第85話 道化師
目を開くと、玩具の街クリュートに戻っていた。もちろん、くるみ割り人形たちはもういない。
わたしは恐る恐る、一歩足を踏み出した。
──痛くない。
よかった、さっきかけられた呪いは戻ったんだ。歩くたびにナイフで抉られるような痛みがあるなんて、堪ったもんじゃない。
水の神ポシーファルが『地の神に侮られるのは癪だからな』って言っていたの、どういう意味だったんだろう? このナイフの呪いが地の神によるものだったってこと?
わたしはポシーファルとの会話を思い出した。
神を見たというのが、まだ夢みたいだった。本当に会ったとは思えない。でも、あれが神様だってことは体全体で感じた。そして何かを考える間もなく、まるで流水のような出来事だった。
少し怖い思いはしたけど、何事もなく終わっただけ本当によかった。しかもナイフの呪いは消えてるし!
とりあえず歌で生物を操る神力のことを、これからはもうちょっと気にかければいいのかな。でも、どうして水の神ポシーファルはわたしのことを怒ってないんだろう?
(いやまぁたしかに途中で怒られたけど、人間に恋をしたことについては何も言われなかったわ)
もう呪いをかけた以上、怒るのはやめたのかな。許してくれたのかしら。とにかくよかった。
辺りを見渡して、ラムズたちがいないか探す。通りには何人か人が歩いているけど、ラムズやヴァニラはいないようだ。時間はそれほど経ってないように見える。
もしかして、ラムズたちはあの場所からまだ戻ってないのかしら。
目の前に噴水がある。よくある噴水とは違い、かなり精巧な作りだ。湧き出る水もおかしい。
下から上へ吹き出して(ここまでは普通)、そのあと横で渦を描き、宙で消えている。
つまり水が下に落ちてないのだ。くるんと水が曲がって、渦の中心にある水の先が消えている。どこから水が現れるのかも、どこに消えているのかも分からない。
とぼとぼと歩き始める。周りのお洒落な街灯や玩具の家を見て、兵隊に連れていかれる前の疑問を思い出した。
──この街の正体って、なに?
ラムズは、「アサなんとか」って言ってた。あの兵隊たちは、やっぱり神様の使いか何かなのかもしれない。そうするとこの街は神様が創った街なわけで────。
「うわっ!」
痛たた……。ぼうっとして歩いていたせいで、誰かにぶつかった。尻餅までついちゃった。
わたしは顔を上げる。そして、ぶつかった相手の見た目にぎょっとして目を瞬いた。
──道化師?
「ごめんよー。大丈夫? かわい子ちゃん」
「え? は?」
思わず間抜けな声を出した。
幸いなことに、彼は玩具じゃない。道化師に見える服を着ているだけだ。
男の格好で一番目立つのは、頭に被っているフード。フードは二又に分かれたのが耳元まで垂れ下がっていて、金色の房飾りが一房付いている。二又はそれぞれ紫色と黒色だ。
フリンジが右に──左に──。頭を振って目を逸らす。まったく、インチキ催眠術じゃないんだから。
わたしは彼の服を下まで見た。
ダボっとした膝下までのズボンを履いていて、それが左右で色が違う。鋭く先が尖ったブーツに、濃い紫のマントを羽織っている。
「あなた、誰? なに? どうしてそんな変な格好してるの?」
「あーん、趣味? みたいな? 気にすんなって。それより大丈夫?」
彼はわたしに手を差し出した。真っ黒に塗られた爪。チャチャラと金色の細いブレスレットがかかっている。
とりあえずその彼の手を取って、わたしは立ち上がった。
「その二人と一緒?」
後ろを振り返ると、ラムズとヴァニラもわたしのそばに立っていた。あの変な空間から戻ってきたのかしら。
「転んだのか? 阿呆だな」
「うるさいわね。戻ってきたの?」
「そうなの! メアリを探してたの! 見つかってよかったの!」
「んん? なんの話?」
道化師の男が、首を傾げて笑った。ラムズと同じ銀色の髪の毛だ。ラムズは訝しげにそれを見て、小さく呟いた。
「──ラミア」
「あー、違えよ。とりあえず、俺用あるから」
「待って!」
彼の紫のコートを掴んだ。赤い切れ長の眼で見下ろされる。左目は斜めに巻いた黒い布のせいで見えない。ドキリとして、ちょっと後ずさった。
でもここで逃すわけには行かない。
この街のこと、彼に聞かなきゃ。
さっき兵隊に連れ去られる前、ラムズたちは面倒くさがって教えてくれなかったのだ。この街を示す、「アサイーなんとか」っていう言葉
(は? なんでこれが美味しいのよ)。
今彼を逃したら、一生街のことが分からないかもしれない。
「わ、わたしメアリ。教えてほしいことがあるの」
「なに、ナンパしてくれんの?」
「は、はあ?」
「カワイイコに聞かれちゃ、教えねーわけにはいかねーもんな。いーよ、なんでも聞いて」
──なんか、人選間違えた?
