第105話 死という正義
両手を床に付けた。
瞳がぐらぐら揺れた。いや、視界? 分からない。悲しいわけじゃない、でも頭の中が──。
わたしは呆然としたまま、死んだアヴィルを視界に写した。彼のことが好きだったわけじゃない。だから、船の仲間が死んだ時と同じだ。同じはず、でしょ?
──でも。
目から涙が垂れる。とめどなく流れ落ちて、下のアヴィルの顔を濡らした。彼の顔にあった血が涙で薄まっていく。
この涙はなに? なんで流れてくるのか分からない。心臓が何かに掴まれて、引き千切れそうになる。
「あ、あっ……え、え……?」
何も見えない。
アヴィルが、死んだ。
なんで? 治らないの? 傷は治るって、言ったじゃない。
アヴィルは、なんで、死んだの……?
「メアリ」
わたしはアヴィルの肩を掴んだ。彼の身体を揺らす。死んでなんかいない。生きているはずだ。だってさっきまで生きてたもの。昨日だって普通に生きていたもの。
彼は死んでなんか──。
「メアリ!」
わたしの肩を何かが触れて、わたしを振り向かせた。銀色の髪の毛、赤の瞳──? 赤じゃない、青色だ。なんで? アヴィルはどこ?
「アヴィルは……? アヴィルはどこ……?」
「死んだ」
「なんで? どうして死んだの……?」
「俺が殺した」
「どういう、こと? 死んだの?」
「俺が、アヴィルを殺したんだ」
ラムズはわたしのことをじっと見据えて、強く言った。彼の言葉がわたしの頭の中でぐるぐる回る。
アヴィルを殺した。
アヴィルが死んだ。
アヴィルを、ラムズが、殺した──。
わたしはラムズの足を掴んだ。服を引っ張る。
「なんで……? なんで殺すの……?! どうして殺したの?! アヴィルは! アヴィルをなんで?!」
「逆になんで殺さないんだ? あいつはメアリを殺そうとしてたんだぜ? メアリも一緒に死ぬか? それなら手を貸してやるよ」
「しぬ……」
わたしは俯いて、床を見た。涙が滴り落ちて、床に染みを作る。
どうすれば良かったの……?
アヴィルは、死ぬしかなかったの? どうしてわたしを殺そうとしたの? 彼はなんで死んだの……。
視界が暗くなった。顔を上げると、ラムズがわたしの前で屈んでいた。
「アヴィルのことは好きじゃねえっつってたろ」
「……そう……。でも、仲は良かったの……。死んでなんて、ほしく、ない……」
「『死んでほしくない』? それはメアリのエゴだ。殺したのは俺のエゴだが、死んでほしくないと思うのもメアリのエゴ」
「なんで? なに、言ってるの?」
彼はわたしの濡れた瞳をじっと見据えたまま、流れるように言葉を紡いだ。
「アヴィルは生きてる限りずっと苦しみ続ける。メアリがいないことに苦しむんだ。だからメアリを追いかけ、閉じ込めようとするだろう。だが、メアリはアヴィルを好きにはならなかったんだろ? それに、一生を添い遂げることはできないと思ったんだろ?」
「う、ん……」
「だからアヴィルは死のうとしてたんだ。メアリがいなくなるのが、苦しむのが嫌だから。さっきアヴィルが自分でそう言ってたじゃねえか。それなのに、生きろだって?」
ラムズは最後、嘲笑を混じえて言った。一つ息を吐いて、吐き捨てる。
「アヴィルのあとを追って死にたいなら、手は貸してやる」
わたしは顔を下げて、自分の掌を見た。アヴィルの血で真っ赤に染まっている。
アヴィルのあとを追う────。
彼とはもう二度と会えない。じゃあわたしも一緒に死ぬの?
