだったので止めた。
「琴浦、琴浦。おい、起きろ」
肩を軽く揺すってやると、琴浦はすぐに起きた。
「ん……あぁ、すみません、ついウトウトしちゃって。あ、終わりましたか?」
「ああ、今終わった。ただ、琴浦、今日は大人しく帰って、ちゃんと休んだ方がいいんじゃないか? 疲れてるんだろ?」
「まあ、一週間頑張って働きましたから、人並みには疲れてますけど、大丈夫です。ちょっと寝たので元気回復しました」
右腕で力こぶを作るポーズ。どうしたもんか、と悩む。
「樫山さん、私、今日は樫山さんと飲みに行くのを楽しみにしてたんですから、絶対大人しく帰りませんよ」
「いや、俺と飲みに行くことはまだ決まってすらないだろうが」
「とか言いつつ、ちゃんと私に付き合ってくれる樫山さんの優しさに、私はいつも感謝してますよ」
ニカッと笑う。
「はぁ……無駄にいい笑顔しやがって……」
「恐縮です」
「軽くな。駅前でちょっと引っ掛けたら、遅くならん内に帰るぞ」
「えぇ……マジですか?」
「マジだ。嫌なら俺は帰る」
「あ、あ、嘘です、ちゃんと帰ります。帰りますから帰らないでくださいって、何言ってるか分からなくなりました」
「まあ、いい。ほら、行くぞ」
「はい!」
まだ仕事をしている同僚に挨拶をしながら、琴浦を伴って部屋を出る。ロッカーに預けていたコートを羽織り、会社を出て最寄り駅の方向へ歩く。
「いつもの店でいいのか?」
「いつもの店がいいです」
駅前のこじんまりとした焼き鳥屋が、琴浦と二人で飲みに行くときの定番だ。元々は一人で飲みに行く時に使っていた店だったところを、琴浦と連れて行ったら気に入ったらしい。
週末ということもあり、店内は程よく混雑していたが、すぐに二人掛けのテーブルへ案内された。
「とりあえず、枝豆と焼き鳥の盛り合わせを塩で。俺は日本酒二号の冷やで、琴浦は何飲む?」
「じゃあ、私はビールを。あと、厚焼き玉子ください」
店員にいつもと変わらない注文をして、間もなく、日本酒とビールと枝豆がテーブルに並ぶ。
「樫山さん、どうぞ」
「ああ」
琴浦がすかさず日本酒の徳利を持ち、酌をしてくれる。ちなみに、御猪口ではなく、ぐい吞みだ。
「では、今週もお疲れ様でした」
「お疲れさん」
ビールジョッキとぐい吞みで乾杯する。一口目でジョッキの半分を飲み干すあたり、琴浦も大概だなと毎度思う。
「くぅ~、この一杯のために生きてるって感じですね」
「二十代の娘の発言じゃねぇな」
「樫山さんだって、最初から日本酒飲むとか、オジサン全開じゃないですか。飲めなくても乾杯はビールだって、教えてくれたのは樫山さんなのに」
「普通は、同じ課の先輩から教わるもんだけどな」
「それは樫山さんが若かった頃の話です。今の時代、若い子は飲み会に参加するのも嫌がるんですよ」
「だったら、尚更同期の誘いを断って、俺なんかと飲みに来ることなかっただろうが」
「だめですよ、私、今日は樫山さんとって決めてたんですから。同期も先輩も、今日は樫山さんと二人で飲みに行くって言ったら、快くOKしてくれました」
「琴浦、俺の承諾も無いうちから何やってくれてんだよ」
「いいじゃないですか、結果として事実なんですから」
「そうじゃねぇよ」
はあ、とため息を吐く。琴浦から、俺と二人で飲みに行くと聞いた連中の、半笑いの表情が目に浮かぶ。まあ、どうでもいいか、と割り切る。
「そういや、今回は倉敷の奴と何でやりあったんだ?」
倉敷というのは、琴浦と馬の合わない課長の名前だ。
「そうなんです、樫山さん、聞いてください! 課長の分からず屋がですね、お前は、仕事はそこそこ出来るかも知れないが、目上の者に対する敬意の気持が足りない、年長者を立てて、一歩引いた立ち位置というものをいい加減に覚えたらどうなんだ、とか言うんですよ? ひどくないですか?」
