6 アポロジー
* * *
一駅分移動して、手近なファミレスに入る。
ウェイトレスの視線は二人の関係を判断しかねている様子だった。
テーブル席に案内され、向い合う席に腰を下ろしながら、新はミクの目の前に置かれたメニューに手を伸ばし食事のページを開いた。
「腹が減ってたから、何か食べようと思ってたんだ。どうせ食うならひとりより二人の方が楽しいしな。何にする?」
相手が遠慮して軽食やデザートを……と言い出す前に、あくまでも食事をおごるのだと印象付けるためだった。
「新さんって慣れてる感じ。ひょっとして結構モテる人?」
ミクはメニューのページを繰りながら、新の方を時々見上げる。
「モテてなくても、俺くらいの年齢なら女性と付き合ったことがあってもおかしくないだろう」
「うーん、でもなんていうか、落ち着いてて……あ、ひょっとして既婚? だったら悪いことしちゃったかな」
「いや、独身だし今は恋人もいないから大丈夫だよ」
新は苦笑しながら注文のボタンを押す。
「――ミクさんは何にするか決めた?」
「あ、えっとじゃあ……」
慌ててメニューに視線を走らせる。
先ほどミクが「グラタン美味しそうだなぁ……」とつぶやいていたのを、新は聞いていた。なので「グラタンかドリアなんてどう? サイドメニューにピザやポテトもあるし……頼んだらつまむよね?」と、うながす。
ウェイトレスが「ご注文はお決まりですか?」とやって来た。
「じゃあ、あの、グラタンとドリンクバーで」とミクはメニューを指差しながら注文する。
「俺はミックスピザとポテトと、ハンバーグのセットを。ライスとサラダで。ドリンクは、今はいらないかな」
新も注文し、メニューを閉じる。
この年頃の女性は、見掛けによらずよく食べるというイメージが新にはあった。
食事の後のデザートなどは『別腹』と称し、数人でランチに行っても、デザートを食べたがるのが常だ。
それ以外の時間でも「小腹が――」などと言ってはちょっとしたお菓子をつまんでいるのを、職場でもよく見掛ける。
食後に飲み物を頼めば、そのタイミングでデザートを勧めるのも不自然ではないだろう。
「ではご注文を繰り返させていただきます――」
ウェイトレスの後ろ姿を見送って、ようやくミクが息をついた。
「本当に、ご迷惑掛けたのにおごってもらっちゃっていいんですか?」
「構わないよ。飲みに行くことに比べたら、安いものだし」
「大人って感じですねぇ」
軽く笑い合った後、ミクの表情がふっと沈んだものになる。
「あの、新さん。さっきの人のことなんですけど」
「話したくなければ話さなくてもいいよ。それに、もしミクさんが嫌なら、俺の記憶を――」
「それはいくらなんでも悪いよ」
ミクは慌てたように遮る。その数瞬後、共通の秘密を分かち合う『同志』として、二人は微笑み合った。
「ってゆーか、むしろ逆? 嫌でなければ話を聞いて欲しいかな、って」
少し落ち着いたのか、新に慣れて来たのか、ミクの口調にはいつの間にか親しげなタメ口が混ざり出した。
「聞くのは構わないが、アドバイスできるかどうかはわからないよ?」
「アドバイス? ああ、いいのいいの。聞いてもらえるだけで楽になるんだし。あ、あたしドリンク取って来るね。新さんには、お水?」
そう言うとミクはさっと席を立ち、ドリンクコーナーへ向かった。
新には彼女が成人済みかどうかの判断はできないが、割と人目を惹くタイプらしいことはわかった。
他のテーブル席の男性がチラチラとミクの姿を目で追っているのだ。
そしてその後は一様に、新の方をさり気なく窺い見て、やはりその関係に悩むような表情になるのだった。それが制服の効果なのか、化粧でくっきりと見栄えよく整えられているからなのか、新にはわからなかった。
ミクの顔立ちを見て「かわいいな」とは思うが、それが自分の好みかどうかというと、考えられなかった。同僚や後輩の話を聞いているうちになんとなくわかったことだが、どうやら新には好みのタイプというのが存在しないらしいのだ。
