4 コンセプション
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「先輩、今年の夏季休暇はどうする予定ですか?」
三年後輩の京塚が、書類を数冊持って来たついでのように訊ねる。
「あぁ……キャンプか。去年は結局行けなかったもんなぁ」
新は窓の外に眼をやった。まだ梅雨時期真最中のどんよりとした雲がビル群の向こうを塗り潰すように漂っている。
でももう数週間もすれば、焼けつくような陽射しとねっとり重い熱風で街を覆い尽くされる季節がやって来るのだ。
「ええ、それもあるんですけど――どうもうちのやつ、妊娠したっぽくて、俺の予定がわからないんですよ」
京塚は淡々とした口調を崩さず、腹を丸く擦るような仕草をした。
「ええっ? なんだそりゃめでたいじゃないか。夏期休暇よりもそっちを早く言えよ」
思わず声が大きくなった新を、京塚が慌てて制する。
「いや、そんなことはどうでもいいんですけど――」
「どうでもいいって……お前、子ども欲しくないのか?」
「まぁ、欲しいかどうかって言われたら欲しいですけど、気分が悪いから食事は作れないだの、自分が遊びに行けないから旅行はやめてくれだの言われるのはね……」と、京塚はため息をついた。
「炊き立ての米の匂いが駄目になるって話は聞いたことがあるからなぁ……しかし、遊びに行くのはまた別の話なんじゃないか? 夏季休暇の頃には悪阻も一段落しているだろうし」
新は書類をざっと確認しながらうなずく。蛍光色の付箋が数枚貼られているのが眼に眩しく感じられた。
「そこなんですよ。ユリのやつ、『あたしもキャンプ行きたいのに、ソウくんだけ行くなんてずるい』とか言い出しましてね……でもあいつ、先週もランチだかスイーツだかのバイキングに義母さんと行って来たらしいんですよ? 自分だけがいい思いするのはよくても、俺だけが――」
滅多に悪口を言わない京塚だったが、今は溜まっていたものを吐き出すような勢いで自分の妻への不平を並び立てていた。どうやら妊娠がわかってからというもの、細かい衝突が積み重なっていたらしい。
「食事が作れないのは悪阻だけじゃなく、甘いものを先に食べているせいもあるんじゃないのか?」
そんな風に、先日も京塚夫婦は口論になったらしい。
「まあまあ、その辺はかみさんやお義母さんと一緒に話し合ってみた方がいいんじゃないかな」
愚痴ならいくらでも聞いてやれるが、独身の新には夫婦に関してのアドバイスは不可能だった。
「なんなら、俺と一緒に飯を食ってから帰ることにしてもいいんだし」
「それはそれで、お金がどうこうって言われるんですよね――ちょっと前までは『いつものメンバーはほとんど男性ばっかりで、新先輩も今年は単身参加なのに、あたしも参加しちゃっていいのかなぁ?』なんて言ってたんですけどねぇ」
「今年は……?」
新は首を傾げた。
「あ、すいません」
京塚は失言した、という表情になる。
「いや、えっと……去年、はなかったんだから、一昨年か。俺単身参加じゃなかったっけ?」
「えぇ? やだなぁ……その年齢でボケたとか言わないでくださいよぉ」
なんとなくお互いに白けた空気を感じ取り、バツの悪そうな顔で力なく笑い合ってから、「じゃあ、夏季休暇の件は他の人とも調整してみます」と京塚は言って自席へ戻って行った。
――そういや、誰かと付き合ってたような記憶はなんとなくあるんだよなぁ。でもほとんど印象に残ってないし、たまたまその頃だけの付き合いだったのかも知れないな。
新は後輩の後ろ姿を見送りながら、また首を捻った。自分の記憶の曖昧さが腑に落ちないながらも、伸びをひとつしてから思考を仕事モードに切り替えた。
* * * * * *
梅雨明け宣言の数日後、土曜の午後。新は電車に乗りあのビルへ出掛けた。
新年度早々立ち上げられたプロジェクトも一段落し、久し振りにのんびりした休日を迎えられる日だった。