「ああ、また課長に意見したのか。懲りない奴だな、お前も」
「だって、課長が、私の可愛い後輩がちょっと失敗したら、物凄い剣幕で怒鳴るんですよ? 確かに、失敗したのは悪いことですけれど、初めて任された仕事で失敗することくらい、誰だってあるじゃないですか。先輩や上司は、説教するのも大事ですけれど、それだけじゃなくて、その失敗の挽回方法だったり、次に同じ失敗をしないための方法を気付かせてあげるとか、もっと大事なことがあると思うんです」
「まあ、お前の意見も一理あるな」
「そうですよね、そうですよね! それなのに、課長、フロア全体に聞こえるような大声で説教始めるんですよ? 皆の雰囲気も悪くなっちゃいますし、私、我慢できなくて割って入ったんです。課長が怒るのも分かりますけど、大声で怒鳴って畏縮させるだけじゃ若い職員の教育にならないと思いますって」
「相変わらず、いい根性してるな、お前」
お待たせしました、と店員が来て、焼き鳥の盛り合わせと、厚焼き玉子がテーブルに並ぶ。
「お兄さん、ビールと日本酒の冷や、追加で」
琴浦が店員を捕まえて、追加注文をする。
「それで?」
「はい? あぁ、そうでした。そうしたら、課長、確かに頭ごなしに怒鳴ったのは悪かったって言ってくれたんですけれど、私に向かってさっきの台詞です」
「そうか、倉敷もずいぶん丸くなったな」
「何でそこで課長を褒めるんですか。私を褒めてください」
「先に褒めただろうが、いい根性してるなって」
「むぅ、あまり褒められてる感がないです」
「一つ聞きたいんだが、何をミスしたんだ?」
「え?」
「だから、その若い奴は、何を失敗したんだ? お前、まさか、知らずに割って入ったのか?」
「……はい。でも、それって何か関係あるんですか?」
「倉敷にも、課を背負っている責任があるからな。ミスの内容は分からんが、事前に先輩に確認するとか、予防策があったはずなのに、それをしなかった結果、失敗したという事情なら、俺でも説教から始めると思うぞ」
「それは、そうかも知れないですけど……。じゃあ、私が間違ってたって言うんですか?」
急に弱弱しくなる琴浦。まだ若いな、と微笑ましく思う。
「さあな。事情が分からんから、結論は出ないが、倉敷には倉敷なりに理由があったんじゃないか、と俺は思う。少なくとも、あいつは考えなしに怒鳴るような奴じゃない。無理にとは言わんし、徐々にでいいから、目の前の状況だけで判断して突っ走るんじゃなくて、一旦止まって、状況を整理してから判断する余裕を持てるようになれ」
「……はい。頑張ります」
「凹むなって。お前の意見は立派なもんだし、後輩のために課長に盾突く根性は、嫌いじゃねぇぞ」
「嫌いじゃない……ふふっ、そうですか。ありがとうございます。やっぱり、樫山さんに聞いてもらえてよかったです」
「立ち直り早えな」
「私の数多い美点の一つです」
鼻を高くしながら、ビールを飲む琴浦。今日の愚痴は終わりの様子だ。琴浦も疲れが溜まっているようだったし、先に言っていたとおり、早々に切り上げて、ゆっくり休ませることにしよう。
そう思った矢先、
「樫山さん、実は、もう一個、聞いてほしい話があります」
「倉敷がらみか?」
「いえ、課長ネタはさっきの話だけです」
「じゃあ、今度は誰の話だ?」
「誰の、と言われると困りますが、私の話って言うのが一番しっくり来ます」
「何の禅問答だ、それは」
珍しく歯切れの悪い琴浦。
「樫山さん、去年の企画で一緒に仕事した、吉田グループのメンバーって覚えてますか?」
「あぁ、顔と名前くらいは」
「リーダーの若い人、高島さんから、先日、食事に誘われました」
「へぇ、よかったじゃ――――」
「よくないです」