――しかしこんなとこ、万が一知り合いに見られたら、何か言われそうだなぁ。
新は苦笑した。だがやましいことはないのだ。堂々としていよう、と思いながら窓の外に視線を向けた。
街の中でも、夏らしいインクブルーの夜空が広がっている。七夕はとっくに過ぎたがまだアジサイもそこかしこに花をつけている。
――あぁ、そうか。この季節なら本当は衣替えをしているはずだから。
窓の外を通った高校生の一団を眺めていて、ようやく気付く。
ミクはあのカフェオレ色のブレザーを着続けていたが、普段その格好で出歩いていたらもう暑いはずなのだ。
男性客たちはそういうところを見ていたのかも知れない。
「お待たせ――何見てるの?」
ミクがグラスを三つ持って来た。テーブルにそれを置きながら新の視線を追う。
「あぁ……いいわね、高校生って」
寂しそうにそうつぶやいて、ミクは席に腰掛ける。
「その、ミクさんの服は」
「レイちゃんに聞いてるんでしょ? これはね、あたしの母校の制服――でも、母校って言えるのかなぁ。一週間も通わなかったから」
にっこり笑顔を向けて、ミクはブレザーを脱いだ。
「やっぱり暑いんだけどね。でも着たくてさぁ。もうこの学校もないし」
「あぁ……そうなのか」
どんな言葉を掛けたらいいのか、新にはわからなかった。
ポテトとピザが運ばれ、ミクが腕をまくってピザカッターを振るう。
「ピザ屋でバイトしてたこともあるんだよ? もっとも、そこでは長いナイフでピザをカットしてたんだけど」
そう言いながらきれいに六等分する。
「あたし、外で食べた時は必ず記録を残すことにしてんの。たとえそれがコンビニおにぎりでもね――お腹が減って何かを食べるのは、自分が今生きている証拠だから」と、ミクはスマートフォンでピザとポテトの写真を撮る。
「大丈夫だよ。新さんのことは撮らないから」と言い足して、彼女は笑った。
* * * * * *
「先輩、結局キャンプどうします?」
週明けの会議が終わった直後、京塚が近寄って来た。
「うーん……近藤も、今年は子どもの合宿と重なるかも知れないって言ってるんだよなぁ」
大学からのキャンプ仲間も、三十代ともなればそれぞれの事情を抱えている。
時間が自由に使えていた学生時代はともかく、お互い就職した後はなかなか全員揃わなかった。メンバーの出入りが多少あっても毎年十人になることもない。
また、核になる当時のメンバーが三人以上揃わないと、開催されないのが暗黙の了解になりつつあった。
「最低四人くらいいればキャンプはできるじゃないですか。俺は行きたいんですけどね……問題はあいつの説得だけで」
「そうだなぁ」
京塚は新たちのキャンプが初めての経験だったらしい。すっかりキャンプの楽しさに染まった京塚は、三回目の参加となる年に彼女を連れて来た。それが後に彼の妻になるユリだった。
「そういえば、一昨年のキャンプに結局来なかった俺のツレで、長友っていたじゃないですか。覚えてます? ちょっと背の高い。姿勢の悪い」
「うーん……? 打ち合わせに来てたっけ? 顔はちょっと」
京塚とは仕事上では三年の違いがあるが、年齢は五歳の差がある。
キャンプには気の合う仕事の同僚や先輩後輩、恋人などを誘うことが歓迎されていたが、更にその知り合いとまでなるとなかなか記憶には残りにくい。
「顔合わせの時、最後の三十分くらいしかいなかったですもんね……あいつ、仕事が忙しいのもあるけど、時間とかルーズで」
「時間にルーズなやつには、少人数のキャンプは厳しいんじゃないか?」
「いや、キャンプの話じゃなくて――」
京塚が声をひそめた。
「……ミーティングルーム、今の時間なら空いてましたよね?」
「うん、そうだな?」
妙に深刻そうな京塚の表情だったが、何を話したいのか新にはまったく見当がつかなかった。
ミーティングルームといっても、背の高いパーティションでいくつかの小部屋に区切っただけのエリアだ。
