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 * * *  * * *



 翌日、(あらた)(なな)(いし)のところへ向かった。

 よく晴れていて非常に暑い。真夏日を超えて猛暑日だとニュースで言っていた。

 半袖のシャツは駅までの道のりですっかり汗に湿った。

 電車の中は冷房がそれなりに効いていたが、駅に停車するたびにドアから重たい熱風が入って来る。


 七石がいる雑居ビルに向かう数分の間で、新の喉は焼けるようだった。唾を飲み込もうとしても、その唾が湧いて来ないくらい口の中が渇いている。

 それが暑さのためなのか緊張のためなのか、新にはわからなかった。

 このまま引き返し、頭を冷やしてから出直すべきかとも考えたが、足は進むのをやめなかった。



 初めて階段の下のインタフォンを押す。応対に出た七石の声は、いつものように少し驚きを含んでいた。

「そこにいたら暑いでしょう。熱中症にでもなったら大変です。とにかくお上がりください」


 新には階段を踏みしめる一歩一歩も重たく感じられた。

 ドアを開けた新の表情がいつもと違うのを見てとったのか、七石は困ったような顔で先手を打って来た。


「どうしたんですか? 僕、キャンプには――」

 だが新は「いや、その話じゃないんだ」と、緊張した面持ちのままこたえる。

「そうなんですか? とにかくこちらへどうぞ。アイスコーヒーでよろしいですよね?」


 ソファにうながされ、新は無言のまま腰を下ろす。なんと言って切り出せばいいのか、未だに決めかねていた。



()()()さん、今日はどんな――というか、『記憶』を『味見』しに来たわけではなさそうですね? 一体どうなさったんですか?」

 アイスコーヒーのグラスをテーブルに置き、自分にはホットコーヒーを用意して七石は向かいに腰を下ろす。

 部屋の中はエアコンで調整されていた。七石は出会ってからずっと長袖のシャツを着ているが、いつも涼しげな顔をしている。

 しかし今日はさすがに暑くないのだろうか、と新は疑問に思う。


「今日はきみに訊きたいことがあって来たんだ」

「僕にですか? あぁ、(しい)()さんとの関係なら――」

「いや違う。俺自身に関してのことだ」

 話をはぐらかされているような気持ちになり、新は慌てて七石の言葉を遮った。


「そうですか……」と青年は眉をそっとひそめる。

「でも、以前お話ししましたよね? リスクがある、と」

 新が『売った記憶』のことを言いたいのだということは理解したらしい。ならば話が早い、と新は身を乗り出した。

「それはわかっている。でもどうしても気になってしまうんだ」


 新は少し前から自分の周囲で起こっていること、自分が知らなかった過去の恋人たちの共通点、そのきっかけになった『誰か』がどんな人だったのか……それがどうしても知りたくて我慢ならないことを吐き出した。


「少し前まで付き合っていた相手のことはもちろんなんだが、その前に付き合っていた相手も誰ひとりとして思い出せないのが、どうしても引っ掛かるんだ」



 一気に話したせいか酷く喉が痛んだ。

 新はアイスコーヒーに添えられていたストローを使わず、直接グラスに口をつけて飲む。そのたびに喉が鳴った。


「ひょっとしたら、同じ名前だから連想してしまわないようにと、その時の俺が頼んだのかも知れないが――それなら何故、十年以上も前の彼女のことまで一切合切消さなければいけなかったのかと。俺が望むなら、名前だけ思い出せなくする方法もあったような気がするんだ」


「もう失った記憶ですよ? いえ、失ったというより、あなたが進んで捨てたがった『不用品』です」

「俺の疑問がルール違反なのはわかってる。だが、欠けた部分があるのに気付いてしまってからは、身体が半分なくなったような気持ちになることがたびたびあるんだ。なるべく考えないようにしていたけど、でももう限界なんだ」



 七石は眉間に薄く皺を寄せて新を見つめていた。どうしたらいいのか逡巡しているようにも見える。


「記憶を戻すのが無理なら、きみから教えてもらえないだろうか。何もそのものズバリじゃなくてもいいんだ。『こんなことがあった』ということだけでも」と、新は駄目押しする。

