8 コンフュージョン
* * * * * *
コーヒーサーバの前で、新と京塚は夏季休暇について雑談していた。
「じゃあ、来週顔合わせで大丈夫そうですね」と、うなずいた京塚に、新は、ミクがキャンプに行きたがっているという話を伝える。
「――だから、必然的に長友は誘えなくなるが……」
「ああ、最初から誘うつもりしてなかったですよ。だってあいつ、新先輩のことを悪く言ってたじゃないですか」と京塚は笑う。
「そういえばそうだったな……」
新にとっては根も葉もない言い掛かりのため気にしていなかったが、京塚にしてみれば大いに憤慨する話だったらしい。
「もうあいつとは連絡取れないように、着信拒否ですよ。着信拒否」と思い出し怒りをしていた。
新は気のいい後輩をなだめて話を戻す。
「でもまぁ、お前もかみさんからOKもらえたし、これで今年のキャンプは一安心だな」
「その代わり、実況しなきゃいけないんですけどね――まぁ、帰ってからイヤミを言われるよりはマシかな」
キャンプの話を続けながらそれぞれの席に戻り掛け、ふと京塚がつぶやいた。
「それにしても珍しいですね。先輩がお連れになるかたが『まり』さんじゃないなんて」
「え?」
思わず新が立ち止まると京塚も続いて立ち止まり、新の顔を窺うようにして言葉を続けた。
「こないだ、新先輩は『まり』という名前の人じゃないと付き合う気になれないっていう話を、山川先輩から聞いたものですから」
「まり……?」
その名前を口にした途端、新は心臓を文字通り鷲掴みされた気がした。あまりの衝撃に息が詰まり、身体がくの字に折れ曲がる。
「…………っ!」
「あっ大丈夫ですか? ごめんなさい。俺が変なこと言っちゃったから」
崩れるように倒れ掛けた新を、京塚が慌てて支える。
「いや……大丈夫、だ」と、ようやく声を絞り出してこたえる。
だが大丈夫じゃないのは新自身にもわかっていた。めまいで視界が歪み、立っていられなかった。
「すみません。あれ山川先輩の冗談だったんだな。あぁ、コーヒーこぼしちゃいましたね。俺、代わりの持って来ます。先輩はそこに座って休んでてください」
新の視線は京塚の後ろ姿をかろうじて捕らえていたが、頭の中は真っ白で自分が今どこにいるのかさえわからなくなっていた。
息ができないほど胸が痛んだ。めまいは激しくなる一方で、倒れる前にどうにか自分の意思で膝をつく。近くにいた同僚が何事かと寄って来た。
しかし、何故『まり』という名前にこれほどまでの反応を起こすのか、新にはわからなかった。
* * *
「山川、ちょっといいか」
昼休みもそろそろ終わる時間帯を狙って、新は同僚の山川の席を訪ねた。
「あ、なんだよ新……京塚に言ったのは悪かったよ。ちょっとした冗談のつもりだったんだけど。大丈夫だったか?」
同僚であり、大学の同期生でもある山川は、新の顔を見るとバツが悪そうな表情になった。
「いや、冗談でもなんでもいいんだ。そこじゃない――お前、俺とは大学からの付き合いだよな?」
「……どうしたんだよ? そんなこと、今更。まさか、彼女の話をしたからこれっきり縁を切るなんて言うんじゃないよな?」
山川の顔色が見る間に蒼ざめる。新はその様子がおかしくて、軽く笑った。
「違うって。そうじゃぁない。そうじゃなくて……お前は憶えているんだよな? 俺が大学の時に――大学からこっち、もし付き合ってた相手がいたら、その人の名前」
「憶えているけど。お前、ほんとにどうしたんだ?」
山川は声をひそめて「まさか、若年性アルツハイマーとかじゃないよな? 今年から査定が厳しくなったってのに――」
「いや、仕事については大丈夫だ、多分。とにかく、俺の過去について教えてくれ。今、ミーティングルームがひとつ空いてるから」
「わかったよ。変なやつだなぁ」
山川はそう言いながら、新と一緒にミーティングルームへ入る。