「そもそもなんで泣いてんだよ。好きじゃなかったんだろ」
「え──、そう……」
わたしは顔を上げて、そのまま立ち上がった。呆然としたまま、彼の身体を見下ろす。どうして泣いてるんだろう? 今まで海賊の仲間が死んだ時は、泣かなかったはずだ。
「誰かが死んだら、人魚はみんな泣くのか?」
「いや……泣かないわ。でも──」
「なに?」
「彼は……わたしのせいで、泣いて、死んだでしょ……。だから……」
アヴィルの最後の言葉を思い出した。同時に昨日の夜のことも思い出す。あのときと同じ場所が、抓られたように痛い。
わたしはフラフラ歩いて、長椅子に力なく座った。頭の中で色んな思いが交差して、めちゃくちゃになっている。何を取ればいいのか分からない。
彼はわたしに酷いことをした。それでも、人間の言う『仲間』くらいにはなれたはず。ネヴィルじゃない時は、アヴィルは優しくしてくれたもの。わたしのことをずっと思ってくれていた。
わたしは彼が好きだったわけじゃない。でも大切な仲間の一人だった。
そして、そう。わたしは彼が泣きながら死んだところを見てしまった。
────だから、なんだ。
「人魚は、自分が死ぬ時……泣いちゃいけないの……」
「それで?」
「でもアヴィルは……泣いてたでしょ……」
「そうだな」
「わたしのせいで、彼は泣いて──、泣いたまま、死んだんだわ……。だからわたしは……」
涙が抑えられない。体中の水が全て吐き出されているのかと思うほど、止まらない。目からいくつもいくつも雫が現れる。まるで海を作ろうとしているみたいだ。
「海は人魚の涙でできてるのかもしれねえな」
「さ、さあ……? そうかもしれないわね」
頭が回らない。
けど、それだけじゃないような気もする。わたしが気付いていない何かが、何かが──わたしを苦しめている。
心臓や喉や体を痛めつけている。痛い、痛くてたまらない。
これはなに。
どうしてこんなことに。
アヴィルはわたしに何を残したの?
「そんなに泣くとは思わなかった。やっぱりメアリがいないところで殺すべきだったな」
ラムズの淡々とした声が耳に入る。わたしは顔を上げて、ラムズを見た。
「そもそも……なんで殺したの、よ……」
「メアリを連れ去ったから」
「わたしは────殺してなんて! 頼んでない! ここから連れ出してくれれば、それでよかった……! どうして……。こんなことする、意味、あるの? どうしてわたしが嫌がることをするの……」
「俺はメアリが好きだ。だがあんたのしてほしいことをしに来たわけじゃない。あんたの意思は聞いてない」
ラムズはそのまま続けた。
「メアリが他の男に連れ去られて、嫌じゃないわけねえだろ? 俺が宝石を盗まれたら怒るのと同じだ。あいつがメアリにしたことはどうでもいいが、連れ去ったことは許せない」
「わけ、わかんない……」
ラムズはわたしの隣に座った。嗚咽の止まらないわたしの背中をゆっくり撫でる。でも、死んだアヴィルと同じくらい、手は冷たかった。
「俺だってわけ分かんねえよ。なんであんたが泣いてんのか、分からない。人魚のことはそれほど詳しくねえからな」
「どうして嫌がること、するの……。わたしが好きなんでしょう? アヴィルも、ラムズも、なんで? 好きなのに、どうして──?」
ラムズは嘲けるような声で言った。
「俺たちが、そうとしか生きられないからだよ」
わたしは顔を上げてラムズを見た。ラムズは前を見据えて、温度のない声で話す。
「これが俺たちだから。俺たちは人間じゃないから、好きな相手のために変われないんだ。俺がアヴィルを殺したいと思ったのも、殺してしまったのも、俺が人間じゃねえから。メアリと違うから」
「それでも、アヴィルは本当は生きたがっていたかもしれないのに。アヴィルにだって、生きる権利は、あった、でしょ……。それなのに、あなたはそれを奪ったのよ……!」
わたしは顔を覆った。
わけの分からない涙がまだ流れてくる。わたしですら、自分のことが分からないんだ。ラムズやアヴィルのことが分からないのも当然だ。
ラムズは溜息をついて、ゆっくりと言った。
「たしかに俺は、俺のエゴであいつを殺した。だが言い訳みたいに聞こえるかもしれねえが、あいつはたしかに死ぬしかなかったんだ」
「嘘つき! 自分を正当化したいだけでしょ!」
わたしはラムズの方に掴みかかった。視界が海のようにしなって、ラムズの顔がまともに見られない。ラムズはわたしの手を掴んで、優しくそれを離す。
「生きてた方がいいに決まってるでしょ! どうして殺したの?! アヴィルだって……! ラムズだって耐えられたでしょ。なんで、なんで殺すの?!」
「なに言ってんだ? 事実、あいつは死のうとしてたじゃねえか」