 もしかしたら七石が自分の望みを叶えてくれるんじゃないかという、根拠のない希望があった。



 やがて青年は根負けしたようにため息をつく。そして、昔話でも聞かせるような口調で話しだした。

「――あなたとの最初の出会いも、こんな日でしたね」


「え……?」

「暑くて、空気に重さを感じるくらいの、夏の夕方でした。あなたはもう忘れているかも知れませんが、僕は憶えていますよ」


 新は必死で記憶を辿る。人形めいた容姿を持つこの青年に、過去に会っているのだとしたら、憶えているはずだ。

「いや、わからないな……いつ頃のことだろう?」


 七石は懐かしむような表情でふっと笑い、膝の上でゆっくりと手を組んだ。

「あなたはまだほんの小さい少年でした。幼稚園や保育園には通ってないらしく、年の離れたお姉さんが学校から帰って来るまでは、ひとりで絵本を読んだり積み木をしたり、時々飼い犬のロペをこわごわ撫でてみたりする大人しい子でした」


「ロペ……そうだ、うちにいた犬はそんな名前だった。でも何故七石さんがそれを――?」


 どうやっても自分より年下にしか見えないこの青年が、新の幼少期を知っているはずはないのだ。

 幼い頃の『記憶』を売ったのだろうか、と新は考える。それならばその記憶を『観た』青年が当時のことを知っていても不思議はない。



「その時はまだ僕も少年の姿しか持っていなかったので、あなたから見たら、少し年上のおにいちゃんという感じだったのでしょうか」

「え?」

 新は目をしばたたきながら青年を見る。


「ある時言われましたよ『おにいちゃんはがっこうにいかないの?』って。さすがにその時は、なんとこたえたものか困りましたね」

 七石は小さく苦笑した。


「そういえば時々知らない人と遊ぶこともあった。口数が少なくて、時々困ったような表情をする人で――いや、でもその人が七石さんだったはずがない」



 当時の記憶は非常に曖昧だった。

 だが七石がキーワードを口にするたび少しずつ、薄い布を取り払うように情景が目に浮かんで来る。明確に思い出せないのは記憶を失くしたのではなく、自分が幼かったせいらしい。

 七石が「忘れているかも知れない」と言ったことを新は思い返す。


 ――それはつまり、俺が憶えているかも知れないという意味だろうか?



「あなたは、お姉さんが大好きだった。でもお姉さんは『がっこう』へ行かねばならず、その間は一緒にいられないのだと言われていたのですよね。そして、帰って来るまでいい子にして待っているように、とも」


 ひとりで遊んでいた記憶はうっすら残っている。

 当時の新にはお気に入りの絵本があって、何度も繰り返し読んでいた。そして家族の『誰か』に読んでもらったことも、ぼんやりだが憶えている。



「ところがある日、お姉さんは学生服の男の子を家に連れて来た。まぁ、普通に考えれば付き合っていた相手なのでしょう。でもあなたには理解できなかった。何故突然知らない人が家にやって来て、自分と姉との時間を奪うのか」


 新はふいに、レトロなイラストのチラシを思い出す。セーラー服の少女の横顔、長い髪。その時に湧いた怒りの感情。

 それから、図書館の記憶に感じた郷愁。嫉妬と切なさ。


「不承不承ながら『知らない人』にも慣れて来た頃、夏休みになり朝からお姉さんと一緒にいられるようになった。だが年頃だったお姉さんは恋人と一緒に出掛けることも増えた。そんな日は暗くなるまで帰って来ない――小さいあなたは余計孤独を感じるようになった」