三階の一室を目指し階段を上っていると、頭上から小さく「あ……」という声が聞こえた。
「お久し振りですね、古見矢さん。もうこちらには来られないのかと思ってました」
少し驚きの混ざったような笑顔を向けた青年は、下り掛けた階段を戻ろうとする。
「あぁ七石さん、お久し振りです。最近仕事が忙しかったので。でも今、出掛けるところだったのでは?」
「いえ、大した用事ではないので、後からでもいいんです」
にこやかな表情でドアノブに手を掛けた青年――七石は、当然といった様子で新を迎え入れた。ドアには鍵が掛かっておらず、『大した用事ではない』と言ったのが気遣いからではなさそうだ、と新は安堵する。
涼やかな音を耳が捕らえ、新ははっとして見上げた。ドアの隅に、以前は無かった小さなベルがキラリと光る。
「あぁ――どうしたことか、ここを訪れるかたが最近は徐々に増えて来まして」
七石は新の視線に気付き、苦笑しながらソファを勧めた。
「はぁ……それはその、『ビー玉』の件で?」
「まぁそれもありますが、その他にも色々と――で、今日はどのような?」
「そうだな、何か『記憶』を見せてもらおうかと思ったんだが」
しかし新は、たまにはもう少し変わったことをしてみたいとも考えていた。
初めて体感した時には刺激的なアトラクションでも、慣れてしまえばそれほどでもなくなるものだ。
「そういえば、あの『ビー玉』を以前にやったように、俺の額に押し付けるとどうなるんだい?」
「額に? でも古見矢さんの記憶は――」
「いや、そこに入っている、俺以外の記憶を、さ」と、新は壁の隅にふたつ並んで置かれている大きなガラスの壜を指差した。
そこには色とりどりのマーブル模様が美しいビー玉――それぞれが誰かの記憶であるという――が、まるでキャンディのように詰められているのだ。
「あまりお勧めできませんねぇ」
青年は組んでいた腕をほどき、細い顎をつまむように片手を添えた。
「勧められない、というと?」
新の問いに、七石は右手のひらを上に向け、何かを乗せているように窪ませた。
「例えばですがここに、誰かが大学受験を経験したという記憶があるとして、それを取り入れると古見矢さんの記憶と同化します」
「俺が受験したような記憶になるってことかな?」
「まぁ、そんな感じですが、夢を見るのとは違って微妙な違和感は残るでしょうね。手や身体のバランスが違うとか、文字の癖が違うとか――あぁ、コーヒーはアイスとホット、どちらがいいですか?」
「ええと、じゃあアイスで」
青年はうなずき、キッチンへ向かう。やがてアイスコーヒーを満たしたグラスとマグカップを手にして戻って来た。
七石はホット派らしい。
「違和感というのは、他には得意科目が違ってたり?」
新はグラスを受け取りながら話を再開した。
「そういったことです」とこたえながら、七石もマグカップをテーブルに置く。
「ふぅん……じゃあ、その記憶の中で、トイレに行った時に鏡を見てた、なんてことがあったら?」
「どうでしょう……」
七石は眉をひそめた。
「今まで『味見』した記憶でもご承知の通り、元の持ち主とその周辺の人たちの容姿は曖昧になっているはずなのですけど」
「そういえば『記憶』の中で友人の顔を見ても写真を見ても、個人個人が判別できなかったなぁ……あの、少年野球の記憶の時」
新は腕を組み、しみじみと思い出すようにうなずいた。
「周りの風景から察するに今はかなり高齢のようで、だから顔も写真も曖昧なのかと思っていたけど」
「あれは確かにご高齢のかたのものですが、記憶自体は鮮明なまま記録されているんですよ。ここに」と、七石は人差し指で自分の頭をつついた。
「多くの人は、それを引き出す装置の方が錆びつくんです。だから、取り出した記憶は、それこそホクロの位置まで鮮明に再現しようと思えば可能なんですよ」
「へえ。見せるためには、あえて不鮮明にしてるということか――それはあれかい、個人情報というやつで?」