「でも、今後わたし以外の女の子に出会えたかもしれないでしょ。これから先の人生で、もっと色々できることはあったでしょ。彼はわたしのせいで──、死んだのよ。それなのに……そんなの許せない」
ラムズはわたしから視線を外す。腰からカトラスを出して、それにふうっと息を吹きかけた。カトラスの剣身に霜が張る。
潤んだ瞳で睨んでいたら、ラムズはあどけなく笑ってそれをわたしに見せた。
「さすがに魔法だぜ。そんなに息は冷たくねえよ」
「あっそ……」
カトラスを右手でくるりと回すと、それをわたしに近付けた。膝の上に置いてある左手に、ラムズがカトラスを当てる。体がビリビリっとして、触れたところが痛くなった。熱い。
「な……、何すんのよ?!」
「熱いよな、氷なのに」
「だから……? 馬鹿じゃないの? やめてよ……」
「まだ泣きやまないのか」
こうして話していても、なぜか涙は収まっていなかった。わたしの体じゃないみたいだ。全く言うことを聞かない。
「生死っていうのは、熱いのと冷たいのと同じようなもんだ」
凍った剣身に、ラムズはつうっと指を滑らせる。本当は痛いはずなのに、それを思わせるような反応は全くない。
「酷く熱いものも、酷く冷たいものも、触ればどちらも火傷をするだろう? 本気で死んでも痛いが、本気で生きていても痛いんだ、──不幸なんだ。それと同様、生きていても死んでいても、幸せの度合いさえ変わらねえんだよ」
ラムズがまた剣身に息を吹きかけると、それはジュージュー音を立てて真っ赤な熱を帯びた。
「どっちだっていいんだよ。生きることも死ぬことも、どっちも同じだ。変わらない。好きな方を選べばいい」
「なに言ってんのよ。生きてる方がいいに、決まってるでしょ……」
ラムズは息を吐いて、わたしの方を見た。青色の瞳が宝石のように七色に輝き、真っ直ぐにこちらを貫いた。
「いいか、死だって正義になんだ。生きることだけが正義じゃない。メアリが俺と共に塔を出ると決めたところから、アヴィルにとって生死の価値が変わったんだ。アヴィルにとって、死が正義になったんだよ。未来がどうじゃない。大事なのは“今の選択”だ」
わたしは俯く。
「大切な人だろうかなんだろうが、相手が死を選んだならそれを尊重しろ。死を選んでるやつを否定すんな。それがそいつの価値観なんだから」
「でも……、でも……アヴィルがぁぁああぁぁ」
涙がとめどなく流れ落ちた。喉や心臓が引きちぎれそうだ。どこもかしこも痛い。人が死んだ。アヴィルが死んだ。アヴィルが、死んだんだ。
今までだって散々殺してきた。死なせてきた。陸でいろんな人を殺してきた。死んだのを見てきた。
でも、違う。ここまで親しい人を失ったことなんてない。彼のことは好きじゃなかったけど、わたしの大切な人だった。仲間の一人だった。
人魚でいる時はみんな泣いてなかった。寿命で死んだんだもの。人間に連れ去られた人魚の死は見たことがない。病気で死んだときはたしかに悲しかったけど、でも──。
それでも、こんなに心が痛いことなんてなかった。アヴィルはそれほど、わたしの中で大きな存在だったんだ。
たまに怖くても、変でも、嫌なことがあっても、わたしを洗脳していたとしても、でも、彼は仲間だった。
────でも、本当に、それだけ?
仲間が死んだという理由だけでここまで泣くの? でも彼はただの仲間だったはずだ。そうでしょ。そうよね。
またチクリと胸を何かが刺した。
痛い。昨日と同じ痛みだ。
もう、分からないよ。
身体が支えきれなくなって、ぐらりと横に傾いた。ラムズがわたしの肩を抱いて引き寄せる。
「つめたい……つめたいよ……。アヴィルじゃないよ……」
「そうだな」
「アヴィルはどこなの……。なんで死んだの……。普通に生きていたのに……。アヴィル、アヴィルは……」
どんなに時間が経っても、ラムズの身体は冷たいままだった。死んだアヴィルの身体から流れていた血の方が、ずっと生きていたように思えた。わたしは彼の胸に顔を埋めたまま、眠りに落ちた。
◆◆◆
わたしは目を覚まし、ラムズの肩から離れる。いつの間にか寝ていたみたいだ。ラムズはずっと起きていたらしい。床の血がなくなって、アヴィルの体も消えていた。
「アヴィルは……?」
「片付けた」
辺りを見渡した。時計を見る。6時だ。朝かな、夜かな。分からない。まだ今は虚だ。
わたしは家の中を見た。アヴィルがいない。
アヴィルが、いない。
彼はいつもキッチンで料理をして、わたしに作ってくれていた。わたしも手伝うと言ったけど、彼は全部一人でやりたがった。
寝室のドアが空いている。アヴィルはわたしのことを抱きしめて寝ていた。好きだよと何度も囁かれて、その声を聞きながら寝た。