「……そうか、すまん。それで?」
膨れっ面で睨んでくる琴浦に、話の続きを促した。
「食事って言っても、二人ではなくて、こちらが女性四人、あちらが男性四人のお食事会だったんです」
「いわゆる、合コンってヤツか」
「はい。しかも、最初から仕組まれてました」
「何となく、落ちは読めたが。最後まで聞こう」
「食事会は、特に変わった事もなく、和気あいあいとお喋りしながら、つつがなく終了しました。会計係を任されていた私は、会計を済ませて一番最後にお店を出ました。そうしたら……」
口の中で言葉を噛みしめるようにしてから、何か言いたげにこちらの様子を伺う。
俺は、それに沈黙で答えた。最後まで聞こう、と言ったからだ。
琴浦は、酒の勢いを借りるつもりなのか、ジョッキ半分のビールを一気に飲み干すと、早口に言った。
「お店から出たら、高島さんしか居ませんでした。他のみんなは、先に二次会に行ってしまったって。嫌な予感がしました。じゃあ、私たちも合流しましょうって高島さんに言って、香苗たち――――他のメンバーに連絡しようとしたら、急に腕を掴まれて、僕たちは、二人だけで二次会をしようって、強引に連れて行かれそうになって……」
左手の手首を撫でる琴浦。恐らく、高島に掴まれたのが左手の手首だったのだろう。
「つい、嫌ですって叫んじゃって。高島さんの手を振りほどいて、走って逃げちゃいました。次の日、香苗たちに聞いたら、最初から、高島さんから、二次会の流れで二人にしてくれって頼まれてたそうです」
不意に気になった。
「琴浦、ちょっと左腕見せてみろ」
「えっ、や、嫌、です」
左手首を隠すように抱きかかえる琴浦に、いいから見せろ、と重ねて言う。我慢比べに負けるつもりはなかったが、案外、あっさりと琴浦が折れた。渋々、白くて細い左腕を、真っすぐにこちらに伸ばす。
「先に言っておく、すまん」
「っ、~~~~っ!」
琴浦の手を握り、腕の内側を上に向ける。途端に、琴浦が腕を引っ込めたが、一本の引っかき傷が赤く残っているのがはっきりと見えた。
直属ではないが、手塩にかけている部下にちょっかいを出されたことに、腸が煮える思いだった。
「琴浦、先方の高島には、俺から言っておく。何なら、お前に直接詫びを入れるように――――」
「や、やめてください、そうゆうつもりで喋った訳じゃないんです。それに、高島さんからは、次の日にちゃんと謝られました。酔いのせいもあったけれど、強引に連れて行こうとしたことは、私の気持ちをないがしろにしてしまったって反省しているって。一応、和解したつもりです」
「そうか。お前がいいなら、俺はこれ以上何も言わん。傷跡、早く綺麗になるといいな」
「そうですね。ありがとうございます……。やっぱり、樫山さんに話してよかった」
ふぅ、と小さく息を吐く琴浦。
「樫山さん」
「何だ?」
「私、今、樫山さんの愛を感じました」
「ごほっ!」
酒が胃袋じゃないところに入って、盛大にむせた。
「大丈夫ですか」
半分立ち上がる琴浦を掌で制止し、何とか呼吸を落ち着ける。
「お前が、急に、おかしなことを口走るからだろうが」
「だって、そう思ったんだからしょうがないじゃないですか。この傷見た後の樫山さん、すっごく怖い顔でした。そりゃあもう、極道みたいな顔でした。ただでさえ強面なのに」
「余計なお世話だ」
「でも、そこまで真剣に怒ってくれるなんて思いませんでした。だから、嬉しくて」
「直接じゃねぇが、琴浦の上司みたいなもんだからな。変なトラウマで男性恐怖症なんかになったら、仕事出来なくなるだろうが。それは、うちの会社にとって損害だ」
優秀な人材は会社組織にとって重要な財産であり、琴浦は、若干の贔屓目が入ってしまうが、優秀な人材だと胸を張って評価している。その琴浦を害する行為は、すなわち我が社への損害だ。その事実に腸が煮えたのだが、どうにも琴浦の理解は違うようだ。
