9 クエッション
* * *
「コーヒー、飲みますよね?」
キッチンの方から七石の声が聞こえる。儀礼的に訊いただけで新の返答を待つつもりはないらしく、間もなくマグカップをふたつ持って現われた。
「もうグラス片付けちゃったんでマグカップですけど。ついでに僕もお代わりを淹れて来ました」
笑顔を向ける彼は、新が平日に訪れた理由を訊かず、また雑誌を手に取った。
「――何も、訊かないのか?」
しびれを切らせ、新の方から切り出す。だが七石は新の顔を見て首を傾げた。
「お話したいことがありましたら、おうかがいしますけど?」
不思議そうな表情でこちらを見ている青年が普通は想像つかないような能力を持っていることを、新は今更思い出す。
もしも彼に不利な内容の話をすれば、一瞬にしてその時の記憶を奪われる危険性だってないわけではないのだ。
新は緊張のため、喉を鳴らした。
* * *
「なるほどつまり、古見矢さんは――」
一通り話を聞いた青年は、腕組みをしてうなずいた。
「歴代の彼女さんたちの共通点に今まで気付いていなかった、と」
「それもそうなんだが、その前に……その、何故彼女たちのことを忘れていたんだろうか、と」
一気に話したせいか、新は急に喉の渇きを覚えた。コーヒーをまだひと口も飲んでいなかったことを思い出し、ひと息で半分ほど飲み干す。
七石は無言のまま新を見つめていた。
「ひょっとして、その……俺は彼女の記憶を――」
「それを聞いてどうなさるおつもりですか?」
七石が遮った。口調は静かだったが、新は威圧されたような気持ちになる。
「どうって」
「もしそうだとしてもお返しできませんし、先に納得していただいています。説明しましたよね? 『お返しする場合には、倍以上のお値段になります』と」
「確かにそう言われた。でも記憶を売ったかどうかくらいは教えてくれてもいいだろう?」
「知らない方がいいと思いますけど」
七石の態度は取り付く島もない。
「ご自分でお忘れになっていることも多いでしょうし――もし記憶を売ってたとしても、それを知ってしまえば取り戻したくなるのが人間の性というものらしいです」
「でも俺はどうしても知らなきゃいけないような気がするんだ。確かに、自分で鍵を掛けた記憶もあるかも知れない。だが確実にひとつくらいはきみに売っているはずだ。何故なら、そんな縁でもなければ、ここに通うきっかけがないからだ」
青年は首を傾げた。
「その発想は逆じゃないんですか? ここに通っていたから記憶を売ったのではないか、と」
「あ、あぁ……そうなのかな? どうもよくわからなくなって来たな……」
自分を落ち着かせるため、新はコーヒーに口をつける。
その様子を、七石はまるで観察するように見つめていた。
インタフォンが鳴る。
「こんな時間に……どなたでしょう?」と、七石が立ち上がる。
その後ろ姿を見送りながら、新は今までのことを思い返していた。
ポスティングされたチラシを初めて見た時に、意味のわからない怒りが湧いたこと――チラシのことを『誰か』に話したこと。
再度ポスティングされたそれを見て、ここに来ようと思いついたこと。
――そういえば、ここに来れば何か解決するかと思ったんだったな。
「あぁ、なんだ……え、そうなんですか。こちらにいらしてますよ?」
七石の受け答えを聞いて、新ははっとした。
「ミクさんか?」
問うでもなしにつぶやいた声は戸惑いが混ざる。誘いを断ってまでの用事がここへ来ることと知ったらどう思うだろう、という不安がよぎった。
だが、パタパタと階段を駆け上る足音に続いてドアを開け放したミクは、眼を丸くしていたが明るい声を発した。
「なぁんだ新さん、ここに来るんなら別に一緒に来てもよかったんじゃない?」
「あぁ、ごめん……つい焦、いや急いでいて」
機嫌を悪くした様子がないので、新はほっとする。
ミクは新の向かいに座った。
