7 ノスタルジア
* * * * * *
数日後、新が定時退社して会社を出た直後に、見知らぬ番号から着信があった。
間違い電話かセールスだろうと放置している間に留守電に繋がる。そのまま切れるかと思ったら女性の声でメッセージが残されている。
「間違いだと気付いていないのか」
呆れながら再生してみると「――ミクです。あのわかりますか? 新さんの携帯ですよね?」と聞こえて来た。
「何故あの子が?」と驚いて一度耳から離してしまったが、慌ててまた続きを聞く。
「――で、あいつが新さんをクビにさせるようなことを言ってたらしくて……ごめんなさい。あたしのせいで」
どうやら、先日京塚から聞いた長友の件を謝っているらしい。そしてミクも人づてに耳に入れた様子だった。
長友と直接連絡を取れない状況なら彼女の身は安全だろう。新はそう考えながら電話を返すことにする。
「あ、新さん!」
ほっとしたような声が受話器から聞こえる。
「ミクさん、長友ってやつの件なら――」
「あれ? あたし名前言いましたっけ?」
その声は、電話の向こうでミクが眼をパチクリしているのが見えるようだった。
「いや、それがね。俺の後輩の知り合いらしくて。俺はそっち経由で聞いたんだけど」
「へええ? そんなことってあるんですね」
「まったくね。あまりいい縁じゃない気もするけど」と新は笑った。
「新さん、まだお仕事中です?」
「いや、今日は定時退社の日だからもう会社を出たよ」
駅に向かいながら新は空を見上げた。
「じゃあこれから、お詫びにおごらせてもらえませんか?」
「別にそんな」
「『次はおごってくれ』って、こないだ新さんおっしゃってたじゃないですか。この前ファミレスの駅、改札のとこで待ってますね」
「あ、おい……」
プツリと切られた電話の画面を、呆れた表情で見つめる。
電話を掛け直して断ってもよかったが、新はその駅に向かうことにした。
* * * * * *
「しばらくこちらにはいらっしゃらないかと思いましたよ」
週末の午後、七石はドアを開けた新を見て、驚いた様子で眼を丸くした。
「あぁすまない。ふらっと立ち寄ってみただけだから、都合が悪ければまた今度でも」
「いえ、今のところ特に予定はありませんが。何か?」
「こないだ観せてもらったのがなかなか面白かったので、また女性の記憶を」
七石は笑顔になった。
「そうですか。ではお選びください」
壜の中のビー玉がまた増えていた。
「こんなに短期間で増えるものなのかい?」
「なんていうんですか、口コミとやらで」と青年は苦笑する。
明らかに、男性よりも女性の方が増えるスピードが速い。
「なるほどなぁ……ところでこれ、壜の下の方の記憶なんてのはどうやって取り出すんだい?」
「下の方?」と、七石は首を傾げた。
「いや、こんなに大量に詰まっているんじゃ、底のものは取り出しにくいだろう」
「あぁそれ、見た目だけなんですよ」
「見た目だけ?」
新は驚いて壜を覗き込む。
「でもこう、手を入れると確かにここに――」
「ええと、そこにたくさん入っているのはもちろんそうですが、壜の上の方とか下の方とかはそう見えるだけで、古見矢さんが手に触れた時には、選ぶべきものが手の中に入っているんです」
「……よくわからないんだが」
「例えば、『冬の海の風景が観たい』と思いながらひとつを手に取ると、そういう記憶が選ばれているんです」
「でも、このピンク色のマーブル模様のビー玉の記憶を観てみたいと思ったら?」
「当然それが選ばれます」
「うぅむ……」
「もう少し詳しく、『ピンクのマーブル模様が入っていて、冬の海の風景のもの』と思いながら探すと、それに近いものが選ばれます――もしもそういった条件に該当するものがない場合は、探しても探してもピンと来るものがないでしょうね、多分ですが」
「うーん……?」