 ひとりで寂しくびいどろを吹いたことがあった。始めのうちは鳴らず、頬を痛いくらい膨らませて何度も練習していた。

 ぺこん、ぽこん、と鳴らしながら、『誰か』の帰りを待っていた。

 それは家族旅行で『誰か』が購入したものだった。自分への土産ではなかったが、買って来た『誰か』がいない間に、新はこっそり隠してしまったのだ。



「ある日、お姉さんの恋人が迎えに来た時にあなたは泣いて駄々を捏ねた。その日は午後からご両親も出掛ける用事があったようです――普段ならひとりで留守番するか、両親について行ったらしいですが、その日に限ってはお姉さんを出掛けさせまいと大騒ぎしたのです」


 七石の言葉を聞きながら、新は無意識に手を握り締めていた。膝の上に置かれた拳には血管が浮き上がっている。


「根負けしたお姉さんは、その日は出掛けず、恋人と一緒にあなたと遊ぶことにしました。姉だけではなく兄もできたような気持ちになったあなたは喜びました」


 ミクが自分に向ける、年の離れた兄を慕うような気持ちは新にもすんなり理解できた。それが恋愛感情とはまったく違うものだということも。



「午前中たくさん遊んでもらったあなたは、大いに満足し、昼食の後眠りについた――当時は、一度午睡(ひるね)についたら二時間以上目を覚まさなかったのです。その日は特に長く寝てしまい、目覚めた時には夕焼けが辺りを朱く染めていました」


 寝ぼけた頭に焼き付けられた、朱い風景。夕陽に染められた『誰か』の白い肩や足首――クリーム色のワンピース。


「あなたは、静まり返った家の中でお姉さんたちの姿を探しました。やがて庭に向いている小さな和室の方から、苦しそうなうめき声が聞こえることに気付き、そっと襖を開けました。そこにいたのはあなたのお姉さんと――」



「もういい!」


 強い口調で、新は七石の話を遮った。

「知らなくても、憶えていなくてもその先は……俺は、それがショックできみに記憶を売ったのだろう?」


「確かにショックだったのでしょうね……あなたには、お姉さんが命の危険に晒されているように見えたのですから」

「え――?」


 新は戸惑いの表情で七石を見つめ、青年は同情的な視線を新に向けた。

「小さいあなたは、何が起こっているのか理解できなかったのです。なので、あなたは大好きなお姉さんを守らなければと思い、そのために必要であろうものを探しに行きました」

「守るために必要なもの……?」


「彼は、小さなあなたがそんなことをするなんて思わなかったのでしょう。身を守るのが一瞬遅れました。そしてあなたはその時起きたことで余計昂奮して、わけもわからず無我夢中に――」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体何が――いや、それより姉はどうなったんだ?」


 新には、幼い自分が何を持ち出したのかわからなかった。

 武器にしようと思えば、おもちゃの刀や子ども用のバットなど、咄嗟に手に取りそうなものが身近にいくつもあったからだ。


「それを今更訊いてどうするんです? その記憶を持ち続けることがつらかったから、僕に売ったのでしょう?」

 青年の視線はあくまでも同情的だった。

「そんなまさか、そんな理由で姉の記憶が……でも、じゃあ姉は今どこに?」



「ところで、お姉さんの名前は思い出せますか?」

 七石は新の問いにはこたえず、突然問い返した。


「名前? いや」とこたえてから、新ははっとする。

「まさか……まさかそれもきみが――何故そこまで」

 声がかすれた。七石を指差すつもりで挙げた手がガクガクと震えていることに気付いたが、自分では止められなかった。



「お姉さんの名前は、もう予想されているかも知れませんけど、()()さんとおっしゃいました」


 幼い自分はそこまで望んだのだ。そして記憶の中の姉は消えた――しかしその後も姉の存在を匂わすようなものが一切なかったのは何故か。


 ()()()はどこに消えたのか。



「まぁ、通常ならお客さまにはこんなことまで教えないのですが――そうですね、()()()とは付き合いが長いので特別サービスってとこですかね。でも他のかたには内緒ですよ?」

 七石はにこやかに微笑む。


「――で、どうします? この会話の記憶を消しますか? それとも()()を戻しますか?」



 新は息を呑んだ。


 青年の両手には、大小さまざまでカラフルなビー玉が、こぼれ落ちそうなほど載せられていた。


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