「椎菜さん……古見矢さんは相談にいらしたんだから。あなたが一緒では話ができないでしょう?」
「え? 相談? なになに? あたし、ごはんに誘うのしつこかったかなぁ?」
「いえ、そういうのじゃないですよ」と、新は笑う。
「それで、その相談ってのはもう終わったの?」
ミクはあっけらかんとした様子で問い掛ける。
「ええっと……」
「終わったら、このあと一緒にごはん行かない? 折角だしレイちゃんもたまには一緒に。ねえ、いいでしょう?」
「まぁ、もう店じまいの時間も過ぎてはいますし……でも」
「じゃあ決まりね! あたしこの辺のお店には詳しくないから、美味しいお店を教えてね?」
はしゃぐミクからふと窓の方に視線を向けた新だったが、いつの間にかカーテンがぴっちり閉められていたので、外の様子はわからなかった。
* * *
駅の表側に回って、ビルの地下にあるイタリアンに入った。
「こんなとこにこんなお店があったのねぇ」と、ミクは店内を見回して感心している。
案内したのは新だった。もちろん、過去に四年間住んでいた場所だからこの店のことは知っていて、何度か来たという記憶もある。
ただ、この店にひとりではなく『誰か』と訪れた記憶は非常に曖昧で、誰と来たのかはどうしても思い出せない。
四人席のテーブルに通されて、初めてミクは新の隣に座った。そして七石はミクの正面の席に着く。
ミクが注文したのはカルボナーラ。新は食べたことがなかったが、黄身が濃厚な卵を使用しているということを知っていた。
七石はドリアを頼んだ。
新はドリアよりグラタン派だが、エビとベシャメルソースのドリアよりもミートソースが載ったミラノ風ドリアの方が美味しい、という感想を『誰か』から聞いたことがある。
――間違いなく、俺はここに住んでいた頃の記憶を彼に売っている。
新はそう思ったが口には出さなかった。七石が時々意味ありげな視線を新に送っているのも無視をした。
記憶を売っていたのなら、その時にはいらないと思って手離したものだ。それは新にも理解できる。だがしかし、あのビルに初めて訪れた時、新が記憶を失うのと同時に体験した『記憶を取り戻す』ことへの誘惑もまた強かった。
――対価が必要だと言っていた……それ以上の『記憶』か『時間』が。
時間というのがどういう意味なのか。
『記憶』は過ぎた時間の記録のことだ。だから『時間』とは、記憶と別の『過去の時間』という意味ではなさそうだ。
となると、要求されるのは未来の時間だろうか……そんな風に考える。
――未来の時間を対価として要求される。それは自分の未来がそれだけ目減りするということ。つまり、寿命がそれだけ短くなるということなのだろうか?
「――で、キャンプに行くことになったんだよ。ね、新さん」
ミクに呼ばれて、新は我に返った。
「へえ、それは楽しそうですね」と、七石もにこやかにこたえる。
「楽しそうでしょ? なんだったらレイちゃん――」
「僕はインドア派ですから」
ミクが言い終わるうちに笑顔で断る七石。そして途端に膨れるミクの様子を見ているうちに、新は自分の考えが段々莫迦らしくなって来た。
「そうそう七石さん。あと二、三人なら新規の人が増えても大丈夫ですよ?」と新も便乗する。
「古見矢さんまで――ほんとに僕はインドア派なんです。力もないですし。あとお盆休みは、サービス業の書き入れ時なんですよ? それに――」
困惑の表情を浮かべた七石は、それでも『行かない理由を』列挙し、頑として断ろうとする。
いつも超然とした様子に見える彼にも苦手なものがあるのだ、と新鮮な気持ちで眺めていた新は、そのたびにいちいちミクが不満顔するのもまた、微笑ましく感じた。
* * * * * *
週末にキャンプ道具一式をガレージから引っ張り出し、ベランダに広げて虫干しをした。
去年は夏期休暇のキャンプがなかったから一度も使っていないはずだった。なので壊れたり傷んだりしている箇所がないかも調べるつもりだ。
「あれ?」