「まぁ、今更そこで悩むのも変な話じゃないですか。とにかく、観たいと思ったものが選ばれているんですよ。複数個選んでいただいているのは、その中でもよりご希望に近いものを僕が選り分けているだけなんです」
実際、僕にもその『仕組み』が完全に理解できているわけじゃあないんですよ……と七石は付け足した。
「そうか――わかったようなわからないような。まぁいいか。今日は学生時代を思い出すような記憶が観てみたくてね」
「そうですか。ではそのように思いを込めながらいくつかお選びください」
七石はほっとしたような表情で新をうながした。
「ところで、俺の連絡先をミクさんに教えたのはきみだろう?」
壜の中に手を入れひんやりした感触を楽しみながら、新は問う。質問というより確認のような口調だった。
「そうです。申し訳ございませんでした――でも緊急を要するものだと思いましたので」
「別に責めてるわけじゃないんだ。ただ驚いただけで」
「すみません――でも、椎菜さんとは親しくなられたようですね?」
「親しいというか。なんだろうな。兄か親戚のように懐かれてる気が」
「兄、ですか。では古見矢さんにとっては妹のような?」
「だって、年齢がね」
「離れ過ぎている?」
「いや、俺は年下と付き合ったことがないんだ――というか、そもそも付き合う気になれないらしい」
新はそう言って照れたように頭を掻いた。
「そうですか……」
青年は新の顔を見つめたが、物言いたげな視線は新を通り越して、遙か遠くを眺めているようだった。
* * *
季節は秋だった。
この記憶の持ち主は髪が長いらしく、風に流された毛先が時折り視界に揺れる。
図書館ですれ違う他校の男子生徒に片想いをしているらしい。目の前の本やノートに集中できない時は、視線がその男子を探している。
そして視界に姿を捕らえるだけで満足して心が温かくなる。
ある時に言葉を交わすきっかけができると、今度は話すチャンスを探してそわそわするようになった。
そのうち、自然に会話を交わせるようになった。女子生徒は図書館通いが益々楽しくなり、勉強を一緒にすることも少しずつ増えて行った。
季節が移り、女子生徒が意を決して告白しようとしたその日、男子生徒は同じ高校の生徒らしき女子と一緒に図書館に現われる。
二人の関係は問うまでもなかった。というより、相手の女子の積極振りがすべてを表していた。
挨拶をしようかと悩む記憶の主に、男子生徒はいつもと変わらぬ笑顔で片手を挙げる――その時にようやく気付いたのだ。
相手には最初から、自分に対する恋愛感情などなかったことに……
* * *
「切ないですね」
まだ夢から醒めきらぬ表情で新はため息をついた。『記憶』に入り込み過ぎたのか、軽く酔ったようなめまいを感じていた。
映画などに感情移入し過ぎると、たまに起こる症状だった。
「この人は学生ですか?」
「いえ……女性の年齢を察するのは苦手ですが、おそらく三十代になったかどうかという年齢のかたでしたね」
「じゃあこの記憶はかなり前の話じゃないか。何故今更」
「今更だからじゃないでしょうか。ようやく吹っ切る決心がついた、ということでは」
「あぁ、なるほどなぁ……乙女心はなかなか難しいもんだなぁ」
新はまた深く息をついた。
「お気に召しましたか?」
「そうだな……切なかったが、雰囲気が懐かしかった。年代が俺と近かったからなのか、それともこの人の学校の制服が懐かしいのか」
「このかたの制服はセーラー服ですよね。男子は学生服で」
「そう。相手の学校は男女ともブレザーだったが」
勝ち誇ったような女生徒の、男子生徒とのお揃いの制服を見せびらかすような態度は、ただただ憎らしいという感情しか湧いて来なかった。だが同時に、憎らしいと思っている自分の心が悲しくて、切なくて、どうしようもなく情けなかった。
「古見矢さんも学生服で?」
「いや、俺は中高一貫でグレーのブレザーの……そうだな、制服が違うのに何故懐かしいと思ったんだろう?」