「そういや、その合コンがあったのは、先週の金曜日か?」
「はい、そうです。あ、」
「やっぱりな」
先週の金曜日、日付が変わる頃に急に琴浦が電話を寄越した。取り留めのない話を三十分程しただけなのだが、どうにも様子がおかしいと思っていた。
「すまん、お前の様子がおかしいとは思ったんだが」
「謝らないでください。私が、勝手に電話しただけですから。それに、樫山さんの声が聞けて、安心しました。お陰様で、琴浦は元気です」
「そうか、ならいいが」
「すみません。なんか、暗い話題に付き合わせてしまいました」
「気にすんな。こうゆう話は、一人で抱えてても駄目だ。俺でもいいし、倉敷でも、柴田でもいい。お前が信頼できる奴に、ちゃんと話しておけ」
「課長は嫌です」
むすっとする。まあ、そう言うだろうと思って倉敷の名前を出した。
話題が尽きた所で、腕時計を見ると、もうすぐ琴浦の電車時間だった。一緒に飲むことが多いせいで、琴浦の電車時間まで覚えてしまっている。
「さて、じゃあ、今日はこの辺にしておくか。ちゃんと帰って、ゆっくり休むんだぞ」
「あ……はい。そうですね」
店員を呼び、会計を確認する。財布から五千円札を取り出し、琴浦に会計伝票と一緒に渡す。
「釣りはいらん」
「ごちそうさまです」
素直に受け取り、レジに向かう琴浦。
いつもなら店の外で待つのだが、先週の金曜日の話を聞いたせいか、店の出入り口の内側で、琴浦から見える位置で待ってしまう。間もなく、会計を済ませた琴浦が来て、一緒に店を出る。
「ありがとうございます」
「今日は大して飲み食いしてねえからな」
「それもですけど、お店の中で待っててくれて、ありがとうございます」
「たまたま、だ」
「そうゆうことにしておいてあげます」
「何で上から言うんだよ」
「うふふ」
駅に向かいながら、いつもの通り、取り留めのない話をする。
同じように駅に向かう人で、人通りは多い。土曜日、日曜日と休んで、また月曜日から金曜日まで働く。金曜日は、琴浦と酒盛りをするか、一人で晩酌をするか、職場の飲み会に参加するか。代り映えのしないサイクルをここ何年も続けている。それを何とも思わなくなったのは、俺が年を食ったせいだろうか。
「樫山さん」
「おう」
琴浦の呼びかけに、一応立ち止まるが、顔を向けずに返事をする。
琴浦は、俺の左ひじのあたりを、遠慮がちに引っ張る。
「樫山さん、私、今日、帰らなくちゃダメですか」
「ちゃんと帰って、ちゃんと休むって約束しただろう」
ぽつり、ぽつり、と琴浦が言葉を選びながら言う。悪いが、先手は打ってある。
「樫山さんと、一緒に、居ちゃ、迷惑ですか」
「迷惑じゃねえよ。ただ、飲む前に言っただろう。ちゃんと帰れ」
「樫山さん家に、行きたい」
「駄目だ」
「私の、何が、ダメなんですか」
「いつも言ってるだろ、お前の問題じゃない。俺の問題だ」
「私は、樫山さんじゃなきゃ、嫌です」
ぐっ、と言葉に詰まる。
はぁ、と大きく溜息を吐き出し、冷静さを取り戻す。それから、琴浦の顔を見る。
琴浦は、真っ直ぐに俺を見上げていた。それなのに、すぐにでも逃げ出しそうな雰囲気で。俺の肘を捕まえているのは、琴浦自身が、自分が逃げ出さないように必死になっているのかも知れない。
「琴浦、何度も同じことを言うが、」
「十三回目です」
「いや、回数の問題じゃなくてだな。お前みたいな前途有望な若い奴は、俺みたいな十も年の離れたオッサンじゃなくて、もっと」
「十一歳と八か月と十一日です。樫山さんと私の年の差、ちゃんと覚えてます」
「琴浦、俺の話を真面目に聞いてくれ」