当然フロアの声は筒抜けなのだが、社員たちのデスクから多少離れた場所にあるため、こちらの声は聞こえにくい仕様になっている。
「で、お前の知り合いがどうしたんだ? まさか取引先の偉いさんだったりするのか?」
「あんなテキトーなやつが取引先にいたら、担当代わってもらいますよ」と京塚は軽く笑ったが、すぐ表情を引き締めた。
「てか先輩、もし違ったらすごい失礼なんで、あらかじめ謝っておきます」
突然京塚は膝に手をつき、勢いよく上半身を倒す。新は驚き、慌てて顔を上げさせた。
「いや、そんなのは間違ってた時に謝ってくれればいいんじゃないか? 別に今更、そこまで他人行儀な間柄でもないだろう――というか、まず聞かせてくれよ。一体なんの話なんだ」
顔を上げた京塚は、言いにくそうに切り出した。
「その、長友なんですが、あいつが昨日俺に連絡して来て――その連絡も、ほぼほぼ一年振りなんですけどね――『お前んとこの先輩、エンコウしてるぞ!』って」
「え――?」
新の表情が一瞬引きつった。
やはりあの観衆の中に知り合いがいたのか、それとも誰かがネットで画像を上げたのか――と、最悪の状況が脳内を駆ける。
「それで、『彼女がいるのに女子高生を買ったやつだから、お前から上司に言ってクビにしてもらってくれ』と……でもまず、今先輩には彼女がいないですし、そもそも女子高生といたからって即エンコウってことじゃないですし、ってかまず、なんで長友が一回くらいしか会ったことない先輩のことをそんなに詳しく覚えて――先輩?」
話を聞いているうち新はあることに思い至り、くつくつと笑いが込み上げて来た。
「ひょっとして、その長友って、背がひょろ高くてちょっと猫背だったりするか?」
「えぇ……どっかに画像あったっけな。ちょっと待ってくださいよ――ってか先輩、長友の話より、どうして先輩がそんなこと言われなきゃいけないのかって俺は」
あの日、ミクを追って来たのがその長友本人であれば話は単純なのだ。
新が忘れていたとしても、向こうは京塚を通して何度か写真を見ているのかも知れない。それならばあの時に会ったのが新だと――その時に思い至らなくても――気付くのは、あり得ない話ではなかった。
ミクのことを本当に女子高生と思っているかはともかく、八つ当たり的にこちらの立場を悪くしようとしているらしい長友の考えが読めた。
「こいつですよ、この写真、眼がちょっとイッちゃってるようだけど。こいつ、酒が弱くって――」
「あぁ、確かにこいつだ。そうかぁ、意外なところに縁があるもんだなぁ」
「あいつに会ったんですか?」
「会ったというか……知り合いが絡まれててね、彼氏役を頼まれて――」
新はざっと経緯を説明し、長友が時間だけではなく金にもだらしないやつだという話も付け加えた。
「そうそう。大学の時も、仕送りを早々に使い込んじまって、知り合いにちょいちょい借金してて……俺は最初から『金なんてない』って突っ撥ねてたけど、踏み倒されたやつもいたんじゃなかったかなぁ」
スマートフォンの画面を指で弾きながら京塚がつぶやく。
「つか、あいつ全然変わってないのな……先輩に迷惑掛けるとこだったよ。文句言わなきゃ」
「いや、放置しといていい。下手に関わるとロクなことにならない予感がする」
「そうですか? 先輩がそう言うなら――でもよかった。長友の言うことだから話半分で聞いた方がいいだろう、って思ってたけど、万が一先輩がロリコンになっちゃったんならどうしようかと」
京塚は冗談めかして言うが、知人から聞いた話だけあって一抹の不安がない訳じゃなかった様子だ。
「万が一って。別に若い子を恋人にするのは犯罪というわけじゃないだろう?」
「状況にもよりますよ。まして、コイツの言うのはエンコウでしたし」
「あぁ、そりゃ確かに犯罪だが、あいにく俺はそこまで物好きじゃぁないな」
新はミーティングルームの扉を押し開けながら笑った。