彼は紫がかった唇を曲げて、あざとく笑った。わたしは一つ息を吐いて、少しだけラムズの方を見る。ラムズは無関心だ。隣のヴァニラも。
やっぱり彼に頼るしかない。
「その、この街ってアサイ……なんとかって聞いたんだけど。神様が創った街というか、その──」
「あーっと、神造域のこと?」
「そう! それ!」
「それが聞きてえの?」
「うん! 二人が教えてくれないの」
「はあ~? なんだそれ。変なの」
「でしょ、変でしょ。だから教えて」
道化師の彼が首を捻って、パーカーが揺れる。少しだけ悩む素振りをしたあと、口を開いた。
「んーなんも知らねえの? よっぽど世間知らずなお嬢さんなんだな」
「そういうのはいいから!」
「あいあい。神造域っつーのはー、聖具が落ちた場所のことだなー」
「聖具?」
「それも知らねーのかよ」
彼はラムズたちの方を見た。ラムズが気怠そうな声で呟く。
「説明、面倒だろ?」
「まーたしかに? けど女の子には優しくしねえと、な」
この男は、どうやらエディよりももっとタチの悪い軟派な人らしい。本当に人選を間違えたかもしれない。でも文句は言ってられないわよね。教えてくれるんだから。
わたしは期待を込めて彼を見た。彼は眉をひそめて言う。
「神造域っつーのはよ、変なことが起こるわけ。まー、本当に色々と。聖具ってのは神様がくれたもの。例えば金の腕輪とか?」
「それは知ってるわ! 人ぎ──」
危ない危ない。人魚って言うところだった
(正確には、『人魚の王様が持ってる』って言おうとしたのよ。金の腕輪を持っていると神様と話ができるの。だから人魚の王様は、7年に一度神様と話をしている。話す神様は一人だけ選ぶらしいわ)。
なんとか誤魔化して、ニコッと笑う。
「金の腕輪は、神様と話ができる物よね」
「そーそー。そんな感じで、何らかの魔法の力を持った、神様がくれた道具っつー感じだな。聖具は」
「それが落ちた場所が、神造域?」
彼はこくっと頷く。
「そー。金の腕輪は世界に8つある」
「8つも? つまり神造域は少なくとも8つ以上あるってこと?」
「あぁ。今金の腕輪を持ってんのは、ドラゴン、人間、フェアリー、エルフ、人魚、ケンタウロスだっけな」
「あと二つは?」
「行方不明ー」
行方不明なんてことがあるんだ。
でも、人魚が持っているってことは、海は神造域なの? うーん、そんなにおかしなことなんて起こってないと思うんだけど……。
「乙女の森は神造域なの! あ、あそこは金の腕輪が落ちたんじゃなかったの。間違えたの」
後ろでヴァニラがそう呟いた。道化師の彼は目を細めて笑う。
「小さいのによく知ってんねー。メアリちゃんより詳しそうじゃん。あとは例えばペイナウ大陸が神造域かな」
(いつの間に名前を覚えられてる。怖いんだけど)
「ペイナウ大陸? そうだったの? もしかして一年中砂漠なのって……」
「そーそれー。季節変わんねーのも、ずっと暑いのも、神造域だから」
「えっとその……じゃあタラタ海は……」
「タラタ海?」
(わたしたち人魚が住んでいるところは、大陸に挟まれたタラタ海という大洋。
それ以外に、北大陸にメラニ海っていう小さな湾がある。海面がまるで鏡のようになっているわ。そこには人魚や魔魚(魚系の魔物のこと)は近付けないの。入るだけで火傷したようになるというか。熱いわけじゃないわ。湯気は立ってないもの。おかしな場所よね。
もちろん人間も入れないと思う。船が浮かんでいるところは見たことない)
「だって……人魚は金の腕輪を持ってるって……」
怪しまれないかな。この人も人間──よね? よく分からないけど。
赤い眼がじっとこちらを捉えて、チロチロ光った。なんだかポイズスネイクみたいだ。なんでそう思ったんだろう、分からない。
彼は少し首を曲げたあとに答える。
「タラタ海は神造域じゃねーよ。初めに聖具が落ちた場所が神造域になってんの」
「海は初めに落ちた場所じゃないの?」
「ちげーな。金の腕輪を初めに持ってたのは、四人のドラゴン。あとはー……」
「一人のエルフ」
ラムズが後ろから囁くように言った。