テーブルを挟んで向かい合った山川は、新の顔を覗き込んだ。
「なんで今更そんなことを確認したがるのかわかんないんだけど――」
「いいからとりあえず教えてくれよ」
新は相手を急かした。
「もう少ししたら昼休みが終わる。お前も、あまり長く席を空けていられないんだろう?」
新はプロジェクトの中では数人いるサブリーダーの立場だったが、山川は違うプロジェクトの事実上のリーダーである。
弁が立ち冗談もよく口にする山川は、交渉ごとが得意で部下たちにハッパを掛けるのも上手い。
仕事の上でも有能なので、当然上司にも部下にも頼りにされている。
そんなわけで就業中の山川は、ある程度マイペースに仕事ができる新よりずっと忙しいのだった。
「わかったよ――大学入学した頃は、高校時代からの彼女だと言って伊藤麻里って子を紹介された。その子は別の大学の二年生で――」
* * *
新が高校三年の夏、当時大学一年生の伊藤麻里がバイトしていたパン屋で知り合い、新の方から告白して付き合い始めた、と山川は聞いていた。
大人しそうで地味な印象の女性だった。
ストレートの髪を肩の下辺りまで伸ばしていたが、脱色せず真っ黒なままで、化粧っけもほとんどなかった。銀縁の眼鏡を掛けており、制服を着せたらそのまま進学校の生徒だと言っても信じられるような、生真面目さを漂わせていた。
パン屋での働き振りは健気で、新はそこに惹かれたのだという。
客に話し掛けられたりするのが少し苦手そうなところも、イメージに違わない様子だったらしい。
だが後に、伊藤麻里は大学入学早々、サークルの歓迎コンパで同じ大学の三年といい雰囲気になって『お持ち帰り』されていた――つまり付き合い始めから既に二股掛けられていたことを人づてで知り、七月頃に別れたのだった。
振られた新を慰めるため、山川は自分が所属しているサークルに誘い入れる。
緩い登山やキャンプを楽しむ集団で、軟派な雰囲気はないが、かといっていわゆるワンダーフォーゲルを追求するような男臭いサークルでもなかった。
キャンプの経験はなかったが、学校行事で登山などには抵抗がなかった新は、読書以外の趣味を持つのも悪くないだろう、と言い、その誘いを受けた。
時季外れの歓迎コンパで知り合った三年の田畑万理江と新は話が合い、サークル活動を通して少しずつ親しくなって行った。
田畑は理学部だったが読書家でもあり、よく新とお互いの蔵書の貸し借りをし合っていた。
そして冬が近づく頃に二人はようやく付き合い始める。傍から見ている限りでは、まるで初めて異性と付き合った中学生同士のように初々しかったという。
だが彼女が四年になり、卒論や就職活動に忙しくしている様子を見て――しかも希望しているのは飛行機の距離にある某研究所だったため、新は自分から身を引いた。
その後は新が大学二年の夏、バイト先の弁当屋で今井まりというシングルマザーと出逢う。
小さな子どもがいるので恋愛は考えていない、と言われていたが、お互い惹かれ合っていたようだ。手助けになるならと新は保育園に今井の子どもを迎えに行ったりもしていたらしい。
彼女の名前について、持ちネタのような自己紹介が面白いのだ、といつも話していた――
「――そんな感じで、まぁ大学時代は四年の夏くらいまで四人の『まり』と付き合ってて、就職してからは俺が知ってる限り五人、やっぱり『まり』って名前で」
山川はそれぞれに代表的なエピソードなどを交えながら説明した。
「どれもこれも数ヶ月か、長くても二年経たずに別れてたが、こないだまで付き合ってた茉莉さんが割と長めで三年くらい? だから俺、新もようやく落ち着くのかと思って――」
「わかった。ありがとう」
新は片手で山川の言葉を制した。
「どうしたんだよほんとに……何かあったのか? ひょっとして誰かから、『実はあの時の子どもが』とか連絡が来たとか。でもどの『まり』だったか思い出せなくて――」