胸の辺りにまだ残るときめきや負の感情さえも懐かしく感じるのが、新には不思議だった。
「……女性の記憶には感情まで残るんだろうか」
「どうなのでしょうね。僕もそういったところをもっと深く知りたいのですが。人間というのはなかなか複雑にできているものです」
七石は曖昧な笑顔を浮かべた。
ひょっとしたら七石も他人の記憶を覗き見し、切なさや郷愁を味わうことがあるのかも知れない。
新はそう考え、その表情が何を意味しているのか探ろうと試みたが、結局わからなかった。
* * * * * *
あれ以来、週に一、二度の定時退社日にはミクと落ち合って夕食を共にするのが続いていた。
ミクから必ず電話が来るので、根負けした新がメールアドレスを教えたのだ。
「今時メールだけぇ?」とミクは不満そうだったが、定時退社の日の午後に『今日は中華が食べたいんですよ』などとメールを送って来る。
食事をして別れた後は『ごちそうさまでした』『美味しかったですね』『今度はわたしがごちそうしますね』など、軽い感想のメールを寄越すが、毎日チャットのように送って来ることはなかった。
少し親しい異性の友人、もしくは親戚の子と一緒にいるような感覚で、いつしかそれを楽しんでいることに新も気付いていた。
その日、新のリクエストでステーキの店に来た二人は、いつものように向かい合わせの席に座った。
夏本番でさすがにブレザーはやめたらしいミクだったが、それでも毎回制服姿だ。
「新さん、今は誰とも付き合ってないって言ってましたよね?」
「うん、そうだね。しばらくは誰とも付き合う気にはなれないだろうなぁ」
「そうですかぁ」
ステーキ店に男性と連れ立って来た女子高生――に見える女性――というのも、やはり周囲からは少し浮いているらしかった。
あまり深く考えずに自分の食べたい物を挙げた新だったが、周囲の男性の視線を一身に受けているミクに申しわけないような気分になってしまう。
「きみは?」
「え……」
「ミクさんは、七石さんが好きなんだよね?」
さり気なく周囲に聞こえるか聞こえないかの声量で、新は問う。
無意識のうちに、『自分とこの子はそんな関係じゃないんだ』とアピールしているような態度に気付き、慌てて付け足す。
「その、ほら、七石さんのところで初めて会った時に、そんな感じだったから」
「七石――あぁ、レイちゃん? 好きだけど、全然相手にされないんですよ」
ミクは寂しそうに笑った。
「レイちゃんは人間を好きにならないから」
新はその言葉の意味をはかりかねた。
「彼には、その……何か過去にあったのだろうか?」
「レイちゃん? さあ。何故?」
「何故って――」
「それよりも新さん、こないだ話してたキャンプって、あたしも行ってもいいですか?」
女性特有のコロコロ変わる話題には相変わらずついて行けず、新は少し面食らった。
「あぁ……キャンプ、興味ある? 参加してくれるのは大歓迎だよ。でも親御さんとか」
「大丈夫ですよぉ。あたし現役じゃないですもん」
きゃらきゃらと笑うミク。
いつものことだったが、ミクは会うたびに最初は敬語を話す。それが時間の経過とともにタメ口になって行く。
新にとってミクは、一緒に過ごしていて心地いいと思える相手だった。それでも恋愛感情らしきものは湧かなかった。
自宅でくつろいでいる時や仕事の休憩時など、ふとした瞬間にミクの笑顔を思い出すこともあったが、思慕というほどの胸の高まりはない。
まして、彼女を抱き締める自分の姿など、想像もできないのだ。
――いい子だとは思うんだけどなぁ……やはり年下だからなのか。
でも、この距離感ゆえの心地よさなのかも知れない、と新は思い直す。
親しいなら必ず付き合わなければいけない、という法律もない。
一度付き合ってしまえば、やがて訪れるのはマンネリによる倦怠期、そして気持ちのすれ違いだ――と、新はそこだけは確信めいたものを持っていた。