テントセットの中に妙な出っ張りを見つけ、新は紐を解いた。それは小さなラジオだった。
「こんな所にあったのか……」と苦笑しながら取り出す。
去年の春頃まで愛用していた記憶があったが、いつの間にか紛失してしまい不便していた。諦めて新しく買おうと思っていたところだったので、見つかったことに安堵する。
しかし同時に、何故こんな場所に紛れ込んでいたのかと首を捻った。
『去年、夏以外のどこかでキャンプに行ったかな?』と、新は山川にメッセージを送った。
返信は『いや、行ってないと思うが?』だったので、少なくとも仲間内の行事とは関係なさそうだった。
「うーん……ラジオを持って行こうと思って入れておいたのかなぁ」
だが恒例のキャンプでは他のメンバーが防水のラジオを持っているので、それを使っていたはずだ。
ならば、メンバーとは関係なく新自身がどこかでキャンプをした時に使用したのかも知れない。
「最近物覚えが悪いな。トシなのかなぁ」
ぼやきつつ冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
自宅で過ごす休日には、たまには昼間からビールを飲むのもいいものだ。
残り本数を確認し、夕方の買い物のついでに数本買い足しておこうと考える。
「あと、あいつ用にカクテルっぽいのも買っておかなきゃ……」
ふと口をついて出た自分の言葉に、新の手が止まった。
あいつって誰だ? そんな疑問が頭の中に渦巻く。
『誰か』用に買う飲み物の銘柄も頭に浮かんだのに、肝心のその人物のイメージが湧かない。
新は、何かとても大切なことを忘れているような気がして来た。
* * *
自宅の中を探してみた。その『誰か』の痕跡が残っていないかと。
アルバムは以前見た通りだ。一枚も『誰か』らしき姿は残っていない。いや、集団で写っている写真なら数枚あるが、その中で新と特に親しげにしているような女性はいなかった。
携帯電話のメモリーも残っていない。服や小物のひとつも残っていない。
どうしてこれほどきれいさっぱり痕跡がないのか――しばらく悩んでようやく思い出す。
「引っ越しの時に処分を任せたんだった……」
新は愕然とした。
自分は何故引っ越し時の処分を彼らに任せたのか。思い当たることはやはりひとつしかない。
そもそも今回の引っ越し自体、その『誰か』と別れたのがきっかけなのだろう。
新は元来、ひとところに落ち着いて生活するのが好きな性格だった。
大学時代には寮生活だったが、就職してひとり暮らしを始める時には、ただ通勤に便利かどうかというだけではなく周辺の環境までじっくり調べてから住居を決めた。
そこには六年間住んでいた。引き払ったのも、建物を建て替えるという理由で仕方なく引っ越しをすることになったのだ。
最近まで住んでいた地域も居心地がよかった。
駅前に適度な賑わいがあり、土地柄、古書店なども数軒ある。春には桜並木が見事だった。
新がそこに新居を決めた時は、もっと長く住むつもりをしていたはずだ。
それなのに、たった四年で引っ越しを決行したのは何故だろう……と、ふと思い返すことがあったが、あえて考えないようにしていた自分にも気付いた。
――俺は七石に『記憶』を売っている……
それが一昨年キャンプに参加した『まり』に関するものなのはほぼ間違いない。ひょっとすると、ラジオの件も『まり』と二人でどこかへ出掛けた名残りかも知れない。
だが、それを確認する術はなかった。その記憶を取り戻すためには倍の代償を支払わなければいけない。
単に『忘れた』のと違い、きっかけがあれば思い出すというものでもなさそうだった。
――ならばどうすればいいのか。
新はソファに腰を下ろした。無駄だと思っても失った『記憶』について考えずにはいられなかった。
冷蔵庫から取り出した缶ビールが開けられることもなく、いつの間にかぬるくなったことにも気付かずに、新は自分の思考の中に深く沈んで行った。