これも知ってるんだ。後ろを向くと、ラムズがニヤニヤ笑っているのが見えた。でも、もう口を閉ざしている。ヴァニラはいつも通り、お酒を飲んでいる。
あとは残り三つ? それは誰が持ってたんだろう。ラムズは知らないのかな。
「あと三つはなに?」
「知らん」
ラムズが答えた。本当なんだろうか? 分からない。道化師の彼も首を振っている。
「俺ももう忘れちまったわ。そんなんどーでもいーだろ? とりあえずそいつらがいた場所が神造域んなってる」
「ここも神造域なの? さっきラムズが言ってたわ。プロ……プロプ……」
「神門?」
「それ!」
男は頷いた。
最初に通った神殿のような白い建物、あれが神門っていうのね。
「たしかにクリュートは神造域だぜ。神造域の場合は、必ず入った時に神門が出てくる。門の建物みてえなやつ」
「そう考えると、タラタ海には神門はなかったわ。分かった。本当にありがと」
「どういたしましてー。じゃあお礼にキスして?」
男は自分の頬を指でつついた。
い、意味わかんない。何言ってるの? この人。あからさまに顔を顰めたら、彼は困ったように笑った。
「冗談じゃん。本気にすんなよー。んじゃまたねー」
彼はわたしの頭をとんと叩いたあと、そばを通り過ぎて行った。
わたしはラムズたちの方へ向き直る。ヴァニラはお酒を飲んでばっかりだし、ラムズは飄々とした感じで突っ立っている。
「二人とも、知ってるなら教えてくれればいいのに!」
「知り合いができてよかったじゃねえか」
「──もう、知らない。とにかくここは神造域なんでしょ。変なことが起こってる。つまりこの街の見た目が玩具みたいなのは、神造域だから?」
「そうかもな?」
ラムズはいかにもテキトウな感じで返事をする。全く当てにならない。自分で調べないとダメらしい。
えっと、もう一度頭の中で整理しよう。
神様が地上に落とした不思議な道具、それを聖具という。
聖具が初めに落ちた場所は、神造域と呼ばれる。逆に言えば、聖具は移動することもあるってことね。物なんだから。
神造域の場合は、その地に足を踏み入れた途端、神門が現れる。石柱でできた、白い神殿のような建物ね。
そして神造域では、とにかくおかしなことが起こる。
金の腕輪は聖具のうちの一つ。それ以外の話は──、まぁ、今はどうでもいいわね。
子供が消えているのは、もしかしたら神造域だからかもしれない。ここは金の腕輪が落ちた場所なのかしら。それともまた別の聖具?
さっきの人にもっと聞けばよかったわ。でも、ギルドや宿屋なんかでも話は聞けるはず。
「とりあえず、泊まる宿屋を探しましょ」
「ああ」
「お酒が美味しいところがいいのー」
ヴァニラってやっぱり頼りにならない。ロミューが来てくれた方がよかったかも。わたしは二人を冷たい目で見たあと、歩き出した。街の様子と服はおかしいけど、それ以外はたぶん普通だ
(つまり街を歩いている大人は普通そうってこと。さっきの人を除いて)。
おそらく宿屋は簡単に見つかるだろう。
みんなで歩き出して、ふとさっき兵隊に連れ去られたことを思い出した。二人も同じように、くるみ割り人形に物語を聞かせたのかしら?
「ヴァニラとラムズも、お伽噺を作ったの?」
「ああ」
「作ったのー!」
「ふうん、どんなお伽噺? わたしは人魚姫の話。人魚なのに、自ら進んで人間になるの」
「そりゃお伽噺だな」
ラムズが笑い、続けて言った。
「タイトルを付けるなら、俺は『美女と野獣』で。ヴァニラは?」
「オズの魔法使い!」
「おい」
ラムズはヴァニラの頬を抓った。ヴァニラは「痛ててて」とかわいく唸って、ラムズを睨む。
「大丈夫なの! ちゃんとお伽噺にしたの! 実話じゃないの!」
「ったく。勝手に借りんなよ」
「だって思いつかなかったんだもの~」
「酒の話でも書けばよかっただろ」
二人はなんの話をしてるんだろう?
わたしが疑問に思ってるのに気付いたのか、ラムズがヴァニラから手を離した。
「気にすんな」
「分かったわ。それで、二人の話はどんな話なの?」
「俺の話は──────」
わたしたちは互いのお伽噺を聞きながら、宿を探しに行った。
◆◆◆
宿は簡単に見つかると思ったのに、全くダメだった。それもこれも、全部崇神教──いや、ラムズのせい!