昨日もそうだ。彼はわたしを愛した。わたしもアヴィルに言われた通り、彼の血を飲んだ。それがラミアの愛し方だから。そしてわたしは彼と鱗を交換した。これが人魚の愛し方だから。
アヴィルは常にわたしのことを愛していた。あんなに愛されたことなんてあったのかな。今までで、あったのかな。これからも、あるのかな。
気持ちはさっきより落ち着いていた。でも、彼が死んだことはまだ受け入れられない。死んでなんてほしくなかった。アヴィルは大切な人だったのに。
「ラムズでも、アヴィルを、止められなかったの……」
「ああ。俺だってただの使族だ。神じゃない」
「でもラムズは……、こうしてわたしを助けてくれたじゃない……」
「言っただろ。俺たちは縛られてんだよ。そうとしか生きられねえんだ。人間は人のために変われる。だが俺たちは変われない。だから、俺はあいつを助けられないんだ」
彼の言葉をゆっくり噛み砕く。ポツリポツリと言葉を落とした。
「──わたしは人魚として生きたいし、アヴィルはラミアとして生きるしか、ない……」
「そう。そう思うように、俺たちは縛られてる。神から貰ったこの生き様だけはそうそう変えられない。人間なら変われる、選べる。だが、俺たちには無理なんだ」
ラムズは落ち着いた声で、畳みかけるように言った。
「だからお前たちは平行線だったんだ。そしてアヴィルはメアリがいなくなることに耐えられないから、死んだ」
わたしは俯いて、掌を開いたり閉じたりした。波がまた溢れて、落ちていく。
「アヴィル、アヴィル……。アヴィルは……そっか……。わたしが、わたしが塔を出るって言ったから。言わなかったら……」
ラムズが手を掴む。そのあと肩と顎を掴んで、わたしの顔を上げさせた。蒼の瞳を揺らして、強い口調で言う。
「自分のせいにすんな! メアリは自分で選んだんだろ。その道を。生きる道を、外に出るという道を。それならそれでいいんだ。どうせ責めるなら俺を責めろ。アヴィルを殺した俺を責めろ。俺が全部の悪になってやるから」
「ラムズが、悪……?」
ラムズは挑戦的に笑い、嘲るように言った。
「ああ。なってやるよ。俺はあんたの正義の味方であると同時に、あんたにとっての悪役だ。俺に全部の責任をなすりつければいい」
ラムズがアヴィルを殺したから……。
だから、ラムズは悪。
わたしの悪役。
悪役なのにどうして、どうしてラムズが“彼”に見えるの?
わたしを助けてくれたから? わたしを、救ってくれるから?
ラムズは────。
ラムズは、わたしのためにアヴィルを殺したの? わたしのために悪役になるの? わたしが殺されそうになったから? わたしを助けるためにラムズが──。
青い眼が奇妙に嗤って、唇が吊り上がった。
「おいおい、勘違いすんなよ。あんたのためじゃない。結果的にそうなっただけ」
「そう、なの……? どうして否定するの?」
「嘘はよくねえだろ? 俺はあいつがメアリを連れ去ったから殺したんだよ。本当だったら拷問もしたいところだったさ」
わたしはごくりと唾を飲む。彼が嘘をついているようには見えない。本当の、ことなんだ。
ラムズはこちらを見て、小首をかしげた。ふうっと息を吐いて、冷たい声で言う。
「ともかく、そういうことだ。誰かが悪なんじゃない。単に、正義が違っただけ。お前らの正義が交わらなかっただけ。しかし人間も含めて、お前たちは弱いからなあ」
ラムズはこちらを見て嗤った。いつの間にか眼帯を取っている。サファイアの宝石が皮肉のように美しく瞬き、煌めいた。
「俺が悪役になってやるっつってんの。責任の所在を俺に押し付ければいい。責められんのはいつも俺だ。悪いのはいつも俺たちだ。もう慣れてる。いくらでも責めろ。だが真実は一つだけ。悪はない。どう足掻いても」
ラムズがわたしの肩を放す。海のようなサファイアが、わたしから目を逸らした。
「俺たちは変わらねえってだけ」
彼の言葉はわたしに向かって放たれたんじゃなく、その空間を割いただけだった。
──変われない。
人魚であることも、ラミアでいることも、高潔も、嫉妬も、束縛も、一生やめられない。わたしたちはずっと、このまま生き続けるしかない。
アヴィルが死んでこんなに悲しいのに、わたしは人魚をやめることができない。海に帰らないという選択を、今でも選ぶことができない。
わたしはラムズと一緒に塔を出ることを選んだ。アヴィルは、死ぬことを選んだ。彼はわたしがいない生よりも、死を選んだ。
ただ、これだけの、ことだったんだ。
それでも涙が……、止まらないよ……。
「俺は待っててやるから」
わたしは彼の腕を掴んだ。心臓が、喉が、身体が泣き叫んだ。全身が引き千切れそうなくらい、痛くて苦しい。痛い、痛いよ。嫌だよ。悲しいよ。アヴィル、アヴィル、ごめんね。アヴィル────。




