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3 リコンストラクション

 * * *



「今日は何を『味見』なさいますか?」

 ドアが開いた瞬間に青年はそう言って(あらた)を迎えた。しかしいつもと違い沈んだ表情をしている新を見て、「おや……」と眼を丸くする。


 最寄り駅の裏の地域にある雑居ビル。

 その三階の部屋に訪れた新は、青年の顔をぼぉっと見ていたが、突然驚いたような表情になった。

「――俺はいつの間にここへ?」

「今ですよ」


 青年にうながされ、ソファに腰を下ろす。ここまではいつもと同じだった。

 しかし今日の新はいつものような『秘かな楽しみを抑えきれない』という笑顔ではなかった。

 生気が抜けてしまったかのように力なく、顔色も蒼白い。


「――何かありましたか?」

 青年でなくてもそう訊ねただろう。傍目からはそれほどまでに、新は尋常ではない様子だったのだ。

「あぁ、そうか……どうやら相当ショックだったらしい」


 ようやく周囲の様子を認識した、という気分で、新は息をつく。

 駅ビルからどうやって電車に乗り、ここまで歩いて来たのか――その間のことをまったく覚えていなかった。


「よくここまで無事に辿り着けたな……あんなものを見たというのに……」


 そうつぶやく新の頭の中では、さっき見た光景が幾度となく繰り返されていた。



 * * *



 眩しいくらいに晴れている昼下がりの陽射しは、いつもよりめかし込んだ()()の上気した頬を、より輝かせていた。


 茉莉はいつも待ち合わせの五分ほど前に来る。だから今日もそうしたのだろう。

 だが男の足元に転がる吸い殻を見て小さく口を開けた。そして男の目論見通り、随分待たせたのではないかと申し訳なさそうにしている。

 男は気にしていない風を装い――実際、やつは大した時間待っていないのだ――茉莉の肩を抱いて、早速どこかへ行こうと誘っている様子だ。


 新は彼らの会話の内容がどうしても気になり、フラフラと店を出てビルの入口へ向かった。



「――そんな、こないだもおごってもらったし、悪いや」

 若い男の声が聞こえる。


「だって、いつも都合つけてもらってるんだし――やっぱり忙しいんでしょ?」

「まぁなぁ。今も他の社員たちはプロジェクトの大詰めで、数日泊まり通しな奴もいるけど、俺はほら、一応社長だから汚い格好はしていられないだろう?」

「ほんとにすごいわよね。その若さで社長なんて――」



 ――莫迦莫迦しい。


 遠ざかる二人の会話を聞いて、新は呆れ返った。

 こぼれ聞こえて来たプロジェクトの内容は、新の会社ともう一つ、若い社長の率いるベンチャー企業が共同で開発しているものに酷似していた。

 だが新は社長にも直接会ったことがあるので、別人なのは確実だ。


 企業人が開発中の内容を第三者にベラベラ喋るわけはないので、彼はひょっとしたら本当はそこの社員なのかも知れない。

 だがあまり詳しく話さない様子から、社長か社員の個人的な知り合いというだけの可能性もある。


 なんにせよ、茉莉は結構な額をあの若い男に貢いでいるのだろう。しかも自覚せずに。そんな様子が手に取るようにわかった。

 どう聞いたって奴の経歴は口から出まかせだろうに、完全に信じ込んでいるらしい彼女に対して虚しさを感じた。



 茉莉がこのところ定期的に週末の予定をキャンセルしていたことも、これで合点が行った。それは決まって、給料日直前の週末だったのだ。

 あの男の職業が本当は何なのかは知らないが――ひょっとしたら働いていないのかも知れないが――安月給のサラリーマンなどは金に困る時期である。

 茉莉は何かしら罪滅ぼしのつもりでおごっているのだろうが、あの男にしてみれば、それは『作戦』のひとつに過ぎないのだ。


 何がきっかけで二人が出逢ったのかは、新にはわからない。

 だが、お互い気を遣わなくてもいい間柄になってしまった新との関係より、たとえそれが罪悪感だったとしても、感情が動くあの男との関係の方を彼女が望んでいることは確実だった。