「いや、もういいよ。そういうトラブルでもないから大丈夫だ」
新は無理して笑顔を作った。
「人に言われるまで、そんな共通点があったなんて気付かなかったんだよ。それだけだ」
「うーん? そういうものなのか?」
山川はまだ納得できなさそうな表情だったが、同僚に呼ばれて「それじゃ――なんかあったら、遠慮なく言ってくれよ?」と、片手を挙げて席を立った。
新が時計を確認すると、昼休みは既に終わっている時間だった。
* * *
書棚に収まっている数冊のアルバムには高校までの友人たち、その後はほぼキャンプの時の写真だった。
懐かしさに眼を細めながら、ページを確認して行く。
その時期に恋人がいるなら一枚くらい一緒に写っていそうなものだったが、それらしきものはない。
いや、女性が何人か写ってはいたが、新には誰が誰の彼女なのかわからなかった。近藤や山川を始めとする初期からのメンバーも、その時々で違う女性を連れているのだ。
認識できるのは、その後誰かの妻になった女性たちだけだ。
「俺だけじゃなく、みんな割と長続きしない性格なのかねぇ」
引っ張り出したアルバムを数冊眺めてようやく、新は元彼女探しを諦めた。
アルバムをしまおうとして、ふと違和感に気付く。
愛用していたのは写真を自由に貼り込めるタイプのアルバムだったが、所々に不自然な空きができていることに気付いたのだ。
その空きはそのままの場合もあったが、後から間隔を調整して貼り直したようなページもあった。
「何故……というか、誰がこれをやったんだろう?」
写真の貼り直しをしたらしい最新のページには、とあるコンサートホールの前で作り笑顔をしている新がひとりだけで写っていた――その手には、決して新の趣味ではない、クラシックコンサートのパンフレットを持って。
* * * * * *
定時退社の日。いつものようにミクからメールが来たが、『ごめん、今日はちょっと用事があるんだ』と、新は断りの返信をした。
退社時間になったと同時にタイムカードを押し、急いで電車に駆け込む。
何時まで開いているのか、定休日はあるのか……今まで一度も疑問に思わなかった自分を恨んだ。
未だに電話番号すら知らないままだということも。
「チラシに書いてあるから、いざとなったらそれを見ればいいと思ってたんだ……」
電車の中で藍色に染まる空を眺めながら、言い訳するようにつぶやく。しかしそのチラシもとっくに配り終えて手元には残っていなかった。
外が暗くなるにつれ、窓に映る自分と眼が合う回数が増える。目的の駅までの数十分がひどく長く感じられた。
駅裏のビルに辿り着き、いつも西日が朱く室内を照らしているあの部屋――それらしき西向きの部屋を探すように見上げる。
しかし該当しそうな窓は見当たらなかった。
――俺が方位を勘違いしているんだろうか?
悩みつつも階段を上がり、薄暗い廊下を進んでドアをノックした。
七石はソファに座って雑誌を手にしていた。
「おや――こんな時間に、珍しいですね?」
あまりにも普通にくつろいでいる様子を目にして新は拍子抜けしたが、窓の方に視線を向けた途端、強い違和感を覚えた。
窓からは真夏の熱をまだ残している陽光が差し込み、部屋の中を朱く染めていた。
「古見矢さん?」
七石は、いつまでも入口付近で立ち尽くしている新を不思議そうな表情で見つめた。
「とりあえずソファにお掛けになっては?」
「あ――あぁ」
違和感を持った自分の方がおかしいのだろうか? と、新は軽く混乱しながらソファに腰を下ろした。
――俺が勝手に思い込んでいただけで、実は近くのビルの灯りなのかも知れない。そうでなきゃ、窓に赤いシートを貼っているとか……でも、赤いシートなんて貼るだろうか? なんのために?
昼間にも訪れたことがあったはずだが、新はその時の窓の様子を思い出せなかった。