「樫山さん、私だって、真剣です。不真面目な気持ちなんて、ありません」
今にも泣きそうな琴浦の表情が、俺はどうしようもなく苦手だった。
毎回ではないが、こうゆうやり取りは、何度も繰り返している。
「琴浦の気持ちは嬉しいが、俺の考えは変わらん。悪いな」
「私の気持ちも変わりません。だから、高島さんに……樫山さん以外の……男性に触れられたのが……嫌なんです。こんな傷、早く消えてほしい」
右手は俺の肘を掴んだまま、左腕を胸に抱える琴浦。
男の俺には分からないが、怖かったんだろう。
もし、腕を振りほどけなかったら。もし、酔いが酷くて抵抗できなかったら。最悪の場合、琴浦は会社を辞めていたかも知れない。今日、こうして言葉を交わすことも出来なくなっていたかも知れない。
怒りが、また沸々と込み上げてくるのを、何とか抑え込む。個人的な感情で怒っては駄目だ。琴浦の気持ちに応えていない俺には、そんな資格はない。そもそも、そんな質じゃない。
「琴浦」
「はい」
「すまん」
「え、んぐっ」
俺は底なしの阿呆だ。心の中で自分を罵倒しながら、それでも、琴浦を抱きしめる。
驚いた琴浦は、俺の腕の中で、微動だにしない。
「お前がしんどい時に、ちゃんと支えてやれる奴を、俺じゃない他の、ちゃんとした、そうゆう奴を探してくれ」
琴浦が再起動する前に、ゆっくりと離れる。
琴浦は、口をぽかんと開けて、俺を見ていた。
「……ずるい」
恨めしそうに、琴浦が睨む。
「今のは卑怯です。サイテーです。私の……私が、無抵抗なのをいいことに、こんな……」
「だから、先に謝っただろうが」
「こんな、衆人環視のところで、だ、抱きしめるなんて」
「俺なりに、元気付けたつもりだ」
「私の気持ちを逆手に取って……鬼畜です……こんなの、私、心の準備が……~~~~っ」
「鬼畜って、おい」
「ちょ、ちょっと待ってください。心臓がバクバクして……」
深呼吸を始める琴浦。いい加減、電車の時間が危ないのだが、まあ、終電ではないから、次の電車でも乗れればいいか。
間を置いて、幾分落ち着いた琴浦が、半泣きのような表情で言う。
「悔しいですけど、今日は、帰ります。これ以上、樫山さんと一緒に居たら、寿命が縮みます」
「いい心掛けだ。気を付けてな」
「うぅ~……」
膨れっ面で睨んでくる。いいから帰れ。
「また月曜日な」
「……絶対、次こそ、樫山さんを私の……私が、樫山さんのモノになります」
「それは頑張らなくていい」
「むぅ……じゃあ、樫山さんもお気を付けて。月夜の晩だけとは思わないでください」
「その場合、犯人はお前だ。下らん事言ってると、電車行っちまうぞ」
「あっ、ヤバ。じゃあ、失礼します」
律儀に頭を下げてから、駆け足で走り去る琴浦の背中を見送る。俺の電車時間はまだ少し余裕があるので、歩いて駅へ向かう。
琴浦が、改札を抜けたところで振り返り、ぶんぶん、と大きく手を振って来たので、手を挙げて応える。
琴浦が強引に、電車に乗らずに居残ったことは一度もない。俺が断れば、渋々だが、ちゃんと言う事は聞く奴だ。愛い奴だと、常々思っているのが正直なところだ。
改札を抜け、二番ホームへ向かう。反対側の三番ホームでは、車両トラブルで遅延した電車を待つ人々で、少し混雑していた。その中に、琴浦を見付け、琴浦も俺に気付いた。
にやり、と琴浦が笑った。反対のホームから十分聞こえる大きな声で、両手をメガホン代わりにして、
「樫山さ~ん!」
嫌な予感しかしない。
「私も、愛してま~す!」
さっきの意趣返しなのだろう。周囲の目が、俺に集まる。あの野郎。
遅れていた琴浦の電車と、俺の電車が同じタイミングで構内に入って来て、電車に乗り込んだ。
座席に座り、一息ついて、思案する。近いうちに、俺は、琴浦に負けるんだろうな、と静かな確信を持った。