 新は今すぐにでも追い掛けて男の肩を掴み、「お前、さっき来たばかりだったろう!」と怒鳴ってやりたかった。

 だが、それをしたところで、今更意味があるのだろうか……



 * * *



「よければお話をお聞きしますが」


 青年の声で、新は今どこにいるのかをようやく思い出した。

 目の前のテーブルにはコーヒーのマグカップが置かれていたが、その湯気は頼りなく細く上がっている。

 いつの間にか窓からは朱い光が差し込んでいた。あれから随分時間が経っているらしい。


「いや――今日は()()をお願いしたい」と言う新の表情は硬く、その声はかすれた。


「記憶を失うのは、お嫌だったのでは?」

 新は無言でうなずき、倒れこむようにソファに身を預ける。


「では何故」


「……それ以上の、耐えられないことがあったんだ」

「そうですか」

 青年は自分のマグカップを手に取った。


「何があったのか、話さないといけないだろうか」

「お話にならなくても『取り出す』ことはできます」

「何も見なかったことにしたいんだ」

 それだけでいい、と新は考えていた。


「――それで解決するのであれば」

「どういう意味だ?」


 青年は新を見つめた。

「同じようなことが、今後また起こらないとも限らないですよね?」

「そうかも知れない。だが、俺が何も見なかったことにすれば済むと思うんだ。それでまた、以前と同じように――」

「失礼ですが、人間関係でお悩みですよね? 例えば恋人とか」


 その瞬間、新は顔色が変わるのを抑えられなかった。

「なんでも買い取ってくれるんだろう?」と、つい語気が荒くなる。


「ええ、買い取れますけど」と、青年は困惑したような表情になった。

「――でもあまり何度も同じような記憶を取り出すと、耐性が付いてしまうか、逆にあなたが壊れてしまいますよ?」

「言っている意味がわからないんだが」

 新はうつむいたまま、首を横に振った。


「薬と同じようなものだと思ってください。一時的には効果があっても、使い過ぎると耐性菌が発生したり身体を壊してしまいますよね」


「使い過ぎると耐性菌が発生する――なるほど、『嫌な記憶』は病気みたいなものか」と新は苦笑する。

(たと)えが気に入らないのであれば言い直します」

 青年の眉間にかすかな皺が浮かんだ。


「今回は見なかったことにして、それで解決なさるのでしたらそれでも構わないとは思います。ですが、今後も同じようなことが起きる可能性があるのでしたら、あまりお勧めはできません。また繰り返したいのか、それとも変えたいのかにも――」


「いや、よくわかるよ。ならばいっそ、病巣ごと取り払ってしまおうか?」

 そう吐き出した新の頬は、引きつるように歪む。


「――おっしゃっている意味が、わかりません」


 自嘲のような笑いが湧いた。

「きみにはわかってるだろう。この間、俺に話してくれたじゃないか――『記憶』を売った者たちのその後の話を」


 青年によれば、彼はその『ビー玉』に触れれば、持ち主のことが感じられるらしい――そして新は聞いてしまったのだ。肩の荷が下りて生まれ変わった人生を。


「この際、茉莉のことをすべて忘れればいいんだ」

 今の新は、記憶が消えることによってどれだけ気持ちが楽になるかを想像しないではいられなかった。


「あなたはそれでいいのですか?」

 思いやるような青年の視線は温かい。

「とても大切なかたなのですよね?」


「大切だからこそ、ひと言でも話して欲しかったのに……」

 裏切られたという傷が深過ぎて、新はもう笑顔を作ることもできない。

「できるなら、今この瞬間に引っ越しをして電話も替えてしまいたいくらいだがね。さすがにそれは無理だろうから、せめて彼女の記憶がなくなれば」


 青年はしばらく無言で見つめていたが、やがてため息をついた。

「わかりました――しかし完全に忘れることは不可能です。あなた自身の記憶まで傷ついてしまいますから」


「じゃあ、俺の記憶はどうなるんだ?」

「多分あなたには、彼女のことを忘れてしまったように思えるでしょう。付き合った相手がいた、それ自体は消せません。ですが彼女の声や仕草、一緒に行った場所も忘れるかも知れませんね。場合によっては、行った場所は覚えていても、誰と行ったのかを思い出せなくなるかも知れません」