「いえ、単に面倒だからですよ」
ふいっと横を向いて、青年は素気なく答える。
「面倒だから、か。そりゃあいい」
新はくすくす笑った。
「というか、そんなことを確認するためにいらっしゃったんですか?」
青年は思い出したようにマグカップを手に取る。つられて、新もグラスに手を伸ばした。
「いや、もちろん『味見』をさせてもらおうかと思って来たんだけどね。でももっとはっきりとした長い記憶が見られるようにするなら、取り込んだ方が早いのかな、と思いついたもんで」
「お勧めできませんよ」
七石は繰り返した。
「そうか。まぁどうしてもというわけじゃないんだ。たまにはちょっと変わったこともしてみたいなぁ、と思ったんでね。それだけなんだ」
「ちょっと変わったことを、ですか……」
青年は顎に手を添える。考える時の癖らしい。
「気分を変えてみたいのでしたら、女性の記憶などはいかがです?」
「ほう、それは……でも、どうなんだろう。その、違和感とか」
「ご自分の記憶に混ぜるわけではないので、大丈夫だと思いますけど」
「そうか、じゃあ試してみよう」
新は立ち上がり、隅に置いてある大きな壜に近寄った。
いつもビー玉を選ぶその壜は、底から蓋の取っ手の高さがサッカーボールと同じくらいで、壜の肩の辺りまで大小さまざまなビー玉が詰められている。
しかし七石は「こちらの壜ですよ」と、その隣の更に一回り以上大きな壜を示した。掛けてある柔らかい布を取り払った新は目を丸くした。
小さい壜がすっぽり入ってしまうほどの大きさで、ビー玉はその六分目ほどの高さまで詰まっている。
「え、ひょっとしてこの大きい方は、全部女性の記憶ということかい?」
「ええ」
目分量でも男性の記憶の二倍以上、ひょっとしたら三倍の量があるかも知れない。
「こちらの壜が三リットル、大きい方は十一リットル入るとのことですね」
「十一リットル……ってことは、ざっと見積もっても六、七リットル分ってことか。こりゃまた、随分大勢の人が……いつの間に」
「いえ、女性のかたは、おひとりで何度も来られることが多いですね。ですからこれはここ二、三ヶ月の分になります」
「何度も? そんな短期間で? でも確か、何度も記憶を取ると耐性がついてしまうという話では?」
「あまりよくはないのですけどね、小さな思い出の品と軽い記憶を合わせてお持ち込みくださるかたが多いんですよ。軽い記憶なので何度か取り出しても、それほど影響がないといいますか、全体的な記憶の齟齬が起きるほどではないようです」
「それでも、癖になるとよくないんじゃないか?」
「どうなんでしょうね。男性と女性の脳の作りの違いなのかも知れませんが、どうも女性は、取り切れなかった記憶の欠片が残っているような場合には『似たような別の記憶』として認識するようです――疑似デジャヴュとでも名付けましょうか」
「へぇ……それはまた」
新は相槌を打ったが、どうにも納得できなかった。
「僕にもまだまだよくわからないことが多いのですけどね。まぁそんなわけで、女性は嫌なことがあるとさっさと忘れて、次に切り替えてしまいたいようです」
「そう簡単に切り替えられるものなんだろうか……」
「簡単ではないから、うちに売りに来るのでしょう。それでもやはり、個人個人でその重さは変わって来ますし――っと、お客さまですね」
プルルルル――という安っぽい呼び出し音で青年はさっと立ち上がる。そのままドアの脇についていたインタフォンに向かった。
そこで初めて、階段の下にあるインタフォンがここに繋がっていることに新は気付いた。
「はい――はい、構いませんけど、これで十九回目ですよ? 椎菜さんは大丈夫なんですか?」
短いやり取りのあと、インタフォンを切って振り返った七石は、苦笑の表情を浮かべながら肩をすくめる。
「すみません古見矢さん。もうおひとり、これからいらっしゃいます」
同時に、階段からは軽やかな足音が聞こえて来た。