「随分曖昧なんだな」と、新は肩をすくめる。

「記憶の強さは人によって違いますから。場所に固執している人は場所を忘れないでしょうし、固執していないならその記憶も一緒に消える。まぁ、そんな感じだと思ってください」

「きみがそれを選り分けるのか?」

「いえ、あなた自身がです」

 そう言って、青年はテーブル越しに左手を伸ばして来た。



「――ああ、そういえば……」


 ひんやりした指が額に触れた途端、心地よいまどろみに誘われた新はつぶやく。

「最近は彼女の方から電話を掛けて来ることもなかったんだよ……」



 * * *  * * *



 一ヶ月が過ぎた。

 新は(きょう)(づか)から焼酎を贈られた。好きな銘柄だ。

 お礼だと言われたが、不要だったチケットを譲っただけなのでかえって申し訳ないとすら思った。

 そもそも、興味のないコンサートのチケットを何故自分が持っていたのかも思い出せないのだ。多分福引で当てたとか、忘れていた懸賞が届いたとか、その程度のことだろう。


 それから気分転換も兼ねて、四年過ごした部屋を引っ越すことにした。

 間もなく引っ越しシーズン本番のため、善は急げと週末ごとに不動産屋を巡り、数駅分会社に近い場所で部屋を決めた。


 不用品を処分するため青年を呼んだ。青年は馴染みという引っ越し業者を連れて来て、手際よく分別してくれた。

 最終的に荷物が半分くらいの量になった。この数年でそこまで『不用品』が増えたとは、新自身にも驚きだった。

 結構な額の買い取りになり、引っ越し代金が半額ほどで済みそうだと言われたので、青年に紹介された業者に引っ越しを任せることにした。


 ついでに携帯(スマートフォン)のメモリーも見直す。仕事の付き合いや飲みの時の社交辞令で交換したアドレスなど、誰なのかわからない名前がいくつもあった。

 冗談で「これも買い取ってもらえるのかな?」と訊いてみると、さすがにそういった個人情報は買い取れない、と青年に笑われる。


 新は名前を見ても顔が浮かばないアドレスを徹底的に削除して行った。

 もしも相手の方から用事があって連絡して来るなら、その時に改めて登録すればいいのだ。メモリーが消えた言い訳など、どうとでもなるのだから。



「きみに出逢って、人生が変わった気がするよ」

 引っ越し当日、新は青年に礼を伝えた。


「そんな、大袈裟ですよ。こちらはあくまでも商売。お客さまとは持ちつ持たれつなんですから」

 こたえる青年の表情は、しかし営業用の貼り付けた笑顔ではなかった。

「それだけじゃ済まないよ――個人的にも、きみには助けてもらったという気持ちがすごくあるんだ。よくしてもらったお礼に、何かできることはないだろうか」


「そうですか? ではこのチラシを、マンションのポストに入れてもらってもいいでしょうか」と青年はくすくす笑う。

 それはレトロなイラストが描かれているチラシの束だった。

「これは――ああ懐かしいな。俺が興味を持ったきっかけの」

「ええ。強要はしませんが、ご近所に配っていただけるとありがたいです」

 なかなか売り上げの上がらない商売で、と青年は笑う。


 なんでも買い取るとは言うが、その後()()を誰に売るのか、新にも見当がつかない。買い取るばかりでは赤字になりそうなものだ。


「その程度のことならいつでも。また『味見』をさせてもらいに行くのだし」

 『記憶』を『味見』することは、今や彼の趣味のひとつになっていた。アマチュアの無声映画を観る感覚で楽しんでいる。

 元の持ち主がいらなくて売り払ったものだ。誰にどう扱われようと構わないだろう。


「そうですね、お気が向きましたら」



「じゃあまた」


 手を上げて青年たちを見送る。彼らは無言のままこたえる。

 春の(あか)い夕陽が景色を染め、新の記憶に刻み込まれた。


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